2016-01-24

ネガティブ思考のすゝめ

大人どもは、悩んでいる人にもっともらしい事を言う。それは考えすぎだ!と。確かに、手っ取り早く苦痛から逃れ、目先の結果を求めるには、良い助言だろう。
しかし、だ。人間ってやつは、最終的に死へ臨む。その途上、知性の正体はいまだ見えてこない。知識を蓄積するだけでは不十分だというのか... 理性の正体も一向に見えてこない。道徳を学ぶだけでは不十分だというのか... ならば、思いっきり考え過ぎることに、なんの躊躇があろう。自分を正当化することは置いといて、まずは自己の馬鹿さ加減を素直に受け入れることだ。だが凡庸な、いや、凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼には、これがなかなかできないでいる。どう足掻いても、無知の原理からは逃れられないというのに。言葉で説明できるからといって、理解していることにはならない。無意識の領域にまで叩きこまなければ...

精神の持ち主に、悩みを永遠に消し去ることなどできはしない。ならば、積極的に悩みを抱え込んでみてはどうだろう。くだらない悩みを頭から追い払い、より高度な悩みを求める。精神力とは、鈍感力ではない。精神の弱さと正面から向かい合うことに、精神力の源泉がある。芸術家が鑑賞者を魅了できるのも、自己精神を曝け出すからであって、自我と正面から対決した結果であろう。おそらく彼らは、精神病すれすれの状況を生きている。精神病とは、魂のある到達点なのかもしれん...
大衆は排他原理がお好き... 多数派で安住したいがために、自己の優位性を確保したいがために... ならば、大衆から距離を置いてみてはどうだろう。集団から離れれば、変わり者、異端児、非常識、狂人などと馬鹿にされる。だが、パスカルが言ったように、やはり人間とは狂うものらしい。正気と狂気の境界は、精神病棟の鉄格子によって分けられる。それは、異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?
人間には、自分よりも無知な者を見下す性癖がある。障害者の身体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋の精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、前者が自分の欠陥を認めているのに対して、後者が自分の欠陥を認めないばかりか、人を蔑むからであろう。ならば、狂気を自覚できるぐらいでちょうどいい。自我の狂気を素直に受け入れ、無知を自覚できれば、楽になれそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!とは、この道か。なぁ~んだ、ポジティブじゃねぇかぁ...

1. 明かるい鬱病のすゝめ
人間社会には、ポジティブ思考を崇める人が多い。だが、健全な楽観主義は、ポジティブ思考だけでは実現できそうにない。陽気な楽観主義では思考停止に陥るばかり。ならば、最初から最悪の事態を想定しておくのも悪くない。何かあった時に冷静に対処できる心構えは、ネガティブ思考に発する。悲観的に考えるからといって、悲観して生きることにはなるまい。暗示をかけてポジティブ人格を形成するのも、催眠術にかかったようなもので、結局は同じではないか...
いまだ人類は、絶対的な認識能力に到達できないでいる。物事を相対的にしか判断できないのであれば、あらゆる観念は相対的に生じることになり、悲観的な思考を試さなければ、楽観的な思考も知らないことになる。深刻に物事が考えられなければ、ポジティブ思考は単なる浅はかとなり、自我を肥大化せずにはいられない。
したがって、失敗の経験と悲観的思考は、成功への意欲の活力となるはずだ。失敗を貴重な体験とするためには、失敗をとことん分析すること。結論が出ないというところまで徹底的に。物事の本質を見極めようとすれば、悲観論と楽観論の双方において思考すること。そして、失敗によって悲観論で沈むことも、成功によって楽観論で浮かれることも、避けられるだろう。
猛烈に情報が溢れ、分刻みで仕事をこなさなければならない時代では、能率は心の平穏が鍵となる。いいことばかり考え続けることは無理!というより、すぐに飽きる。ネガティブ思考を実践する勇気を持ちたいものだ。明かるい鬱病ってやつを究めるために...

2. 不安のすゝめ
創造という気まぐれは、いつも思いがけぬところからやってくる。最初から自分の創造性を当てにしても仕方がない。実際、創造性が編み出されるまで信じることもできない。始める前から創造性を発揮しなければ成功しないと分かっている仕事は、あまりない。創造性が編み出される瞬間は、仕事を見誤り、その難しさを知り、計画が頓挫した時に訪れる。要するに、やってみなきゃ分からん!ぐらいでちょうどいい。最初から困難な計画を完全に把握していれば、冒険心も不要となり、面白みがなくなる。キリスト教的な教義では、一度も道から外れたことのない正直者よりも、後悔している罪人の方を好むではないか。
人間は、不安を感じるからこそ、創造力を働かし、創意工夫をしようとする。失敗するからこそ別の角度から観察しようとする。成功よりも失敗から学ぶことが多いのも道理である。豊かで便利な社会で創造性を働かせることは、むしろ困難を強いることになろう。不安と逃避は、同じ道ではない。積極的に不安を感じるからこそ、新たな道が開ける。となれば、不安こそ最強の情念となろう。いや、恐怖の方がはるかに上だ!
大惨事や大事故を経験すると、脳の原始的な恐怖発生システムを崩壊させると聞く。フィアレスってやつだ。九死に一生を得るような体験が、恐怖を感じる脳神経系を麻痺させ、恐怖をまるで感じなくさせるという。死を恐れない、いや、死の概念が脳から抹殺されたと言うべきか。それは本当に勇気という類いのものなのか?限界を超えた恐怖の向こうに、いったい何があるというのか?
死を恐れるからこそ生へ執着できるのであって、恐怖だけが危険を遠ざける道となる。生を浪費する人々に死の概念を伝授した哲学者は誰であったか、確か彼はこう言った... 何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである... と。
都市には高層ビルが立ち並び、人々はその中に収監される。まるで巨大な墓石群が立ち並ぶように。現代人は、生きながらにして埋葬されているようなものかもしれん...

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