しかし、だ。自分の思考回路を見直す事自体を習慣にしてしまえば、どうであろう。信念をば常に検証の対象としてしまえば。ある大科学者は言った... 常識とは十八までに身につけた偏見の塊である... と。自己を欺瞞していては、自己を形成することができないばかりか、欺瞞している自分にすら気づかない。健全な懐疑心と啓発された利己主義こそが、自立と自律をもたらすであろう。最高の人生哲学を学ぶために、見直しの心得とその継続こそが、死ぬ瞬間まで人格と尊厳を保ちうる道かもしれん。尚、昔の格言に、こんなものがあるそうな。
「思いの種を蒔き、行動を刈り取り、行動の種を蒔いて習慣を刈り取る。習慣の種を蒔き、人格を刈り取り、人格の種を蒔いて人生を刈り取る。」
スティーブン・R・コヴィーが唱える人生の扉を開く習慣とは...
- 第一の習慣「主体性を発揮する」... 自己責任の原則
- 第二の習慣「目的を持って始める」... 自己リーダーシップの原則
- 第三の習慣「重要事項を優先する」... 自己管理の原則
- 第四の習慣「Win Win を考える」... 人間関係におけるリーダーシップの原則
- 第五の習慣「理解してから理解される」... 感情移入のコミュニケーションの原則
- 第六の習慣「相乗効果を発揮する」... 創造的な協力の原則
- 第七の習慣「刃を研ぐ」... バランスのとれた自己再新再生の原則
相互依存とは、単なる依存症とは真逆の状態で、主体性や自立性が大前提される。理解、学習、成長を促す信念こそが、相乗効果をもたらすプロセスの始まりであって、単に自由や権利を訴えたり、自己主張を繰り返すだけの行為は、実は依存症に他ならないというわけだ。
まず、自覚の能力があるからこそ、次に想像力、さらに良心、そして自由意志といった能力が連動し、そこに主体性の原則が育まれるという。自分に問いかける能力がなければ、学ぶプロセスも始まらない。そう、質問力ってやつだ。なによりも己を知ろうとする意志に、ソクラテス流の無知の原理が内包される。選択の自由とは、人生の責任を引き受けること。自制を知らぬ者に、依存症と相互依存の違いが分かるはずもない。依存症には攻撃性をともなう。人間には、恐怖に対しては攻撃的に反応し、得体の知れぬものに対しては必要以上に怯える性癖がある。
ところが、互いに自立した者同士が、相互理解によって依存しあえば、建設的な相乗効果が生まれるという。そして、すべての習慣において、P/PC バランスを中心的な概念に据える。それは、「Performance(目標達成)」と「Performance Capability(目標達成能力またはそれを可能にする資源)」のバランスのこと。7つの習慣の本当の力は、個々の習慣にあるのではなく、その相互関係にあるという。
「人間は道徳的な真理について考えることができる。感じることもできる。実行しようと決心することさえできる。しかし、そこまで真理を知り、かつ持っていながらも、全く悟っていないということがある。それは意識よりも深いレベルに、私たちの存在、私たちの本質そのものがあるからである。この最後の領域に入り込んでいる真理だけが、私たちの本質の一部分になる。意識のレベルを超えて自然に無意識にできるものだけが、私たちの人生の一部分になる。こうした真理を、単なる所有物として持つことはできない。真理と私たちの間にいささかでも隔たりがあれば、私たちは真理の外にいると言わざるを得ない。命についての思い、感情、あるいは意識的な望みを持つことは、本当の命を持つことではない。本当の命の目的は、神聖になることである。そうなってはじめて、本当の意味で真理を持つことができる。真理は、私たちの外にあらず、中にあらず、私たちが真理であり、真理が私たちなのである。」
... アンリ・フレデリック・アミエル
1. 人格主義と個性主義
現代では、コミュニケーション、プレゼンテーション、自己PR... といったテクニックがもてはやされる。その風潮は、弁論術がもてはやされたソフィストたちの時代からあまり変わらない。もう一つの方法論に、積極かつ前向きに!笑顔が友達をつくる!念ずれば道は開ける!... といった標語めいたものがある。ある種の精神論と言えよう。
こうした応急処置的な態度を、本書は「個性主義」と呼んでいる。対して、誠意、謙虚、誠実、勇気、正義、忍耐、勤勉、節制、黄金律などを求める態度を、「人格主義」と呼んでいる。なにも個性主義のような技術論や方法論が、不要だと言っているのではない。あくまでも二次的なものであって、人格主義こそが一次的なものだということ。そして、もう一つの原則に「人間の尊厳」を加えている。表面的な成功ではなく、真の成功を見つめよ!と。
テクニックだけに集中するということは、学校で詰め込み式の勉強を繰り返し、丸暗記をするようなもの。知識を多く獲得しても知性が得られるわけではない。道徳をどんなに詰め込んでも理性が得られるわけではない。短期的な人間関係では、個性主義を巧みに利用し、相手の趣味にあたかも興味があるふりをしたり、殺し文句や流行り言葉を用いたりすれば、とりあえず良い印象を与えることはできる。だが、長期的な人間関係となると、どうであろう。社会心理学者エーリッヒ・フロムは、個性主義が招いた結果について、こう語ったという。
「現代社会で出会う多くの人々は、まるでロボットのように機械的に振るまい、自分のことを知りもせず理解することもない。唯一知っているのは、社会が要求しているイメージだけである。真のコミュニケーションをもたらす語らいの代わりに意味のないおしゃべりを繰り返し、心からの笑いの代わりに見せかけだけの笑顔をつくり、心底からの痛みの代わりに絶望感しか味わっていない。こうした人間について言えることが二つある。ひとつは、彼らが治療の施しようがないほど自発性と自分らしさの欠乏に悩んでいるということであり、もうひとつは、実質的にほとんど私たちと変わりがないということだ。」
2. 自己リーダーシップと自己マネジメント
リーダーシップとマネジメントは、意外と混同されやすい。前者は成功のために梯子の掛け違いがないかを判断し、後者はその成功を信じていかに梯子を能率よく登るかを問う。いわば、目的論と方法論の違い。
リーダーシップでは、主に右脳を活用するという。それは、技術というより芸術であり、科学というより哲学であると。対して、マネジメントは、主に左脳にかかわるという。それは、効率的な管理と行動の問題である。しかるべき哲学が伴わなければ、行動はそっぽを向く。右でリードし、左で管理せよ!というわけだ。
確かに、チームにおけるリーダーシップの欠如は深刻な問題である。しかし、個人の行動における自己リーダーシップの欠如は、もっと深刻だ。自分自身の価値観や人生の目的を疎かにして、手段としての自己管理や目標達成ばかりを気にするのでは、社会を生きているのか?それとも社会に生かされているのか?
そこで本書は、「ミッション・ステートメントを書け!」と助言してくれる。つまりは、個人の憲法や信条といったものを。激しく変化する社会の中で、自分だけの不変の信念を持ち続けることは難しい。だが、ミッションが明確であれば、主体性を発揮する行動基盤ができるかもしれない。価値観や原則が明らかになれば、自己の可能性や能力を問い、真の選択肢が見えてくるかもしれない。
「人は変わらざる中心がなければ、変化に耐えることができない。変化に対応する能力を高める鍵は、自分は誰なのか、何を大切にしているのかを明確に意識することである。」
3. 依存症と原則中心
依存とは、無意識に何かを中心に考えることであり、様々な形で現れる。家族中心、お金中心、仕事中心、地位や肩書中心、所有物中心、享楽中心、友達や敵中心、宗教中心、そして最も一般的な形が自己中心であろうか。いずれも自己満足に支えられる。不安定な自尊心を守るために、結局は自己正当化に行き着き、単なる自己愛と真の自尊心の違いも区別できない。相手に依存すれば、相手との衝突がすべてとなる。過剰反応、攻撃性、憎悪、嫉妬、逃避... こうした態度すべてがその結果として現れる。強い依存症は、内面の弱さをひたすら隠し、傷つくことを極度に恐れ、自己を守ることに執着する。
本書は、こうした生活態度を、反応中心の生活であると断じ、原則中心の生活を薦めている。原則は死なず!というわけか。災害や犯罪に遭遇しても破壊されることもなければ、流行りや周囲に惑わされることもないという。原則を中心に据えることによって、家族、お金、仕事、所有物、享楽、友達、敵、宗教、自己、配偶者など周りのすべてが、バランスよく見えるようになると。心の垣根を作るのは、相手ではなく、己にあるというわけである。そして、成功者の共通点は、嫌がる感情を目的意識の強さに服従させる力を備えているという。
「終極において、人は人生の意味は何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。一言で言えば、すべての人は人生に問われている。自分の人生の責任を引き受けることによってしか、その問いかけに答えることはできない。」
... ビクター・フランクル
4. 相互依存と相乗効果
「私的成功が公的成功に先立つ!」
自立や主体性は、いわば相乗効果の前菜のようなものか。というのも、相乗効果こそが、原則中心のリーダーシップの本質であり、人生における最も崇高な活動としている。一般的な傾向として、人は自叙伝に照らしてみて、他人のニーズや欲求が分かっていると思い込むことが多いという。
確かに、人は、自分の知覚のレンズを通してしか見ることができない。人を理解するという行為そのものが、極めて主観的と言わねばなるまい。そこには、ぼんやりとした期待像が潜んでいる。誤解や失望の類いは、そうした思惑から生じる。日常に散乱する無意識に生じる期待は、ほとんど言わず語らず、暗黙のうちに芽生える。互いに見返りを求めるのが世の常で、揉め事の大半は互いの期待の相違に端を発する。それゆえ、自立を前提とした相互依存でなければ、信頼も築けないというわけだ。ましてや自己欺瞞では、誠実さの欠片もない。
「相乗効果の本質は、相違点、つまり知的、情緒的、心理的な相違点を尊ぶことである。相違点を尊ぶ鍵は、すべての人は世界をあるがままに見ているのではなく、自分のあるがままに見ているのだということを理解することである。」
5. 豊かさマインドと欠乏マインド
効果的なリーダーシップの習慣は、自分も勝ち、相手も勝つということ、そして、当事者全員が勝つということ。だが、マネージャの成功は、他のマネージャの失敗を意味するという仕組みをつくる組織がある。競争の原理を、協調の原理から遠ざける形で実践する組織が、現実にある。そして、損得勘定に走り、ゼロサムゲームと化す。そのような組織では、成功すれば自分の手柄にし、失敗すれば他人のせいにするような巧みな政治屋が出世する。成功の場面では、ヒーローを無理やりつくり、煽り立てる。
影で人柱となってきた人々が、縁の下の力持ちという存在が、いかに社会を支えていることか。だが、人間社会には、経済的な成功者や目立つ人物を称えるばかりでなく、同時に、一人に責任を押し付ける風潮が共存する。
競争原理が悪いわけではない。直面する問題によっては必要である。だが、持続性においてはどうであろう。長期的な成功を考慮するならば、相互依存において Win - Win が必要だという。それは、5つの柱で支えられるという。「人格」に始まり、「関係」に進み、「合意」がつくられ、さらにそれらを支える「システム」が育まれ、Win - Win の「プロセス」によって達成されると。Win - Win の実現に必要不可欠な人格は、豊かさマインド、すなわち人を満足させることだという。豊かさマインドは、深い内的価値や安定性に支えられた自尊心から生まれる。威信、名誉、利益、権限などを、容易に人と分かち合う奥行きがある人物というわけだ。
対して、欠乏マインドは、他人との比較から得られる反応的な自尊心を持ち、他人の成功は自分の失敗を意味するという。秘かに他人の不幸を望むような嫉妬心の塊というわけだ。そのようなリーダーは、イエスマンやご機嫌とりなど自分より弱い連中で周りを固め、意見の相違を反抗や反発と捉える。
しかし、公的成功とは、他人を負かすことを目的としない。豊かさマインドに富んだ人格者は、テクニックをはるかに超越する力を備えているという。意見の相違に向けられるマイナスのエネルギーを排除し、積極的かつ協力的なエネルギーを生み出し、有効なパートナシップを得ることに向けられると。しかも、Win - Win の実行協定には、人を解放する偉大な力があるという。
6. 内から外への解放
マネジメントの主要概念に、時間管理がある。生きる時間は限られており、重要事項を優先することは、まさに時間との戦いだ。目標を設定するということは、自己の中に義務を植え付けるようなもの。チェックリストや予定表など、ツールがいくら高度化しようとも、ToDo リストは溢れるばかり。惚れっぽい酔いどれは、刺激に対して瞬間的に反応してしまう。刺激と反応の間に、時間を見出せる余裕のある人間になりたいものだが...
では、豊かな感受性と、鋭い洞察力の持ち主であれば、時間を支配することができるだろうか。時間からの解放とは、内面からの解放に他ならない。ただ、言葉で説明できるからといって、本当に分かっていることにはならない。
「神様は心の内側から外側に向けて働きかけるが、この世は外側から内側に向けて働きかける。この世は貧民窟から人々を連れ出そうとするが、主は人々から邪悪や汚れた面を取り去り、自分自身で貧民窟から抜け出られるようにする。この世は環境を変えることによって人間を形成しようとするが、主は人間自体を変え、それによって人間みずからの手で環境を変えられるようにする。この世は人の行動を変えようとするが、主は人の人格を変えることができる。」
... エブラ・タフト・ベンソン
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