老衰とは、自分の生き方に疑問を感じることができなくなった状態を言うのだろうか。しかも、言い訳に努めようと必死ときた。自分自身をも欺瞞して。そして、人のせいにし、社会のせいにし、そこに生き甲斐を求める。馬鹿は死ななきゃ治らない... と言うが、酔いどれ天の邪鬼は、死んでも、はたまた生まれ変わっても、治りそうにない。
もちろん、若いうちは自信を持ち、野望を抱くことも大切だ。しかし、歳を重ね、充分に経験を積んでもなお、自信や野望に縋らなければ生きられないとすれば、それは辛い。そして、怒りと苛立ちの奴隷となる。自信に頼って生きれば、自信を失った時の失意も大きい。失うものがなければ、それが強みとなろう。成功者は信念に縋ろうとするだろうが、失敗者は信念をば検証対象とすることができ、それが強みとなろう。無理やり楽観的に考え、ポジティブに考えなければならないと強迫観念に駆られるよりは、自然体でいることだ。
「人生の目的は、目的ある人生を生きることである。」とは、誰の言葉であったか。悲観論に陥ってもなお、笑い飛ばして生きられるとすれば、真理の力は偉大となろう。生きることに情熱さえ失わなければ、なんとかなる。ただし、信念を欠けば仕事が成し遂げられないのも、これまた事実。この按配は、生涯のテーマとなろう...
「苦難を笑う術を身につけなければ、齢を重ねるうちに笑うネタがなくなる。」... エドガー・W・ハウ
物事を知れば知るほど自信を失っていく。知識を得れば得るほど物事が分からなくなっていく。自信とは、無知の度合いによって生じるものなのか...
「学問」とは、学んで問うと書く。学べば新たな疑問がわき、疑問を解決しようとしては学ぼうとする。その精神は、健全な懐疑心と啓発された利己心によって支えられる。問い方を知らなければ、進化の道は閉ざされるであろう。
一旦、あらゆる常識や慣習を否定し、あらゆる存在を否定してみることだ。自己存在でさえも。自己を真に理解しようとすれば、自己批判が第一歩となる。そして、自己否定に陥り、自己嫌悪となる。まさに自滅への道だ。それでもなお、魂が平静でいられるならば、真理の力は偉大となろう。過去の栄光に縋っても仕方がない。現在の肩書に縋ったところで虚しいだけ。人間は時間を抹殺しながら生きるしかない。けして後戻りのできない道を...
「死に対する嫌悪感は、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望感に比例して増大する。」... ウィリアム・ヘイズリット
1. 常識嫌悪論
孤独愛好家の中には、明るい自閉症、社交的な人間嫌いといった人々がいる。歴史の偉人たちにも、多少なりと自閉症を患ったとされる人物は少なくない。アンデルセン、ジェーン・オースティン、エミリー・ディキンソン、ニーチェ、あるいは、ミケランジェロ、ベートーヴェン、モーツァルト、さらには、ニュートン、アインシュタイン、アラン・チューリング... 他にもたくさんいるはずだ。彼らが人類の進歩に貢献し、未来の道筋を示してくれた。サヴァン症候群もこの系列に位置づけられる病の一つで、知的障害を抱えながらも限られた分野で驚異的な才能を持つと言われる。ずば抜けた計算能力や記憶力、機械操作力、空間認識力、臭覚や味覚や聴覚の識別能力、音楽や絵画の才能など... こうした事例は、自我と正面から対峙した結果生まれる才能であろうし、彼らが陽気な楽観主義者だったとは考えにくい。真の楽観主義者とは、解決の糸口を見つけようと努力する人のことを言うのであろうか。
ある大科学者は言った... 常識とは、十八までに身につけた偏見の塊である... と。自分の才能を極限にまで高められる人たちにとって、社会常識ってやつは、凡人のための防波堤ぐらいにしか映らないのかもしれない。そして、常識人ほど、それを自負する者ほど、狂気を見下す。多数派に属すという安住を拠り所にして、自分自身が集団的狂気に憑かれていることにも気づかないのである。ある確率で遺伝子異常や奇形児を生み出すのは、人類が進化するための必要なリスクであろう。リスクを背負いたくなければ、単細胞生物のままでいることだ。
「人類に与えられた最高の祝福は、狂気によりもたらされた。狂気は神からの贈り物である。」... ソクラテス
2. 選択しないという選択肢
ある人はすゝめる... 結婚する方がいいと。ある人はすゝめる... 結婚しない方がいいと。どちらも後悔するというわけか。「とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる。」とは誰の言葉であったか。バルザックが言ったように、「あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている。」というのは本当かもしれん...
あらゆる選択肢は、危機感を煽ることによって誘導される。危機感が合理的に働けば、正しい行動へ誘導できるという考え方もある。行動経済学で、ナッジと呼ばれるやつだ。自己存在をちょいと刺激してやれば、人は誘導されやすい。流行に乗り遅れるぞ!などと、ちょいと焦らせるだけで新製品に乗り換える。コンピューティングの脆弱性は、完全には撲滅できないだろう。セキュリティ業界は、自らウィルスをばらまいて危機を煽れば、存在感を維持できる。それは、なにもコンピューティングの世界だけではないし、新しい概念でもない。大昔から、住居には鍵の概念が植え付けられてきた。それは自己の行動範囲を規定するものであって、自己存在に関わる問題である。ロビンソン物語が示す自然状態では、不毛な無人島でさえ、何かに怯えながら縄張りを確保するために柵をこしらえる。古来、生きるために自己の居場所を求めるのは、絶対的な動機であり続けてきた。「自分が何者かは、自分が何を為すかである」とは誰の言葉であったか。実存とは、選択に他ならないというのか。生きる証とは、選択に他ならないというのか。しかしながら、人には選べないものが一つある。選択しないという選択だ。
時間の矢は、いつも無情だ。希望は過剰な期待によって絶望へと招き入れ、過去は片時も休まず未来を抹殺し続ける。行いを悔いたところで、神は、おとといおいで!と嘲笑ってやがる。責任が持てなければ、未来を覗くのにも勇気がいる。運命を知り、一旦絶望したら取り返しがつかない。ただ、絶望よりもタチの悪いものがある。偽りの希望ってやつだ。「絶望とは、絶望的な無知である」とは誰の言葉であったか。もし、希望も絶望も選択しないという中庸の哲学があるとすれば、帰依したい...
「真理をみる必要のない人々にとっては、人生はなんと気楽だろう。」... ロマン・ロラン
0 コメント:
コメントを投稿