2016-01-17

責任転嫁社会

女という未知の生命体は、不意打ちに恐ろしいことを言う... 責任とってね!
Facebook をチェックすれば、面識のない女性のステータスが「交際中」とはこれいかに?ハートマークのおまけ付きだ!確かに、コメントを交わした。なにかの拍子にチェックが入ったのか?それとも、わざとか?いずれにせよ、履歴が残れば、本命からの追求は避けられない。仮想化社会とは、実に恐ろしい!責任までも仮想化してしまのだから...
尚、これは、友達の友達から聞いた話である。

人はみな、苦痛、恐怖、不安といった情念を持っている。こうした感覚が麻痺すれば、おそらく進化しないだろう。心頭を滅却すれば火もまた涼し... と言うが、それは鈍感になることを唱えたものではあるまい。修行を積んだ者は、飛び込んできた一の矢を自然に受け入れられるように見える。感性を解放するかのごとく。
しかし、凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼は二の矢を返す。この苦痛はあいつのせいだ!この不安は社会のせいだ!と。この点、三役揃い踏みは責任の所在を曖昧にしながら、巧みに生き延びる術を熟知している。政治屋は権威を右から左へ序列をつけては地位を安泰せしめ、報道屋は情報を右から左へ煽っては存在感を強調し、金融屋は価値を右から左へ流してはサヤ取りに御執心。そして、酔いどれ天の邪鬼も負けじと無責任な文章を右から左へ、まったりと長ったらしく書き続ける...

1. 責任のアウトソーシング
文明社会が高度化すればするほど、利便性という怠惰の代償を払う。社会の利便性が犯罪の利便性を助長すれば、人間は悪知恵をますます高度化させる。そして、悪魔になろうとしているのか?
生物界には、自然環境から育まれてきた危険回避能力というものがある。危険を察知できるからこそ、創意工夫が生まれる。安全で便利すぎる社会が、人間を退化させるのか?これは、シュンペーターが唱えた創造的破壊への道か?彼は、資本主義はその成功によって自滅すると語った。労働効率が高まれば、単位成長当たりの雇用創出は減っていく。これが経済原理というものだ。経済効率が高まれば、人間そのものが不要となり、余剰人口が増殖する。人々は存在の場を失い、精神病棟は活況となる。
高度な情報化社会ともなれば、仮想空間になんでも質問を投げれば、誰かが答えてくれる。そのうち機械が答えてくれるだろう。自分で考えずに済むとは、なんと便利な!そのうち質問の仕方も分からなくなるだろう。知識の豊富な人はそれなりに失敗も経験してきたはず。だから、対応力も応用力も柔軟で、その行動は多彩となる。しかし、そのプロセスを見ようとはせず、結果ばかりを当てにすれば、知識を与えた者のせいにできる。人を当てにする者ほど、人のせいにしながら生きられるという寸法よ。贅沢病が、知らず知らずのうちに人生を不幸に導くゲームを続けさせてしまうのか?まるで麻薬だ。たかがスポーツであっても、アスリートに多大な期待をかけ、ゲームに負けると大罪人のごとく攻め立てる。すべては、あいつが悪い!あいつとは誰だ?誰でもいい。ストレス解消さえできれば...

2. 自動責任
道具は機械にとどまらず、便利に利用できるものすべてが道具とされる。サービスを提供する人が便利な存在ならば、やはり道具とされる。だから、なんでも平然とアウトソーシングできる。育児、教育、介護などすべてを、あるいは道徳観や価値観を、はたまた理性や知性までも、そして文句だけ垂れていればいい。
安全認識もまたアウトソーシングされる。安全に対して普通、公共の交通機関はその運用組織が責任を負い、自家用車は所有者や運転者が責任を負う。しかし、自動車の自動ブレーキシステムってやつは、衝突が回避できると大々的に宣伝される。誰が事故の責任を負うのか?製造者責任は拡散する一方。自動の車なのだから、人間が余計な配慮をすべきではない、といえばそうかもしれない。そして、自動車が危険物だという認識を麻痺させ、運転免許証の意味もなくなり、自家用という所有の概念までも崩壊させる。将来、人間による車の運転は危険すぎる!として禁止されるのかは知らんよ。
これは、依存症社会の始まりか?自己責任、自己管理、自己防衛までもアウトソーシングすれば、自立や自律の精神までも放棄することになる。人間は社会を生きているのか?それとも生かされているのか?と問えば、アリストテレスの「生まれつき奴隷説」も輝いて映る。
とはいえ、自立などと片意地を張らなくてもええじゃないか。幸せになれるなら奴隷も悪くない。そして、責任転嫁の渦と化しても心配はいらない。どうせ誰も責任をとらない。そもそも責任がなんであるかも分からない。究極の責任転嫁は、神のせいにすること。それで人々が救われるならば、神も本望であろう...

3. 専門家崇拝
人のせいにしながら生きている人ほど、プロが運営しているから安心!専門家の意見だから間違いない!などと根拠のない言葉に縋ろうとするものらしい。その根底には、自分だけ楽をしたい!自分だけ損をしたくない!といった願いが込められる。プロが本当に信用できるのか?専門家が本当に当てになるのか?どんな学問分野でも、専門家の間で意見が違うではないか。
そこで、自分自身の専門について、どれほど理解しているかを自問してみればいい。そして、すっかり理解した!と自負する者ほど、他の専門家、すなわち他人を当てにすることになろう。理解することが不可能なほど難しいから専門分野なのであって、もし本当に理解していると言うなら、大した専門性がないということだろう。知識とは奇妙なもので、知れば知るほど、次々に疑問が湧いて出てくる。自分に分からないものは、すべて向こうが悪いと考えて済ませられるのであれば、この世に怖いものはない。夜郎自大とは、この道か...

4. 大衆神話
人間社会には、これといった特徴もなく、社会性もなく、ばらばらな集まりの大衆を金科玉条のように賛美する神話がある。大衆ってやつは、社会的腐敗への反抗の結果生じたものであろう。しかしながら、大衆もまた体臭を放つ。おそらく大衆の危険性は、反抗にあるのではない。反抗は単なる抗議であり、社会参加の一形態と見ることができるからだ。むしろ危険性は、参加能力の欠如の方にありそうである。地位や権威などとは無縁の大衆にとって、社会構造そのものが不合理で不可解な存在であり、時には悪魔にも映る。どんなに合理的な政府であっても、専制独裁政権に映るものだ。要するに、単なる批判対象として、愚痴の矛先として、ストレスの捌け口としての存在である。
したがって、大衆を動かすためには非合理的な言動に訴えることになる。しかも、権力者が変革を約束しさえすれば、意外と素直に従おうとする。既成の社会構造さえ変革してくれるなら、どんなことでも受け入れようと。それ故、権力のために権力を求める煽動政治家の餌食になりやすいという傾向は、民主主義が興盛となった古代ギリシアの時代からあまり変わっていない...

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