2016-07-24

"構造人類学" Claude Lévi-Strauss 著

「人間は自分の歴史をつくる。けれども歴史をつくっていることを知らない。」
これは、マルクスの有名な定式だそうな。レヴィ=ストロースは、前半の言葉に照らして歴史学の性向を語り、後半の言葉に照らして民族学の正当性を語り、二つの学問は相補関係にあると主張する。そして、時間論では通時性と共時性の、認識論では意識と無意識の協調を唱える。彼は、文化人類学や社会人類学という用語が自然人類学と区別され、独立した学問となることを危惧しているようである。
人間の本性が露わになりやすいのは、無意識の領域であろう。客観的でありたい!と願うのが学問というものであるが、無意識に身を委ねるために主観を存分に解放してみるのもいい。とはいえ、本書が構造主義に立脚し、数学的体系を求めているのも確かで、言語学的な音韻体系から人間社会を捉えようとする。なるほど、主観と客観は調和してこそ互いに輝くというわけか...
社会現象の領域で科学がなしうるものとはなんであろう。人類学が、地理学、心理学、社会学、言語学、そして科学などの中間に位置づけられ、学際的研究となるは必定。言うまでもなく、一人の人間が総合的に学問を極めることは不可能だし、何かの専門を選択せざるを得ない。凡人では尚更。しかしながら、他の学問にある程度の理解がなければ、自分の専門にも暗くなる。真理の探求に知識の縦割りなど無用であろう...

エドワード・バーネット・タイラーは、こう書いたという。
「われわれが諸事実の総体から一つの法則を引き出すことができたときには、詳しい歴史というものの役割はすでに大きく乗りこえられてしまっている。磁石が一片の鉄を吸い寄せるのを見て、その経験から磁石が鉄を吸い寄せるという一般法則を引き出すにいたったならば、なにも当の磁石の歴史などを苦労してきわめる必要はない。」
人間が、本当に人間というものを客観的に極めてしまえば、歴史というものを苦労して学ぶ必要がなくなるのかもしれない。学とは、人が無知を自覚して初めて生起するもの。人間は永遠に無知であり続ける。だからこそ人生は退屈せず、謳歌できる。
学問が謙虚な立場を失った時、厳密な研究を放棄することになる。仮説を立てることは思考を活性化させる試みであり、仮説が信仰化すると思考はたちまち停止する。常に思考停止を拒もうとすれば、結果よりも思考仮定の方を重視するしかあるまい。結論や法則ってやつは、真理の仮の姿、あるいは、一時的に心を落ち着かせる場、と思うぐらいでちょうどいい...

本書は、未開社会における親族関係、社会組織、宗教、神話、芸術において構造分析の功績を残した論文集である。ここには、自然科学における同じ厳密さをもった方法を、文化研究にも当てはめたいという願いが込められる。最終的に、社会現象に関与した人々の人体構造、すなわち個々の脳や神経などの物理現象に還元できるとすれば、宇宙論や原子論と結びつけた人文学的集合論とでも言おうか。実際、文化交流の意義と文化の累積が、数学的に語られる。結局は主観を研ぎ澄ませ、ア・プリオリな感覚に身を委ねるあたりは、カント風弁証法を思わせるのだけど。ア・プリオリとアンチノミーは、よほど相性がいいと見える。ちなみに、数学の集合論はパラドックスとすこぶる相性がよく、不完全性定理はここに発していることを付け加えておこう。
「私の考えを単純化していえば、言語記号はア・プリオリには恣意的だが、ア・ポステリオリには恣意的でない。」

また、レヴィ=ストロースの思考法がデカルトに発し、ルソーの影響を受けていることが見てとれる。実際、彼はルソーを人類学の祖と評したそうな。彼が好んで引用したルソーの言葉が、これだという。
「人々について知りたければ、身のまわりを見まわすがよい。だが人間を知ろうとするなら、遠くを見ることを学ばなければならない。共通の本性を発見するためには、まず差異を観察する必要がある。」
デカルトは、自分自身が思惟することによって自己存在を問うた。ルソーは、他人の視点から自分が何であるかを問うことによって自己存在を問うた。レヴィ=ストロースの学問態度にも、人間は思惟する存在である... とする考えが基礎をなしている。
社会における相対的関係から自己存在を見つめるということは、そこに共感の情念が生じる。自分を知ろうとすることは、他人を知ろうとすること。その逆も真なり。異文化を知ろうとすることは、自文化を知る願望の顕れであろう。あらゆる文化説が比較論に縋るのは、相対的な認識能力しか持てない人間の宿命である。そして、あらゆる学問は、人間とは何か?自分とはいったい何なのか?を問うているだけのことかもしれん。人間ってやつは、自分の棲家である宇宙を理解しようとし、自分の依存する価値の正体を理解しようとやまない。知への渇望は、己を知ることに他ならないということか。実は、普遍性の正体は、自己の中にあるのかもしれん...

1. 未開とアルカイスム
人類学に関する書に触れると、必ず「未開人」や「野蛮人」といった類いの用語に出くわす。貧弱な文化の代名詞として。人間ってやつは、いつも優越感に浸っていないと落ち着かない。
しかし、未開人の文化は本当に未開なのか?実は、こちらの方が純粋に進化した社会ということはないのか?文明人は経済合理性に邁進してきた。だがそれは、自然合理性に適ったものなのか?まず生物は、何かに依存しなければ生きてはいけない、という自然法則があり、何よりも自然に依存している。だが、便利な社会を求めて機械文明を発達させた挙句、人類は視覚や聴覚を鈍らせ、身の回りの危険察知能力までも衰えさせた。電子機器の溢れる現代社会では、電源を失って電力網や通信網が麻痺すれば、すべてが機能停止に陥る。人体そのものが電子運動で成り立っているので、それも自然回帰なのかもしれない。現代人は、自然に依存していることすら気づかなくなっていく。政策立案者は相変わらず消費と生産を煽ることしか示せず、森林破壊、埋め立て、乱獲の類いは後を絶たない。
おまけに、現代社会では自殺者が増加傾向にある。その一因に人口密度の集中があると言われる。自己空間を失えば、社会嫌いとなり、人間嫌いとなり、自己嫌悪に陥り、ついに人格までも失う。機械文明が生産性を高め、人口増加を煽り、いまや人類は地上に溢れに溢れている。だが、増えすぎた生物は淘汰されていくのが生物界の法則である。高度な文明社会は、個人の自己破壊だけでは飽きたらず、集団のゲシュタルト崩壊へと導くのであろうか。ますます依存症を強めるとすれば、アリストテレスが唱えた「生まれつき奴隷説」が一段と輝いて見える。
レヴィ=ストロースは、「アルカイスム」という用語を持ち出す。人類学における古典主義的な思考の役割を問う言葉だが、太古礼賛とでもしておこうか...
「さしあたり重要なことは、民族学が『未開』という用語になおつきまとっている哲学的残滓から解放されるよう手助けすることである。真の未開社会は調和的な社会であるはずである。その社会は何らかの形で自足的な社会であるから。反対に、世界中ほとんどいたるところで、いちばん真正なアルカイック社会と見えるものが、すべて不調和の苦渋にみちた社会であり、そこには見まごうかたなく歴史的事件の刻印が押されている。」

2. 半族と結婚
興味深いものに、「半族」という概念を紹介してくれる。双分組織や双分制のことで、アメリカ、アジア、オセアニアの原住民にしばしば見られる社会構造だそうな。さらに、競技や儀式のための半族を再分割している外婚的半族、秘密結社、男子結社、年齢クラスといった複雑な制度を持つブラジルの種族、あるいは、相互に異質な多種多様な文化が一時的に結びつくアステカやインカの種族も紹介してくれる。
部族、氏族、村落では、組織を二分し、互いの親密な協働から潜在的な敵対心に至るような関係を保つという。厳しい環境下で生き残ることが難しくなれば、集団組織の単位で結びつきを求めることは考えられる。集団単位の役割分担は、ある種の集団的合理性と言えよう。人間が単なる寂しがり屋なのかは知らんが、なんらかの必要性があって群れるのであろう。政治の起源は、こうした保存保障的な考えから発しているように映る。
しかしながら、集団が結合すると、宗教戒律や法律などの儀式をめぐって優先権を争い、逆に不合理となることもしばしば。社会形成の基本は親族や血縁にあるのかもしれないが、同時に骨肉の争いとなりやすい。人間ってやつは、最も近い人間を憎む性癖を持っている。
また、社会形成の目的が、相互の欠点を補い、安定社会を求めるためだとすれば、結婚は重要な意味を持つ。結婚による交換保障が成立するのは、王侯社会や武家社会などでも見られる。一夫多妻制もまた、政治的なものと経済的なものの統合した形で保障する。子供を産むことができる女性は、血縁交換社会における大きな役割を担ってきた。そのために利用されてきた苦い歴史がある。婚姻交換が不平等条約をもたらし、政治的、経済的に従属させられる。父方と母方のどちらの家名を称すか、その選択だけで財産相続が正当化できれば、目の色も変わる。現在でも、生活能力のために離婚したくてもできない夫婦は少なくない。安定のための従属関係というのは確かにある。
一方で、子孫の安定という観点から、近親婚を禁止する傾向が一般的に見られる。あまり近い親族の交わりが奇形児を生みやすいことは、まさか遺伝子工学から導かれたものではあるまい。それが経験的なものなのか?本能的なものなのか?あるいは、交叉イトコ婚や平行イトコ婚などで可否が規定されるのは、地域社会における適した氏族の距離というものがあるのか?レヴィ=ストロースは、こう指摘している。
「親族体系が、あらゆる社会で個人の関係を規定する第一の手段であると決めつけるのは正しくない。」
様々な特徴が調和した多様な集団から真の社会力が育まれる、といったことを人間は本能的に知っているのだろうか?社会集団の基本原理は、相互のタイプを区別することにあるように思える。それは、なんでもいいから種別して、自分自身を優越できるカテゴリーに属させようとする性癖である。そうでもしないと自分の幸せが確認できないからであろう。相互的な義務を負い、対称的な権利を履行する半族が、同時に階級を作り、不平等や差別をこしらえる。女性は伝統的な男社会を生き抜くことに苦労してきたが、それが大奥のような女社会であってもやはり苦労するものらしい。自己にとって邪魔な存在を遠ざけ、心地良い存在を近づけるのが人間の悲しい性。ちなみに、いじめや誹謗中傷の類いは、ストレス解消のための心地良い存在として近づけようとする行為であり、ある種の依存症である。
社会形成の原理が半族にあるとすれば、人間もまた半人というわけか。人間ってやつは、生まれながらにして男女の性に分けられ、片輪の宿命を背負わされる。無い物ねだりという欲望の源泉は、ここにあるのかもしれん...

3. 神話について
「神話的思考の特殊な性格を説明しようと望むなら、われわれはそれゆえ、神話が言語の内にありながら、そのかなたにも同時にあるということを、明らかにすべきであろう。この新しい困難は、これもまた言語学者にとって未知のものではない。言語自身も、種々異なった水準を含むではないか。ソシュールはラングとパロールを区別することによって、言語が相補的な二つの側面をもつことを示した。一方は構造的であり、他方は統計的である。ラングは可逆的時間の領域に属し、パロールは不可逆的時間のそれに属す。すでに言語においてこの二つの水準を区別することが可能なら、その第三の水準を定義することを拒むものはない。」
言語の意味機能は、直接の音にではなく、音が互いに結合される仕方に結びつくということ。これに気づいた時、言語学は矛盾から解かれた。神話ってやつは、ある種のメタ言語のような働きがある。その中に埋め込まれる主題や場面は、言語学で言うところの音素のようなもので、神話の体系と結びついて意味作用を持つ。
では、神話の意味機能とはなんであろう?レヴィ=ストロースが言う第三の水準とはなんであろう?ラングとパロールは時間体系において区別されるが、神話もまた二つの時間体系の特性を合わせ持つ。昔々... と始まるお伽話は太古の出来事でありながら、恒常的な構造を持ち続け、現在の教訓として生き続ける。そこに、懐かしさを覚えるのは、忘れかけている何かを思い出させてくれるからであろう。宗教や信仰との結びつきも強い。
常に神話は、神や悪魔を擬人化し、対象や観念や情念の擬人化に努めてきた。これが社会へのメッセージだとすれば、大衆に分り易く訴える方法が用いられ、善を唱えるために悪を怪物化し、真実を語るために虚偽の愚かさを強調する。まさか神話の目的が矛盾を編み出すことではなかろうが、それらを対照的に配置することによって説得力が増す。これが神話の原理であろうか?そもそも人間精神が矛盾で成り立っている。この矛盾を高次で抽象化することが、第三の水準なのか?それが普遍性ってやつか?真理ってやつは、矛盾とよほど相性がいいと見える。この世から弁証法が廃れることはなさそうだ。

4. 仮面文化
真理と虚像の二元論は、神話にとどまらない。民族学でよく見かける仮面は、人格の投影であろうか、それとも理想の反映であろうか。入れ墨をするのは、別の人格を欲しているのだろうか。トーテムポールには人の顔や身体のシンメトリーが刻まれ、語る柱を出現させる。ある種の偶像崇拝と言えなくもないが。
本書は、こうした塑像的表現と様式的表現に、「ベルソナージュの支配」という言葉を当て、社会的次元と自然的次元の柔軟な相互作用であるとしている。なんともユング風の発想である。もともと古典劇には、ペルソナという仮面の概念がある。虚偽を媒介した社会的ヒエラルキーへの反抗、もっと言えば、自由精神の象徴という見方もできそうか。
ここに、芸術の原点がありそうな気がしてくる。近現代においても、絵画や彫刻、あるいは演劇などの主題に、人間社会や人間そのものへの皮肉、あるいは理想像を追求したメタファーが演出される。人間社会では、こうした精神活動で間接的な表現が好まれる。
集団社会の基本原則が、マルクスの言うように階級闘争にあるとすれば、そこには常に力関係が生じる。相手が権力者となれば、弱者は奥歯に物が挟まったような物言いとなったり、対等な立場であっても、言い難いことは遠回しな表現を用いたりする。
さらに、こうした現象に宗教的儀式を結びつけると、芸術と宗教の相性の良さが見て取れる。ただし、芸術は、間接的な表現を用いて思考を活性化させるが、宗教は、直接的な表現を用いて鵜呑みにさせようと企てる。芸術心を支える自由精神は信念と相性がいい。だが同時に、信念と頑固は紙一重である。

5. 社会構造と社会関係
本書は、社会構造と社会関係の観念の違いを指摘している。社会関係はモデルをつくるための素材であって、そのモデルが社会構造そのものを明らかにするという。そして、構造の名に値するためには、四つの条件を満たすとしている。
  1. 構造は体系としての性格を示す。構成要素が一つでも変化すると、すべてのものが変化するような要素から成り立つ。
  2. あらゆるモデルは、一つの変換群。その変換の集合がモデルの一群を構成する。
  3. モデルの要素の一つに変化が起こった場合、モデルがどのように反応するかを予見することを可能にする。
  4. モデルが働く時、観察されたすべての事象が考慮に入れられているように作らなければならない。
「民族学は、機械的な時間、つまり可逆的で非累積的な時間に力をかりる。... これとは反対に、歴史学の時間は統計的である。」
モデルの尺度については、機械的モデルと統計的モデルの二面性からアプローチしている。構成要素を明確化できれば機械的モデルが構築できる。だが、明確化できなければ統計的モデルに頼ることになる。 人員構成において、婚姻や配偶の規則、親族や氏族のクラス、第一次集団と第二次集団の関係などが明確になったとしても、静止した社会状態というのは考えにくい。常に社会はうごめき、流動性、適応性、柔軟性といったものを持っている。現実には、それぞれの形式の中間的な形になるだろう。つまり、確率論的な考察が求められる。
例えば、犯罪モデルは機械的にも統計的にも構築できる。モデルの要素には、犯罪者の性格、個人的背景、所属する集団といった特性が考えられる。自殺モデルも似たような要素で構築できるだろう。同じ境遇にあっても、罪を犯すとは限らないし、自殺するとも限らない。
さらに、モデルを社会規模と結びつければ、人口論の観点からも考察できそうである。民族が自立しうる最適な規模は?と問えば、民主主義が機能しやすい社会単位というものを考えさせられる。秩序を保つための社会的規模、市場を効率化する経済的規模、コミュニケーションで規定される言語範囲や情報単位など、こうしたものも含めて社会的合理性というものを問うとなると、途方も無い学問と言わざるをえない...

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