自分の人生を遠近法で眺め、明るく語れるようになるには、どれほどの苦難を生きなければならないだろうか...
レヴィ=ストロースは、自分自身についてあまり語ることがなかったという。彼は、ディディエ・エリボンという45歳年下の鋭敏な聞き手を得ると、文化人類学者の魂を自由闊達に語り始める。そして、自身の生涯を「自然から文化への移行という大きなテーマをめぐっての変奏曲」と形容する。人類学とは、人間を極めようとする学問であったか...
尚、本書には、旧版への反響を踏まえた対談「二年後に」が併せて収録される。
「現代の人類は全体的に見た場合、自分自身の資産を接収しようとしているのではないか、ますます小さくなるこの惑星のうえで、かつて人類の一部の者たちがアメリカ大陸やオセアニア地域で不運な部族たちに押し付けたのと同類の状況を、わが身の犠牲のうえに、再び作り出そうとしているのではないか。」
レヴィ=ストロースという名からユダヤ系であることは想像できる。だが、信心深かったのは祖父母の世代までで、両親は宗教にも政治にもあまり関心がなかったという。父は画家だとか。音楽や芸術に囲まれた環境が、幼き頃から自由精神を目覚めさせ、多角的な学問態度へと導いたのであろうか。
とはいえ、第一次大戦からヒトラー政権下に渡って、政治に無関心でいることの難しい時代。16歳でマルクスを読み、若き日はベルギー社会党で政治活動に没頭する。それでも共産党に傾倒することはなかったようで、やがて政治への思いも... 糸くずのようにほぐれてしまった... と語る。
亡命先ニューヨークにあらゆる分野の知識人が集結すると、学際的研究の場が生じる。かつてピョートル大帝が、ヨーロッパの知識人たちを招聘したサンクトペテルブルクのように。レヴィ=ストロースは... アンドレ・ブルトンと友人になって亡命シュールレアリストと交流したこと、マックス・エルンストとアメリカ先住民の美術工芸品を収集したこと、自己形成の時期に人類学者フランツ・ボアズと出会ったこと、ジャック・ラカンやメルロ=ポンティとの哲学論議、構造主義的思考に決定的な影響を与えた言語学者ヤーコブソンとの友情、あるいは、音楽家ワーグナーや小説家コンラッドへの思い... などをのびのびと語る。多種多様な知性が結集すると、凝り固まった知識も、糸くずのようにほぐれるものらしい。ただし、数学者シャノンに会えなかったことを残念がっている。
彼の学者魂には、ドン・キホーテの精神が生き続けているという。それは、「不正を正すことへの、抑圧された者の希望の星たらんとすることへの偏執狂的情熱」と「現在の背後に過去を見つけ出そうという執拗な欲望」であると。自分以外のことを知れば、人は変わろうとする。健全な懐疑主義を貫くには、自分自身の思考法にさえも疑問を持つ。これが、真理探求者の幸せというものであろうか...
文化人類学者として生きれば、文化摩擦、人種差別、基本的人権といった問題に直面する。これらの難題を構造主義の立場から考察すれば反人間主義と批判され、女性の社会的役割に交換という概念を持ち出せばフェミニストの猛攻撃に曝される。研究対象がカニバリズム(人肉嗜食など)に及べば、尚更。おまけに、徹底して無神論者を演じる。敢えて言うなら、純粋理性に従属した超カント主義であるとさえ表明している。無宗教者だからこそ、あらゆる宗教史を冷静に眺めることができる。彼は、どんな宗教が唱える神にもひれ伏すことはない。いや、宇宙論的な神を発見しようと必死に藻掻いていると言うべきか。信仰を否定するのではなく、むしろ必要だとしているのだから...
「時には、根っからの合理主義者よりも、信仰を持つ人間の方が、自分に近いと思えることもあります。少なくとも、信仰を持つ人間は神秘の感覚を持っています。その神秘というのは、私の考えでは、人間の思考が原理的に解決することのできないもののことです。科学的認識はその周縁で、飽くことなき浸食を試みているのですが、人間にできることはそれだけなのです。しかし、科学的認識の道筋を辿ること、それも非宗教的人間としてそうすること以上に、精神にとって刺激的な、またためになることも、私は知りません。非宗教的人間として、と断ったのは、新しい認識の歩みが新しい問題を生み出し、認識の歩みは終わることがない、ということを自覚しておかなければならないからです。」
1. マルクス主義からカント主義、そしてルソー主義
レヴィ=ストロースがマルクスに傾倒したのは、政治的な観点からではなく、哲学的な観点からだという。それでも一時期は、マルクス主義を体現すると思われた共産党に惹かれたこともあったようだけど。ちなみに、マルクス主義者やネオ・マルクス主義者から、お前は歴史を知らない!と罵倒されたそうな。
マルクスには、人の思考はその人の実際の生活条件と関係付けなければ理解することができない、という基本的な考えがあるという。そして、自分自身をマルクス主義者かと言えば、それは言い過ぎの感があると。マルクスの学説からいくつかの教訓を得ただけで、特に「人間の意識は自分を欺くものなり」というやつに...
マルクスを通じてヘーゲルを知り、カントを知ったという。カントから教えられた原理は、これだという。
「精神はそれ自身の枠組みを持っているということ。精神はその枠組みを、精神にとって到達不可能な現実というやつに押しつけるのだということ。この枠組を通してしか精神は現実を把握できないのだということ。」
カントは、人間の認識能力が矛盾に満ちている上に、決定的に不具があることを承知しながらも、理性ってやつに絶対的な根拠を見出そうとした。この信念を継承するならば、不完全性を受け入れながらも、そこに真理を求めるしかあるまい。それが、人間という存在物の正体であろうか...
「資本論」については、全体としてそのまま実験室で作られたモデルであるとし、マルクスは社会科学の分野でモデル思考を体系的に用いた最初の人である評している。マルクスが社会構造と経済システムに相関関係を見出したことは、大きな貢献であろう。しかしその名誉は、ルソーの「人間不平等起源論」に帰するべきかもしれないとも言っている。なるほど、経済関係から、社会に不平等関係を作り出しているのも確かだ。ルソーの知的影響については、ダランベールの言葉を持ち出す。
「彼の意見に賛成はできないが、しかし彼は私をひどく刺激する。」
ルソーの政治思想にはあまり共感できなかったようだが、彼の文章力に魅せられ、自然科学と文学を接近させた人間科学の創始者であると評している。
「マルクスとかフロイトは私を考えさせます。しかしルソーを読めば私は熱くなるのです。」
2. 神話と未開の思考原理
神話は、人間がまだ動物と区別されていなかった時代の物語として伝えられる。その特性は、問題に直面すると別次元の問題として考えるように仕向けられる。いわばメタ的思考として。だから、教訓の意味合いを持つのであろう。神話の起源は、言語の起源に似たところがある。
レヴィ=ストロースの知的形成においては、ワーグナーが神話に対する嗜好という点で重要な影響を与えたという。彼のオペラ作品は神話に基いて書かれただけでなく、神話を構造的に切り分けるということが提唱されているとか。フーガやソナタは、音楽形式として生じる前から既に神話の中に見て取れ、ライトモチーフと詩の対立法が、一種の構造分析となっていることを指摘している。これを言語学における構造分析、つまり記号や意味の側面から言うと... ある観念に、意味空間に浮遊する言葉を対応づけることができれば、その観念を定義することができる... ということになろうか。意味とはこの対応関係を見出すことで、神話そのものは複雑でありながら、そこにイメージされる観念は極めて単純となる。
「意味する(signifier)という動詞が何を意味するかを一般的に考えてみると、それが常に、何か別の領域に、我々が探している意味の形式的対応物を見つけ出す、ということを意味していることに気付くのです。辞書というものが、このような論理の循環性をよく表しています。ある語の意味は別の語によって与えられるのですが、その語もまた、それを定義するためにはそれとは違った語に助けを求める、というわけです。そして辞書編纂者は循環定義を避けようとあれこれ努力するのですが、理論的に言えば少なくとも、結局は最初の出発点に戻ってくるのです。」
未開と呼ばれる人々は、思考を細分化することを嫌うという。全体を包摂するものでなければ価値を持たないと考えるらしい。
一方で現代人は、問題解決のために専門家に助けを求めようとする。専門家はある種の便利屋というわけだ。実際、学問は専門の分化が進み、総合的に捉える機会を減少させる。その点、民族学は、社会学、動植物学、地理学などがすべて結び付けられ、全体的な社会事象として捉えようとするので、未開人的思考と言うことができるかもしれない。いや、純粋な知への渇望であろうか...
「私の知性は新石器時代の知性なのです。私は、自分が獲得したものを資本化したり、そこから利益を引き出すような人間ではないのです。むしろ、たえず動いてやまないフロンティアの上を移動するのが好きな人間です。その時々の仕事、それだけが重要なのです。それはすぐに消滅してしまいます。しかし、その痕跡を保存するという趣味を私は持たないし、必要も感じません。」
3. 政治と人類学
文化とひとことで言っても、その定義は難しい。判断や趣味、あるいは知識の開明的な豊かさであったり、民族や地域社会の固有のものであったり、有形と無形の境界ですら曖昧のまま。そこで人類学には、エドワード・バーネット・タイラーの古典的な定義があるという。尚、この定義は著作「構造人類学」でも触れられる。
「知識、信仰、技術、道徳、法、習慣、その他、人間が社会の一員として獲得したすべての能力・慣習」
文化に属する人間は、同時に当事者であり、また観察者でもある。物理学の観測法で、対象となる物理系に観測系をも含まれるように、それは人間認識によって支えられている。つまり、どんなに客観的に観測しようとしても、必ず主観が関与するということだ。それゆえ、有効な知識ほど、客観性を装って政治的思惑と結びつきやすい。モンテルランの言葉に、こんなものがあるそうな。
「青年は思想の指導者を必要とはしていない。彼らが必要としているのは行動の指導者である。」
レヴィ=ストロースは、思想の指導者に対してやや嫌悪感を表し、文化と政治体制を混同してはならないと指摘している。穏健な人にチャンスを与えないような社会では、自惚ればかり旺盛な知識人を蔓延らせると言わんばかりに。思想の指導者が聖人ともなれば別であろうが、いや!それはそれで問題になりそうか...
コレージュ・ド・フランスは権威ある組織で、伝統的な大学組織の外にあったという。それでも徐々に、政治的な思惑が入り交じるようになったことを嘆いている。社会人類学教室では左翼的な空気が支配的であったとか。いつの時代も、政治家は教育機関に対して影響力を誇示したくてしょうがないものらしい。政治をやる立場に身を置くと、知識は偏重するものなのか?権力ってやつがそうさせるのか?文化の相互を語れば人種や民族の優劣を語ることになり、そこに政治的な思惑が必ず結びつく。それが歴史というものか。お前は歴史を知らない!歴史を学べ!などという主張には、その人の頭の中で勝手に描いた歴史の大法則に置き換えているだけ、ということはよくある。個人が自己意識を押し付けようとするのか?集団が自己意識を押し付けようとするのか?いずれにせよ、人道主義や人間主義といった言葉は心地よく響くだけに、しばしば感情論に支配され、人間中心主義や民族優越主義を旺盛にさせる。少なくとも、この書は批判されるような反人間主義なんぞではなく、反人間中心主義に映る...
4. サルトルとの論争
サルトルをはじめとする実存主義の旺盛なフランスで、著作「悲しき熱帯」の反響はいまいちだったようである。こんな有名な文句がある。
「アロンとともに正論を吐くよりも、サルトルとともに間違う方がよい。」
レヴィ=ストロースは、レーモン・アロンと対置してサルトルを「偽りの精神」と評している。尤も、天才と認めた上でのことだが...
「サルトルという人間は、どんなに優れた知性でも、歴史を予言し、さらにいっそう悪いことには、歴史のなかで一つの役割を演じようとすれば、支離滅裂なことになってしまうということの、もっとも典型的な例なのです。人間の知性というものは、アロンがやったように、歴史を後から理解しょうとすることができるだけなのです。歴史を作る人間の精神的能力というのは、知性とはまったく違った性格のものです。」
5. 遠いまなざし...
著作「はるかなる視線」は、日本語から借りてきたタイトルだそうな。能の創始者である世阿弥は、よい演技者であるためには観客の目で自分自身を見ることができなければならない、と言ったという。その中で、「遠いまなざし」という言葉を用いているらしい。この表現は、民族学の態度をうまく言い表している。レヴィ=ストロースには、仏日はユーラシア大陸の西と東の果てに位置し、対置的な思いがあるようである。特に、西洋化が進みながらも伝統文化を共存させているところに惹かれたようだ。フランス人の気高い誇りに対して、日本人の控え目を美徳とする伝統、という意味でも対置的である。レヴィ=ストロースは、当時の西欧中心主義や人間中心主義を強く批判する。
「人間の諸権利というものの根拠を、アメリカ独立とフランス革命以来そうだと普通に考えられているように、人間というただ一つの生物種の特権的な本性に置くのではなく、人権というのはあらゆる生物種に認められる権利の一つの特殊事例に過ぎないと考えるべきだ。」
2016-07-31
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