古本屋を散歩していると、音楽を文章で魅了する書に出くわした。四、五ページも読み進めると、こんな文面に出くわす...
「あの第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンがリレーしながら奏する旋律をもって出発した主題の上に、つぎつぎと書き加えられてゆく変奏。どれもが全くちがった性格を与えられていて、しかもいずれ劣らず、微妙と力強さの破綻のない均衡の上で、よく歌い、よく流れてきた上で、そのクライマックスとして、アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・センプリーチェが忽然として出現してくる時のすばらしさ。それは、芸術の最高のものには、荘厳さがつきものであること、それも、単純さ、動きの少なさと不可分であることを教えているみたいである。やがて、和音の柱だけでできていたような変奏に、チェロが奇妙なトレモロを刻むようになり、旋律も凍りついたような姿勢から徐々にやわらかく動きをましてくる。この部分の与える感動については、何といったらよいだろう...
残念ながら、私たちの言語には、こういう音楽の動いている霊妙な領域について書きしるす能力が与えられていない。」
これは、ベートーヴェン「弦楽四重奏曲嬰ハ短調 作品131」の第三楽章についての記述。丸谷才一が、この音楽評論家を称賛したのも頷ける。
言葉にできない音楽があれば、音楽にできない言葉がある。双方とも補完しあうかのように、魂を表象する記号として君臨することに変わりはない。心に響く周波数は人それぞれ。自分にとっての最高の芸術を、世間の評判や専門家の見識などで決められるものではない。
とはいえ、不朽の名作というものは確実に存在する。それは、人間の普遍性なるものを体現しているからに違いない。はたして、多様性と普遍性はどちらが真理であろうか。おそらく、どちらも真理なのであろう。真理は一つとは限るまい。音楽に何を求めるか?音楽にどこまで求めてよいものか?芸術家は愚痴るだろう... 私にそこまで求められても... と。天才芸術家は自分で創造し、自己完結できるが、凡庸な鑑賞者の感性は贅沢になるだけで、自慰行為もままならない。そして、永遠に受難曲に縋るという寸法よ。なんと無情な...
専門家でも、ありきたりではあるが、やはりバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三巨匠は外せないと見える。バッハの「マタイ受難曲」を西洋音楽で一番偉大だといい、ベートーヴェンの大フーガを桁外れの巨大な存在だといい、モーツァルトには、こんな賛辞を贈る。
「クラリネット協奏曲の両端楽章は、ほとんどモーツァルト自身をさえ越えている。ただ、こういう音楽を書いたものが、ほかにいないので、私たちはその作者をモーツァルトと呼ぶほかないのだといっても、さしつかえないだろう。」
そして、ヴァグナーを抜きにして「私の好きな曲」は完成しないと熱く語る。ヴァグナーはバッハに劣らず、自分の仕事を完全に支配する絶対的な至上権のような存在、Souveraineté... であると。
ややオーストリア = ドイツ色が強い気もするが、本書の題名からして思いっきり主観で語ることを宣言しているようなもので、それが個性というものだろう。
ただ、バッハとモーツァルトだけで、もう満腹!作曲家を選出するだけでも大変だというのに、一人の音楽家からどの曲を選ぶかは更に難しい。例えば、ベートーヴェンの九つの交響曲だけでも、エロイカ、運命、田園、第九とすぐに思い浮かぶ。本書は、第九を挙げながら、ベートーヴェン交響曲の偉大さを語るという形をとっているが、個人的には第七番を推したい。ドヴォルジャークについて言えば、「第八番」を挙げているが、これは同感である。個人的には第九番「新世界より」も捨てがたいが、あまりにも好きな曲というものは少々聴き飽きた感がある。ただ子供の頃、初めてレコード屋で買ってもらった曲がこれで、深い思い入れもある。幼児期体験とは恐ろしいもので、第四楽章で鳥肌が立つあの感触は、いまだに残っている。
奇妙な事に好きな曲ってやつは、一旦コレクションしてしまうと、いつでも聴けるという安心感から、聴く機会が減るところがある。それは音楽に限らず、映画でも書籍でも同じ。コレクションとは、ある種の贅沢病か...
ところで、単に「好きな曲」というのと「好きな曲について書く」というのとでは、少々違うようである。文章にするからには論理的に記述することになり、好きな理由も求められる。そして、自己形成において影響を与えた領域にまで踏み込むことになり、「好きな」という定義もなかなか手強い。
例えば、好きな曲に属さないものの... と断りながら、ラヴェルのバイオリン・ソナタを紹介してくれる。とげとげしながら、不快な快感のようなものを与えると。
同じような観点から、個人的にはシューベルトの「エルケーニヒ(魔王)」を挙げたい。ついでに、未完成交響曲とザ・グレートも。シューベルトは31歳の若さで死んだ。それ故に、人生の未完成を強烈に印象づける。経験を積むことで自由と純粋さを忘却の彼方にほっぽり出すなら、なにも長生きをしてまで悟る必要もあるまい... と言わんばかりに。
また、BGM でよく用いる曲は、圧倒的にモーツァルトで、次にショパンといったところだろうか。チャイコフスキーも外せない。BGMってやつは適度に集中力を促す存在なので、絶妙な脇役を演じてもらいたい。仕事中に音楽に神経が傾いては本末転倒。ただし、酒の BGM となると別で、どちらが脇役やら?人生の BGM で魔王に憑かれても、焼酎「魔王」をやれば相殺できるという寸法よ。
酔いどれ天の邪鬼は、ファウスト的な物語に憑かれやすい。熱病的な悲愴や狂信的な荘厳に。長調系よりも短調系を好むのは、心の底まで凍りつくような感動を渇望しているのか、それとも、退屈病に蝕まれているのかは知らん。おいらの背景耳には、ピアノの周波数がよく合う。それも協奏曲に。オーケストラとの掛け合いの中で互いの素材を融合させながら、ピアノの詩人は即興的な論理展開をもって、気まぐれを爆発させる。聴衆の方はというと、休止している間も息を殺して、独奏者の狂人ぶりを待ちわびる。そう、カデンツァだ!協奏曲とは、ある種の狂葬曲を意味するのかもしれん...
尚、本書には、26曲が紹介される。
・ベートーヴェン「弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131」
・ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ ハ短調作品111」
・モーツァルト「クラリネット協奏曲 K.622」
・シューベルト「ハ長調交響曲D.944」
・ストラヴィンスキー「春の祭典」
・ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」
・ドビュッシー「前奏曲集」
・ヤナーチェク「利口な女狐の物語」
・R. シュトラウス「ばらの騎士」
・ブルックナー「第九交響曲」
・J. S. バッハ「ロ短調ミサ曲」
・ハイドン「弦楽四重奏曲 作品64の5」
・D.スカルラッティ「ソナタ」群
・シューマン「はじめての緑」
・ヴェーベルン「弦楽四重奏のための五つの楽章作品5」
・フォレ「ピアノと弦のための五重奏曲第二番」
・ドヴォルジャーク「交響曲第八番」
・ショパン「マズルカ作品59」
・ヴァーグナー「ジークフリート牧歌」
・バルトーク「夜の音楽」
・ヴォルフ「アナクレオンの墓」
・ベートーヴェン「第九交響曲」
・ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 作品59の1」
・モーツァルト「ピアノ協奏曲変ホ長調 K.271」
・ラヴェル「ヴァイオリン・ソナタ」
・ベルク「ヴァイオリン協奏曲」
2016-11-06
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