2016-11-13

"世界の指揮者" 吉田秀和 著

「音楽についてというのでなく、演奏と演奏家について書くということが、とかく、やりきれないほど皮相的で、あわれなことになりやすいのも、その理由は、演奏の本質によるというより、むしろ人間の心の深いところに潜在しているのであろう。」

「私の好きな曲」(前記事)の文章に魅せられ、吉田秀和氏をもう一冊。ここには、演奏史上に輝く名指揮者たちが紹介される。十九世紀後半から二十世紀にかけて、ちょうど二つの大戦をまたいで生きた芸術家たち。エジソン式録音装置の発明からステレオ録音をはじめ、マルチトラックや多重録音といった音響技術の進化は、兵器技術の近代化と共に歩んできた。彼らが政治利用され、権力との軋轢から亡命を強いられてきたのも、偶然ではあるまい。芸術と政治は実に相性が悪いように映るが、あまりにも対極的な性格だからこそ、逆に引き寄せ合うのであろうか。殺戮の世紀では、聴衆の受動的な態度が受難曲へと誘なう。自己のレクイエムを求めるかのように...

一方で、時代の流れに反発するかのように、レコード録音を好まなかった演奏家も少なくない。録音のために、何度も繰り返して完璧さを求めるなどはナンセンスと言わんばかりに...
ライブ演奏へのこだわりは、機械的完璧より精神的放射を重視した結果であり、即興性こそ音楽の本質というわけか。本書は、このタイプの指揮者にクナッパーツブッシュとフルトヴェングラーを挙げ、特に熱狂的な信者を獲得しているという。
「フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性と、それから高い精神性と、その両方が一つにとけあった魅力でもって、聴き手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるのではないだろうか...」
演奏する気分は、その時々において違うはず。その場の気分を尊重するという意味では、崇高な気まぐれ!とでもいおうか。ずいぶん自由気儘に生きているようで、実は辛抱強く、苦しみにじっと耐えるだけの豊かさを具えているのであろう。自由と苦難は背中合わせにある。即興性とは、まさに一期一会...
「僕のこの時のフルトヴェングラー体験の絶頂は、アンコールでやられた『トリスタンとイゾルデの前奏曲』と『イゾルデの愛の死』だった。オーケストラの楽員の一人一人が、これこそ音楽の中の音楽だという確信と感動に波打って、演奏している。いや確信なんてものではなく、もうそういうふうに生まれついてきているみたいだった。フルトヴェングラーが指揮棒をもった右手を腰のあたりに低く構えて高く左手を挙げると、全オーケストラは陶酔の中にすすり泣く...」

ところで、ポップスやロックなどの音楽ジャンルでは、オリジナルとカバーの境界が明確にあるのに、クラシックとなると、どの演奏家も正当性を主張してやがる。指揮者とオーケストラの組み合わせだけでも個性はほぼ無限だ。機械的な正確さや融通の利かなさは、芸術性における欠点となるはずだが、演奏家たちはそれを逆に特徴づけている。彼らは彼らなりに余計な演出を削り落とす。作曲家の要請に指揮者はどう向き合うか?どう解釈するか?そこには普遍性と多様性の対立、いや調和がある。音譜や記号だけでは表現しきれない精神領域が、確かにある。自由との葛藤の中から、薄っすらと見える共存性のようなものが。音楽はどこまでも美しくなければならない... と言ったモーツァルト風の立場と、真実を行なうために破ってはならない美の法則などない... と言ったベートヴェン風の立場の共存とでもいおうか。おそらくクラシックファンを魅了する最大の要因は、ここにあるのではなかろうか...

1. ローリン・マゼール論
ここに紹介される指揮者の中で、おいらが実際に演奏を耳にしたのはマゼールだけ。そのために印象に残るのか?マゼールを論じた文章に魅せられるのであった。マゼールの中に、芸術家の宿命づけられた孤独論を見るような...
「マゼールの音楽も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。しかし、あすこには一人の人間がいるのである。あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での技術としての音楽は、もう十歳になるかならないかで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の音楽があるのである。それが好きか嫌いか。それはまた別の話だ。」
彼は、寡黙なだけに、気難しく自意識の強い、冷たい芸術家と見られがちだと指摘している。ただ、言葉よりも説得力のある世界観を提供してくれるのが音楽家というもの...
「彼は自分が何かの中に閉じこめられてしまっているのを感じているうえに、幸か不幸か、あまり言葉というものをもっていない男なのだ。言葉による自己表現というものについて、慣れてもいなければ、自信もない男なのだ。彼は話をしても、他人には自分のことをなかなかわからせることができない。そういう彼にとって、バッハの器楽は、過度に神経質でも、感傷的でもなければ、衝動的でも情動的でもなく、均整と明確さを失わず、しかも、表面的に流れたり、感覚的なものに没入したりすることのない、安心してつきあえる最高の世界を提供してくれる...」

2. トスカニーニ vs. フルトヴェングラー
フルトヴェングラーを崇拝している人は、おいらの周りにも少なからずいる。個人的には崇拝するほどではないが、むかーし名声につられて、レコードではベートヴェンの九つの交響曲をフルトヴェングラーで揃えたものだ。CDでは頓挫中だけど、いや、ハイレゾ音源で復活させたい!したがって、おいらの中のベートヴェン交響曲は、フルトヴェングラーが基準になっている。
本書は、運命交響曲の感想をこうもらす、「怪物がこちらに向かって歩いてくるような感じ...」と。苦悩に満ちたファウスト的な物語を欲する狂人的な酔いどれ天の邪鬼には、フルトヴェングラーは間違いなくいい。
ところが、本書は少しだけトスカニーニの気分にさせてくれる。評価の難しい指揮者の一人として紹介されるが、ラテン系ということもあって希薄なイメージがつきまとう。だが、実はそうではないことを証拠だてるものが、ベートヴェンやブラームスの中にではなく、ヴァーグナーの指揮に見いだせるのだという。トスカニーニの第五は、フルトヴェングラーの怪獣が咆哮しているような不気味で重苦しい緊張とは正反対の、軽快な光明の力強さ、壮大な勝利の歌、凱旋の行進であるという。トスカニーニと言えば、NBC交響楽団。金に糸目をつけずに粒よりの名手を集めて、トスカニーニという一人の指揮者のために提供されたオーケストラの存在は、まさにアメリカンドリーム!感化されやすい泥酔者は、さっそくNBC交響楽団のベートーヴェンを、ショッピングカートへクリックするのであった...

3. カラヤン評
指揮者というより、ディレクターのイメージが強いカラヤン。音響技術に映像技術を結びつけた企画運営は、技術面と経済面の双方において総合監督を務めた。おいらが学生時代、権威あるクラシック音楽に余計な演出を... といった批判も耳にしたものだが、カラヤンの発案はディジタル時代にいっそう開花したと言えよう。今では、CLASSICA JAPAN といった専門チャンネルでも放映され、つくづく幸せな時代だと思う。酒をやりながら即興性を体感できるのだから。本書は、こう評している。
「カラヤンの演奏には、モーツァルトを、こういじる、ああいじるという作為の跡が少しもなく、むしろ、モーツァルトの音楽に導かれて、それに忠実に演奏するよう心がけているとでもいった趣があった...」

尚、本書には、28人が紹介される。
・ヴァルター
・セル
・ライナー
・サバタ
・クリュイタンス
・クレンペラー
・ベーム
・バーンスタイン
・ムラヴィンスキー
・クナッパーツブッシュ
・トスカニーニ
・ブッシュ
・マゼール
・モントゥ
・ショルティ
・クラウス
・ブレーズ
・ミュンシュ
・フルトヴェングラー
・ジュリーニ
・バルビローリ
・クーベック
・ターリッヒ
・アンチェルル
・ロジェストヴェンスキー
・フリッチャイ
・アバド
・カラヤン

0 コメント:

コメントを投稿