2017-03-19

"花伝書(風姿花伝)" 世阿弥 著

「ひとつ、この口伝に、花を知ること。まづ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなわち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。」

春風駘蕩の奥義とは、こういうものを言うのであろうか...
これは、芸人たる心得と、芸の実力を発揮する方法を綴った秘伝の書である。まず、幽玄たらんことを第一とし、面白きことを第二とす。そして、幽玄と物真似を二大要素に据え、その真髄は花を知ること、能も花と知るべし!... と能芸の極意を語ってくれる。ゆえに、「風姿花伝」と言う。花とは、目に見える美しさだけでなく、奥深き趣きを具えてこその美。六百年も前、わが国でこのような体系的な芸術論が語られていたとは...
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じきるか。人間なんてものは、物狂いを演じながら生きているぐらいの存在なのかもしれん...
尚、本書には、川瀬一馬による現代語訳が付せられる。

「花伝書」は、世阿弥の著作のごとく言われてきたが、実は世阿弥は筆記者であり、編者であり、これを口述して授けたのは父の観阿弥だそうな。芸術の本質を考究すれば、自ずと人生論の性格を帯びてくる。世阿弥は、能の位を「幽玄の位」「闌ける位」とで区別し、前者を生得の才、後者を年劫を積み重ねた才とし、双方の位を兼ね備えた者を達人と呼ぶ。
とはいえ、そんな奴は百年に一人の逸材。幽玄でない芸人でも長けることはあるし、幽玄な芸人でも長けることは難しい。ならば、双方を知るために、どう生きるか、人の道を究めようとすることこそ肝要というわけである。なるほど、初心忘るべからず!とは、父の遺言であったか...
「上手にも悪きところあり、下手にも善きところかならずあるものなり。これを見る人もなし。主(ぬし)も知らず。上手は名をたのみ、達者に隠されて、悪きところを知らず。下手は、もとより工夫なければ、悪きところをも知らねば、善きところの、たまたまあるをも、わきまへず。されば、上手も下手も、互ひに人にたづぬべし。さりながら、能と工夫を究めたらんは、これを知るべし。」

鎌倉末期、観阿弥は、滑稽卑俗なモノマネ芸であった申楽を、芸術性豊かな歌舞本位の新たな申楽にやりかえた。世阿弥は、父の意志を継ぎ、将軍義満をはじめとする室町武士の鑑賞を勝ち得るに至った。
とはいえ、申楽者たちは、なお卑屈な立場から抜け出ることができないでいる。庶民の心、人の心、分からずして、何が芸術だ。演戯から共感を呼び、役者と観衆の一体感こそ舞台演芸の真髄。即興性とは、一期一会になぞらえた一期一芸ごときもの。観阿弥は、人の心を写す方法論として物真似芸に重きを置き、仕手も、見手も、身分の隔たりを無にしようと思いを込める。この口述は、子への伝授というより、芸術家としての自覚を高めようとしたもののように映る。人間として低級卑俗から抜け出すために、謙遜と節度を重んじるかのように...
「私儀に言ふ。そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。究め究めては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり。」
しかしながら、見物の側が奇妙な縄張りを囲うは、いつの時代も同じ。現在でも、歌舞伎役者たちが、気軽に観に来てください!と言ってくれるのは、おそらく本音であろう。その一方で、見物人たちが奇妙な身分差別をこしらえ、敷居を高くしてやがる。歌舞伎座あたりに出かけようものなら、セレブリティかぶれが、セレブ風を吹かせながら、着る物をめぐって火花を散らす。こちらの流儀が常識ざんす!貧乏くさくて不愉快ざんす!ってな具合に。本当の金持ちなら、貧乏人に絡んでまで自尊心を満足させようとはしないはず。人に難癖をつけずにはいられないとすれば、人に依存しながらて生きているようなもの。もとが滑稽芸なら、見物人も滑稽を演じるとうわけか...
「芸の家というものは血統が続くのが家ではない、芸の真髄が続くのが家である。人間は人の形をしているのが人間ではない、人の道を知っているのが人間である。(現代語訳)」

1. 芸の道 = 人の道
世阿弥は、芸の道をこう綴る。
...
七歳で芸の道に入り、子供の思うようにやらせよ。「自然といたすことに、得たる風体あるべし。」
十二三で調子が合うようになり、芸を仕込むべし。「童形なれば、なにをしたるも幽玄なり。」
十七より、最も重要な時期。声変わりで花が枯れ、腰つきも風情も変わり、嫌になってくる。一生の分かれ目はここにある。
二十四五、一期の芸が定まる時期。声変わりも落ち着き、身体も成人となり、若盛りゆえに上手を買いかぶる。自惚れのままの一時的な花に過ぎないと知れ。
三十四五、盛りの絶頂、名声を得る時期。だが、名声を得ることが目的ではない。いまだ真の花を究めぬと知れ。
四十四五、能の作法を悟るも、やり方を変えていく時期。花が枯れ、年老いていくが人の道。
五十有余、無用の事をしないという他は手立てがない。とはいえ、ものの善悪をようやく知る。「能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。」
...
これは、孔子道ではないか!孔子は言った... 十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順がう。七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず... と。人の道には、死ぬ瞬間にしか悟れないものがあるようである。それをほんの少しでも覗き見るには、絶え間なく続く今を精一杯生き、準備を怠らぬように...

2. 物学道 = 物真似道
本書では「物学」と書いてモノマネと読み、物学び(ものまなび)という思いが込められる。赤子は親の仕草を真似て学ぶ。子供は大人の行いを真似て学ぶ。人間性もまた、何かを手本としながら、あるいは反面教師としながら学ぶものである。
観阿弥の説く物真似とは、姿や振る舞いをそっくり真似るという意味だけではない。具体的には、まず十体の風体を会得せよ!と説く。十体とは、歳相応にて、女、老人、直面(ひためん)、物狂(ものぐるい)、法師、修羅、神、鬼、唐事。これらをすべて会得すれば、工夫によって細かく変化させ、百種にも拡張できるという。
さらに、十体を会得する以上に大切なことは、未来の花を忘れてはならぬ!と。幼少の風姿、初心の態度、壮年期のやり方、老齢の味というように、その時期々々において自然に具わった風体を演じる。ある時は子供や若者の能に見え、ある時は壮年期の役者かと思われ、また随分年劫を積んだようにも見えて、同じ人物が演じていると思われぬようにやる。
幼年の時から老後までの芸を、すべて一度に持つという理屈は、まるで多重人格論。いや時間を統合したパラレルワールドか。これを「年々去り来たる花」と称している。ただし、この芸境に達した役者は昔も今も知らないという。
芸能の位が上がったために過去の風体を捨ててしまうのでは、花の種を失う。万事に抜け目なく生きろ!とは、無限の境地を要請しているようなものだが、到達できないとすれば、永遠に暇つぶしができる。生きることが精一杯ならば、死を恐れている暇などない。
「ひとつ、そもそも因果といって、善い時、悪い時というのがあるのも、工夫をこらして見ると、要するにそれは珍らしい、珍らしくないの二つになる。上手な者がやった同じ能を、昨日と今日と続けて見たとして、前におもしろいなと見たことが、後ではまたおもしろくもない時があるというのは、昨日おもしろかったと思っていたのが、今日は珍らしくないために、よくないと思うのだ。その後また善い時があるのは、前に悪かったのにと思う気持ちが、また珍らしいということに返って、おもしろくなるのである。(現代語訳)」

3. ひためん(直面)と仮面
田楽と武家との結びつきは、源平時代に遡るそうな。そして鎌倉時代、田楽は武家社会の生活を反映し、武士が愛好する舞台芸能の中心となっていく。「田楽」と呼ぶからには、名の由来が田んぼであることは想像に易い。鎌倉殿と主従関係にある御家人たちが地方に散らばって舞台芸能を広め、今度は地方芸能として育まれて、逆に都で珍しい地方芸が人気を博し、都に本座、新座の田楽座が起こったという。都と農村が相互に影響しあって、能へと発展していったということらしい。禅の修養や武士道が、広く地方百姓まで浸透していった様子が、この時代に見て取れる。
芸術がいかに人間の本性を暴くものかを物語っていれば、やはり政治権力と相性が悪い。室町時代、世阿弥が低級卑俗とされた能芸を存続させるために、将軍義満のご機嫌取りもやったことだろう。芸を開花させるのは、根気のいる仕事だ。何事も世間を生き延びるためには、したたかさが求められる。能の精神は、権威主義から距離を置き、謙遜の態度を伝統にするしかなかったのかもしれない。だが世俗では、仕手も見手も自我を肥大化させていくのが世の常。だからこそ、皮肉芸や滑稽芸がより輝く。非道を行う者が、人道を説くというわけか...
鎌倉末期、近畿地方に栄えた申楽諸座の中、まず近江申楽の日吉座が起こり、天女の舞いという形が生まれ、これに仮面を使用したのが歌舞の芸だという。一方、仮面を使用しないのが、田楽の特色だったとか。本来の申楽は、メーキャップのみで仮面をかけることはなかったようである。仮面を用いたのは、歌舞の達者があまり美人ではなかったということであろうか?それとも、男が演じるからであろうか?仮面が無表情であるがゆえに、型を重んじるようになったということはあるかもしれない。
ひためんと仮面は、本音と建前を使い分ける技に通ずる。古代より世界各地で、美女の官能的な歌舞の伝統が見られる。ギリシア神話に登場する妖精やニンフなど、天使に天女の舞いを重ねたりと。日本では、歌舞を文芸的に発展させたのが、大和申楽座の観阿弥だったという。世阿弥が綴る普遍的精神を鑑みれば、ユネスコの無形文化遺産に登録されるのも、分かるような気がしてくる。しかしながら、能の精神が見えていないのは、むしろ日本人の方やもしれん...

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