古本屋を散歩していると、シューマンの書した同じ題目でアインシュタインのものを見かけた。偉大な物理学者が音楽論???まぁ、音楽に造詣の深い科学者や数学者をよく見かけるし、ピュタゴラスだって音楽論を語った。そして近寄ってみると、なぁーんだ、アルベルトではなくアルフレートかぁ。この勘違いのおかげで、音楽のまったくのド素人が、これほどの書に出会えたのは幸せである...
19世紀の音楽史家に、アルフレート・アインシュタインという文才がいたそうな。本書は、イタリア・ルネッサンスに始まり、シュッツ、バッハ、ヘンデルから古典派やロマン派を経て、フルトヴェングラーまでを外観してくれる。これほど広範に及ぶからには、一般書に分類すべきなのだろうが、それにしては造詣が深すぎるほどに深い。
尚、モーツァルトに関する記述があまりに乏しい... と思っていたら別本で出版されていて、やはりモーツァルトは特別な存在と見える。こちらの作品にもいずれ挑戦してみたい...
18世紀中頃、音楽にとって、音楽家にとって、いまだかつてない危機に見舞われたという。バッハやヘンデルが世を去り、その後を継ぐ者が学問的なものと、ガラントなものとに分裂したと...
「ガラント」という言葉のニュアンスがいまいち掴めていないが、音楽界では世俗的で、社交的慣習の特殊な用語としている。「学問的なもの」というのは、真正のポリフォニーは死滅し、もはや自然な音楽言語ではなく、専門家たちの意思疎通の道具になってしまったということ。いずれの分派も、偉大な感情の担い手としては相応しくないというのである。そして、ルネサンス精神を最も純粋に再現した形式としてマドリガルを語りながら、国粋主義の知らぬ幸福な時代を懐かしむ。
「マドリガルの本質は、伴奏付リート技法の一種だったフロットーラとは反対に、まったく無伴奏音楽であり、しかも、モテットという教会音楽の分野での同時的平行現象よりも、はるかに高度に無伴奏音楽なのである。」
さらに、大バッハより百年早く生を受けたシュッツには音楽家の根源的な動機にディレッタント魂を重ね、モーツァルトにはバッハの偉大さを認識した唯一の創造的精神だと賛辞を送り、ヴァーグナーの攻撃性に対しては、そんな弱点も全体像を眺めれば充分に耐えうる完成度があるとし、あるいは、クリストフ・ヴィリバルト・グルックがどこの国に属すかといった楽壇論争を皮肉ったり、ハイドンが長い間不当な評価を受けてきたことを嘆いたり、フルトヴェングラーの段になると「もはや聴く能力を失った」音楽評論家の悲しい仕事と酷評したり...
自分の愛好する音楽や贔屓の音楽家が批判対象となれば、苦々しく感じそうなものだが、そんなところがまったくなく、素直に聞き入ってしまう。それも、純粋な直観から発しているからであろう。
「われわれが尊敬するのは、たいていは、このような楽匠の真の偉大さ、ほんとうの姿ではなく、われわれが勝手に作り上げた姿である。よい例がベートーヴェンである。同時代人たちは、彼を荒々しい革命家だと思い、メンデルスゾーンの時代は古典主義者とみなし、ヴァーグナーは一人のロマンティカーだと考えた。そしてわれわれはといえば、なかでも一番困り者だが、一人のクラシカーだとみなす。」
また、音楽家たちがポリフォニーと対決してきた様子を物語ってくれるのも、なかなかの見モノ。
「ベートーヴェンは、ハイドンやモーツァルトと同様、ホモフォニーの、私に言わせれば、反ポリフォニーの時代、少なくともポリフォニー的言語がもはや適合しなくなった時代に属している。」
1. ルネサンスから近代国家へ
18世紀から19世紀は、近代国家の枠組みがはっきりと現れた時代。芸術家たちが世界中を旅しながらこしらえた偉大な作品も、彼はイタリア人だ!フランス人だ!ドイツ人だ!などと発祥をめぐって論争が巻き起こる。この新たな枠組みが、国粋主義を旺盛にさせてきた。彼らは自問したであろう。普遍性を追求するのに、なにゆえ、どこぞに属さねばならぬのか?と。
そして、国民名簿から抹殺してくれるよう願い亡命するも、受け入れ先でまた名簿に登録され、故郷から非国民などと罵声を浴びる始末。国家という言葉のニュアンスも、愛国心という概念も、プラトンの時代から随分と変質したようである。生まれたら即座に所属させられる、この奇跡的なシステムに、なんの疑問も持たずに生きて行ければ幸せであろうに。
彼らは才能豊かであるがゆえに、世俗の所有物とされる。学問にせよ、芸術にせよ、堕落への傾向はディレッタント的な趣向(酒肴)の排除、すなわち寛容性を失った時に始まる。宗教にしても、いくつかの福音だけを認定したがために、それ以外の福音は異端とされ、いびつとなっていく。いびつな社会には、いびつな精神で対抗するしかあるまい。だからバロック音楽なのか。
ナチス時代に限らず、不遇を強いられてきた音楽家たち、彼らは世俗人と専門家の双方からの攻撃に曝されてきた。その境遇を思うと、アルフレートのなすべき仕事に対する態度を思わずにはいられない。
「フリードリヒ大王が一七四七年にバッハをポツダムに招待したとき、大王はバッハの偉大さを測定するにたる尺度を所有していたのだなどとは、信じないでいただきたい。老バッハは大王にとって、過ぎ去った諸時代から出現した対位法の化石、奇獣だったのである。」
2. ハイドンの再評価
1800年頃、パリのある音楽協会がヨーゼフ・ハイドンのために祝賀会を催した。祝賀行事の山場に聴衆の面前でハイドンの胸像に花環がかけられることになっていたが、そのような像がなかったので、古代のカトー胸像の石膏模像に花環がかけられ、その下に「不滅のハイドンへ」と刻まれたという。このエピソードは、長い間ハイドンが誤解されてきた象徴的出来事として紹介される。
さらに19世紀ときたら、ニセモノのハイドンの頭に誠実味のない保護者ぶった賞讃の月桂冠をかぶせたと。20世紀になって、ようやく再評価されるようになったとか。
そして、オペラ、オラトリオ、ミサ曲、セレナーデ、ディヴェルティメントなど多くの功績の中から、シンフォニーよりむしろ弦楽四重奏曲こそ頂点をなすと評している。18世紀の危機、すなわち、ガラントな音楽と学問的な音楽の二元性を克服した救世主として...
「同時代の批評、殊に北ドイツの批評はハイドンの卑俗性を避難した。ハイドンは微笑して自分の道を歩む続ける。彼は単純で自然である。しかし彼は自分の濁りない不屈な天性の高貴さを頼みにする。シュトゥルム・ウント・ドラングの流行病は彼には触れない。感傷的な自然への復帰を説教するルソーの時代に、ハイドンはみずから自覚することなく、まったくこだわりなく、とうからこの夢想された楽園に坐っていたのである。」
3. 作品最終番とデスマスク
モーツァルトのようにおびただしい作品群に見舞われれば、ケッヘル番号のように整理したくなるのも分かるし、素人にはありがたい。ただ、その整理の基準は、音楽家によってまちまちときた。器楽曲だけを数えたり、声楽曲を別に数えたり、時系列であったりと。音楽家本人にしてみれば、意図しない分類を迷惑がっているかもしれない。
最後の作品ともなれば最後の顔となり、感傷の対象とされる。中には、酷く文学的な扱いを受けることも。死後に音楽評論の尽くされた顔は、死体解剖後に作られたデスマスク。この顔が音楽家の魂から幽体離脱を計り、独り歩きをはじめる。
一方で、最後の作品に最後の思想を結びつけるのが難しい音楽家もいる。例えば、ヴァーグナーは、ベートーヴェンとは違って最後の主題がないという。デスマスクをこしらえるのは後世を生きる者の身勝手な想像であって、芸術家というものは、自分自身が生涯を通してこしらえた芸術履歴や総合芸術、いわば自分自身の世界観に仕えるものらしい。彼らのシンフォニーは音楽的散文であり、最後の作品でレクイエムを奏でる。それは、ある種の信仰告白か...
「偉大な楽匠の作品の総体にはある謎めいた法則が支配している。創造的な人間はみな、自分の作品が完成を見ないうちに死ぬことの恐ろしさ、滅びることの恐ろしさを知っている。創造者はまだ生まれていない作品の完成像を心に抱いているものであり、またひとたび生まれ出た暁には、この作品がそれ固有の存在を得て、永遠に自分のために証人となってくれるであろうことを知っている。」
2017-12-24
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