2017-12-17

"音楽と音楽家" Robert Schumann 著

ゲーテ「西東詩篇」に曰く、
「ただ沈黙の中にのみ啓け行くものを
 あたかも名によりてあるかの如く、-
 神により形作られしままの
 美しき良きものこそ、我は愛す。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、カール・マリア・フォン・ヴェーバー、フランツ・シューベルトらが死んで間もないドイツ楽壇にあって、ロベルト・シューマンは「新しい音楽(ノイエ・ムジーク)」の運動を展開する。「ダヴィド同盟」がそれだ。尤もこの同盟に属する音楽家はシューマンが独断で選んだものであって、架空の団体である。そこには、ショパンをはじめ、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、リストなど錚々たる顔ぶれ。ロマン派音楽の正統後継者は、我らにあり!と言わんばかりに。いや、ライプツィヒの饗宴としておこうか...
「会衆のダヴィド同盟員諸君、即ち音楽におけると否とを問わず、俗人どもを粉砕すべき青壮年諸君!」

酒の肴は、作曲に対する批評である。饗宴の共演者たちは、自らこしらえた協奏曲によって自身を狂想曲へいざない、変奏曲によって自身の変装曲をまとい、独奏曲によって独り善がりに独走曲を奏で、憂鬱な夜想曲までも優雅にさせる。おまけに、無言歌と称しておきながら世間を騒がせる。そして、理論、ゲネラルバス、対位法といったものにおじけないように、と読者を励ましてくれる。カノンなんぞ糞食らえ!と...
音楽の最初の試みは、単純な喜びと悩みに発する。長調と短調がそれだ。とはいえ、この複雑怪奇な精神活動を言葉や楽譜で記述することは難しい。ここには、文学と音楽の融合を見る想いである。実際、シューマンの父親は出版するほどの文学愛好家だったそうで、ロベルト自身もバイロンやゲーテの詩を愛し、ウォルター・スコットやジャン・パウル・リヒターを耽読して育ったという。
ロマンチックな男には詩的な幻想が香る。男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる... とは、ウッドロー・ワイアットの言葉である。こいつは音楽の解剖学か、いや、楽譜の解剖学と言うべきか...
「どんな作曲家もそれぞれみるからに独特な譜面の形をもっていると思う。ちょうどジャン・パウルの散文がゲーテのそれと違うように、ベートーヴェンは譜面からしてモーツァルトと違う。」

1. シューマンの二面性
本物語は、オイゼビウスとフロレスタンという二人の人物が、ラロー先生を囲んで問答を繰り返すという形で展開される。一人が感情をぶつければ、もう一人が沈着に分析し、二人が主観を思いっきり解き放てば、ラロー先生が客観的になだめるといった具合に、まるでシューマン自身の二重人格性を物語っているようである。
また、クララへの想いも見逃せない。ラロー先生のモデルは、後に妻となるクララのことらしい。クララは九歳にして初公演を果たしたピアノの天才少女で、このヴィークの娘との恋物語はなにかと噂される。
シューマンは、ピアノのメカニックな練習に冷静に気長に打ち込むには、あまりにもロマンチックでありすぎたと見える。うまく動かない薬指を酷使したために損ねてしまい、ピアニストの道を断念。そして、作曲に専念することになるのだが、その創作活動にクララが多大な影響を与えたと言われる。シューマンは、妻クララの演奏活動でヨーロッパ諸国に同伴したという。
自由精神は、まず制限を感じとってその反発から活動が始まる。偉大な作家ですら、小説の材料は古典や神話からとってくる。他人の自我に依存して、自律的になるといったことがほとんど...
「ベートーヴェンは(いつも題目なしに)多くの作品を書いた。しかしシェークスピアがいなくてもメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』は生れたろうか。そう考えると憂鬱になる。」

2. 激しい運動の犠牲
シューマンの寵児ブラームスは、非難と支持の双方の的となり、精神病院へ。彼は、ドイツ古典音楽の偉大さを回復するために、感傷と官能性とですっかり膨れ上がってしまった後期ロマン派との対決という巨大な課題を一身に背負うのだった。批評運動というものは激しさを増すと、世間から吊し上げられる者をこしらえる。魔女狩りの類いである...
「罪は僕らにあるとともに彼らにもある。誰かが生涯を通じて、全く同じ眼で見てきたというような大家が果たしているだろうか。バッハを正当に評価するには、青年の持ち得ない数々の経験がいる。モーツァルトの太陽のような高さでさえ、彼らにはあまりに低く値踏みされる。ベートヴェンに至っては、ただ音楽を勉強しただけでは足りない。」

3. 旋律について
音楽とは、ちょうどチェスのようなものらしい。最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝負は常に王(和声)によって決まる...
「音楽好きの人たちは何かというと『旋律』という。もちろん旋律のない音楽なぞ、音楽ではない。しかし、その人々のいう旋律とは、何をさしているかよく考えてみるがいい。あの人たちはわかりやすい、調子のよいものでなければ、旋律だと思わない。しかし、旋律にはもっとちがった種類のものがあって、バッハ、モーツァルト、ベートヴェンをあけてみると、そこには幾千といういろいろとちがった節がみつかる。貧弱な、どれもこれも同じような旋律、ことに近頃のイタリアのオペラの旋律など、早くおもしろがらなくなるように。」

4. フーガの知ったかぶり
さる気短な男がフーガの概念を大体このように定義したという。
「フーガとはある声部が他の声部からのがれてゆく音楽である... (フーガはフゲーレ、つまりのがれさるという言葉からでている)... しかも第一に逃げだすのは、聞き手である。」
シューマンは、この男はフーガについてほとんど何も分かっていない!と詰め寄る。だが、誰もが主役を主張すれば、その場から逃げ出したくなるのも分かる。酔いどれ天邪鬼は、このフーガ知らずの定義がなんとなく気に入っている...

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