2017-12-10

"徳富蘇峰・山路愛山" 隅谷三喜男 責任編集

自由政治思想史の一コマ...
明治大正の論壇において、緊密な連鎖関係にあった二人の論客があったそうな。その名は、徳富蘇峰と山路愛山。蘇峰は西南雄藩の出自で、愛山は旧幕の遺臣と、その生い立ちは勝者と敗者、性格も正反対であったとか。蘇峰は、新聞人から松方内閣の勅任参事官、ついで貴族院勅選議員となるが、愛山は終生在野の論客を通す。蘇峰ほどの人物に対して、愛山ほど自由に振る舞った者はいなかったという。いかなる権威にも屈しない真の野人であったと。ところが、愛山を論壇に引き出したのは蘇峰であり、愛山は蘇峰の手を握りながら世を去ったという...
尚、本書には、徳富蘇峰から「将来の日本」と「吉田松陰」、山路愛山から「現代日本教会史論」と「評論」の四作品が収録される。

人間の思想領域とは、奇妙なものだ。同じ考えでも、哲学として眺めれば調和できそうなのに、宗教として眺めれば対立する。改革ってやつもまた、目的が同じでありながら急進派と穏健派で対立する。つまりは方法論をめぐっての争い。
ただ、武力と相性がいいのは急進派の方、いや過激派であって、穏健派は抹殺される運命にある。正義の旗の下では残虐行為までも正当化され、しかも十全にまた愉快になされるものらしい。博愛を唱える修道僧が、最も残虐な行為に及ぶのも道理というものか...
徳川二百六十余年ともなると、難癖をつけてはお家断絶に追い込もうとしてきた幕府に対する溜まりに溜まった怨念は、根深いなんてものでは表現が足りない。元禄文化は、皮肉のこもった演芸を滑稽芸術にまで昇華させた。歌舞伎狂言や人形浄瑠璃の類いがそれで、忠臣蔵などの事件は格好の題材となった。間接的に批判する風潮は、庶民だけでなく武士階級にまで浸透し、中央政府への不満は思想領域において多種多様な形で蓄積されていく。
とはいえ、鎖国政策が時代遅れであることは、幕府の重臣たちも感じていたはずだ。廃藩置県の意義は、武士階級を一旦チャラにすること。西欧列強国に対抗できる国家軍を創設するのに、藩の面子などどうでもいい。ましてや、武家も公家もあるまい。
歴史を眺めれば、いつの時代もグローバリズムと排外主義の綱引き。時代の流れは情報エントロピーには逆らえず、大局においてグローバリズムへと押し流されていく。
そして、明治維新で一気に爆発したものの、この改革は未完成のままで、自由主義への転換は未だ過渡期にある。日清、日露戦争で大国を相手にしての大勝利に国民が沸き立つ中、大正デモクラシーとあいまって自由主義と愛国心が強烈に結びつく。
次の段階では、帝国主義論をめぐっての論争へ移行し、村社会という日本社会の特性が、本来唱えるべく個人の自由を犠牲にする。ベンサムの功利主義から多数派の幸福を優先すると解し、ミルの自由論を集団的自由と解し、アダム・スミスの国富論が唱える生産拡張論を領土拡張論と解し、富国強兵とともに侵略的帝国主義へ。平民主義から国家社会主義へ、自由主義から帝国主義へ、という二重の転換期にある。
歴史を評価する時、いつの時代でも、あの時代は狂っていたと現代感覚で処断される。では、今の時代は?パスカルが言うように、やはり人間は狂うものらしい...

1. 帝国主義へ傾倒
蘇峰ほどの人物ですら、最初は平民主義を唱えていたものの、戦争を契機に帝国主義者となって日本膨張論を展開していく。
一方、愛山は、急激に西洋かぶれしていく日本社会に対して警告を発するものの、内村鑑三のキリスト教平和主義を反駁し、やはり国家社会主義へと傾倒していく。「人を殺す勿れ」を裏返して、「存在する権利あり」とするのが帝国主義論だというのである。ただ、愛山には一つの歯止めがあったという。それは人民の視点である...
「主体のなかに伝統的共同体が根深く存在していたのであり、この家族共同体理念が日露戦争後の、日本の外的・内的危機のなかで急激に膨張し、表面化してきたわけである。この点への透徹した認識こそが、日本国民に課せられた歴史的課題であったのであるが、蘇峰も愛山も、日本社会の根底に盤踞するこの関係と思想とを客観化し、克服することができなかった。そこに日本におけるナショナリズムの軌跡の悲劇があった。」

2. 吉田松陰論
維新革命の功績で、第一の人物を挙げるとなると悩ましい。蘇峰と愛山は、ともに思想面で導いた功績として、吉田松陰を挙げている。
ただ、思想の種を蒔いた者は、その成果を見ることができないのが歴史の皮肉である。自由と平等、そして権利という新たな道徳への展開は、自らの死を覚悟せねばならんのか。松蔭は獄中にあっても、囚人、監守、官吏たちを教化し、門弟たらしむる。そして、その意志を継ぐ松下村塾の門弟たち。
だが、思想とは、人間が編み出した最高位の虚構やもしれん。蘇峰は、「日本国を荒れに暴(あ)らしたる電火的革命家」と評す。
「彼は多くの企謀を有し、一の成功あらざりき。彼の歴史は蹉跌の歴史なり、彼の一代は失敗の一代なり。しかりといえども彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり。もし維新革命にして伝うべくんば、彼もまた伝えざるべからず。彼はあたかも難産した母のごとし、自ら死せりといえども、その赤児は成育せり、長大となれり。彼豈に伝うべからざらんや。」
さらに、蘇峰は「小マッチーニ」と呼ぶ。イタリア帝国建立時に活躍した革命家の一人だが、新イタリアは彼の唱えた共和国には程遠く、誇り高い態度を崩さずに死んでいったとさ。マッチーニ曰く、「吾人がなさんとするところは、単に政治的にあらず、徳義的事業なり。消極的にあらず、宗教的なり。」

3. 自由と平等
吉田松陰と同時代を生きた啓蒙的思想家に、福沢諭吉がいる。彼の言葉に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのがあるが、彼らは自由と平等をどのように捉えたのだろうか。それは、能力主義までも否定したのではあるまい。
現実に人間社会は、人の上に人をこしらえ、人の下に人をこしらえる。ただ、あくまでも身分や出生に関係なく個人の努力によるものでなければならず、その意味で封建的な世襲とは相容れない。それゆえ、「学問のすゝめ」なのであろう。
しかしながら、学問とて流行モノに群がる。蘇峰は、当時の西洋化していく様を、フェニキア人が商業をもって征服し、続いてローマ人が腕力をもって征服するにも似たり... と回想している。確かに、西洋哲学には優れたものがわんさとある。モンテスキュー、ルソー、ミル、ヒューム、ホッブス、ロック、ベーコン... だがそれらは、孔子や孟子を否定するものではあるまい。
維新の時代に「自由」という用語が西洋的解釈で使われ始めたとしても、自立や自律といった概念は日本にも古くからある。自由とは、責任を前提とした自己抑制下にあるもので、他人のせいにするのでは自由を放棄したようなもの。けして自由放任とは相容れず、結局は中庸の哲学に辿りつくはずだ。そして、その中庸にも節度が求められるはず。愛山は、こう書いている。
「中庸の哲学は天道に重きを置くときは唯物論となりやすく、性に重きを置けば唯心論となりやすしとす。」
仏教は、徳川時代にほぼ唯一の国教とされ、その保護を受けた。僧侶が伝道せずとも、生まれてくれば、自動的に親の宗派に組み込まれる。民衆は邪宗門徒ではないことを宣言するために、信者の名簿に名を連ねる。まるで戸籍のごとく。こうした宗教原理は、惰性的な儀式と常識によって支えられ、哲理による疑問がわかなければ、精神的向上も望めない。宗教をして儀式の一種とさせ、今日、葬式仏教と揶揄されるに至る。
だがそれは、国民という帰属意識とて同じであろう。近代国家の枠組みが確立したのは、19世紀頃とそれほど古いわけではない。にもかかわらず、生まれてくると自動的にその国に属すよう命じられる。人はこの世に生まれ出ると、まず不自由を体験するわけだ。だから、自由に焦がれるのか?いや、他を知らなければ、それが常識で終わり、他を知ればそれに焦がれる、ただそれだけのことやもしれん...

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