夜な夜な仕事に集中できず、気分転換に本棚を整理していると、その奥底から見覚えのある作家が出土された。アーネスト・ヘミングウェイ!?... おいらは、この作家が嫌いだ。いや、嫌いだった。というのも、大学時代、一般教養科目の英語でヘミングウェイ狂の教授がいて、作品を持ち出しては行間を読め!などと、やたらと威圧的な授業があったのを覚えている。
そもそも小説とは、作家だけでなく、読者の自由精神をも解放してくれるものでなければ楽しめるはずもなく、無理やり解釈を迫れば想像力が働かないばかりか、拒絶反応を起こしてしまう。天の邪鬼だから尚更だ。行間を読むにしても、作品全体を通して立体的な視点に立脚する必要があり、いくら優れた作品だからといって部分的に引用されても、上っ面の文章ですら読む気がしない。おそらく単位をとるために仕方なく買ったのだろう。
とはいえ、引っ越し貧乏で、その都度処分してきたはずが、ここで出会えたのは奇跡!いや、運命に違いない。三十年の月日を思えば、なんと回り道な人生だったことだろう。回り道、寄り道、道草の類い、これがたまらないのだけど。今、この考古学的発見に感動を禁じ得ない...
ここに連なる短編群には、物語の設定や登場人物の人格といった前提説明がまったく見当たらない。淡々と登場人物の会話を記録したような外面的な描写に、文体にも技巧的なものが感じられず、むしろ素朴な印象である。題材も凝ったものが見当たらず、ありふれた日常を綴っている感じ。凡人は日常の幸せにも気づかないものだが、天才は日常までも芸術にしてしまうらしい。
それでいて、会話から徐々に浮かび上がってくる状況や人物像は、推理小説風の酒肴(趣向)すら感じられる。言葉が足りなければ、読み手が物語を補わずにはいられない。つい作家との共同作業に参加してしまうような衝動に駆られ、独り会話風のモノローグが酔っ払いの独り言を加速させる。いや、単に説明に怠慢な小説家というだけのことかもしれん。これが、ヘミングウェイ流か...
ところで、ヘミングウェイには、帰属意識なるものがあるのか?あるいは、途中で失ったのか?社会的所属とは、ぼんやりした概念ではある。大抵の人は、生まれた時にどこかの国に、どこかの自治体に自動的に所属させられ、それが学校だったり、職場だったりと、常にどこかの集団に取り込まれるという奇跡的なシステムの中を、当たり前のように過ごしている。そのために、どこにも所属しないことが、ネガティブなイメージを与えて不安に陥れる。地上で、これほど孤独を恐れる生命体も珍しいかもしれない。
まずもって不自由を存分に思い知らされれば、才能豊かな人ほど、この呪縛から逃れようとするだろう。悪徳は恐ろしき怪物なれど、それが人間の本性。これに対抗するかのように、人々は愛という言葉を口にする。この言葉には、実に幅広い意味がこめられ、社会とのつながり、人間とのつながり、自己とのつながり... それは温かくも感じられれば、隷属にも感じられる。隣人愛や自己愛の押し売りが、社会嫌いへいざない、人間嫌いへいざない、ついに自我までも否定しかねない。ただ、愛の奴隷になるのも悪くない。おいらは、M だし...
見たまんまの風景をそのまま綴り、あとは読者に解釈を任せるだけであれば、それは書き手としての究極のエゴイズム。自ら言葉を自立させなければならない、と読者に要請してきやがる。自分に嘘をついても虚しいだけ。口に虚しいと書いて「嘘」、人の為(ため)と書いて「偽り」、さて、どちらを信じよう。人間の弱さを素直に曝け出し、自分の弱さを認める勇気を持ちたいものである...
尚、本書は、大久保康雄訳版(新潮文庫)の全二巻構成。
第一巻から...「インディアン部落」,「医師とその妻」,「拳闘家」,「兵士の故郷」,「エリオット夫妻」,「雨のなかの猫」,「心が二つある川(一, 二)」,「挫けぬ男」,「異国にて」,「白い象のような山々」,「殺し屋」,「ミシガン湖のほとりで」,「世界の首都」,「橋のたともにいた老人」,「キリマンジャロの雪」。
第二巻から...「五万ドル」,「十人のインディアン」,「贈りもののカナリヤ」,「アルプスの牧歌」,「追走レース」,「身を横たえて」,「清潔な明るい店」,「世の光」,「海の変化」,「スイス礼讃」,「死者の博物誌」,「ワイオミングの葡萄酒」,「父と子」,「フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯」が収録される。
1. ロスト・ジェネレーション
ヘミングウェイは、第一次大戦で戦傷を背負った、いわゆる「失われた世代(ロスト・ジェネレーション)」の代表のように言われる。彼の人生が自殺によって終焉したことも、その一因であろう。戦争体験を爽やかに描けば、却って暗さを浮かび上がらせる。無意味な死の荒れ狂う場に身を置けば、素朴な風景を欲するものなのか。何か失ったものを取り戻そうと藻掻いているかのように。死者から得られる合理的な興味といえば、死者からの無言の教示であるが、これに必死に耳を澄まそうと。
そして、生命の本質は無への回帰を望むのかは知らん。精神が空洞化すれば、残されるのは肉体のみ、それも単純素朴な人間味のみ、まさに抜け殻。現世の秩序や道徳に不信をいだき、知性や理性を否定する。現代人が疲弊にあげく自意識過剰とは真逆な価値観だが、それだけに自我と、いや超自我との対決を余儀なくされる。
「清潔な明るい店」では、自殺に失敗した爺さんが孤独感を背中に漂わせて酒を飲む。ひどく年をとり、足取りもおぼつかないが、威厳を保っている。そりゃ清潔さ、酔っ払ってもこぼさないし。清潔さと秩序が無(ナダ)の中で生き長らえ、それに気づかなければ幸せというもの。ちなみに、ナダはスペイン語で、虚無といった意味があるそうな。
さらに、「死者の博物誌」で登場する台詞が追い打ちをかける。
「いまぼくは、ヒューマニストと自称する人たちの死にざまを見たいと思う...」
絶望と虚無を描きながら自暴自棄の側面を見せつつ、少年期の童心回帰を試みるのも現実逃避の一つ。娼婦の癒やしに光を見つけるのも、現実逃避の一つ。
「ニック・アダムス物語」と呼ばれる一連の作品で体験物語を綴り、狩猟や魚釣りをした思い出に救いを求め、ノスタルジーに耽るのも防衛本能の一つ。
その一方で、勇気ある男の世界を夢見る駄目オヤジには、一瞬の勇気と引き換えに死を与えるような滑稽な演出をしたり、けして懲りない闘牛士は老いても異様な執念を燃やし続け、不眠症のボクサーは試合が気になって眠れないんじゃなくて、女房の身体が恋しくて眠れないんだとさ。
こうした物語に小説家の病んだ心と結びつける批評家もいるが、実は、ヘミングウェイ流のジョーク、言わば、彼独特のファルス論ということはないだろうか。自分の死までもお笑いで片付けようというなら、巧妙な策略家と言わねばなるまい。あの世で翁は、行間を読みすぎる読者を嘲笑っているやもしれん...
2. ニック・アダムス物語
体験に裏付けられた題材を創作の信条とすることで知られるヘミングウェイだが、いっそう彼自身に密着する一連の作品群が「ニック・アダムス物語」と呼ばれる。この老作家は、北ミシガンのインディアン部落に近い森林地帯で少年期を過ごす。青年期には第一次大戦に参加し、イタリア戦線へ。戦傷と治癒の期間を経てパリで修行を積み、「日はまた昇る」や「武器よさらば」で作家の地位を確立した。闘牛と狩猟と魚釣りに没頭し、スペイン内乱を体験。
ニックの遍歴を辿ると、最初に出会うのが「インディアン部落」という作品である。ニックの父は医者で、インディアンの女性に帝王切開を施して無事に子供を取り出すが、その上のベットでは女性の夫が剃刀で喉をかき切って死んでいた。生と死の対比がなんとも印象的である。
「医師とその妻」がこれに続き、ニックは人生の悪を否定する母を捨て、狩猟好きな父とともに森の中へ入っていく。父は悪を承認する側の人間なのだ。善の側よりも、悪の側に最も人間の本質が顕れやすいということを体現しているような。
「拳闘家」では、かつてのスターは落ちぶれ、黒人の前科者に保護されながら田舎を放浪する、なんとも不気味な光景にニックは衝撃を受ける。
「殺し屋」では、事件に至るまでの説明がいっさい見当たらない。登場人物がどんな奴か?舞台はどこか?目の前でなされる会話を直接ぶつけてきやがる。物語の筋は単純で、だから張り詰めた緊迫感とリアリティを醸し出すのか。
「心が二つある大きな川」では、戦傷に病めるニックを描く。夢魔に精神と肉体を蝕まれて、眠れぬ夜を過ごす日々。本国へ戻り、魚釣りに出かける。餌に捕まえたバッタが真っ黒に染まっているのを見ると、焼け跡で死んでいった人間と重なるのか、一見釣り好きの物語のようで陰の世界を垣間見る。虚無と絶望から救われるのは、純粋に打ちこめる趣味ぐらいなものか。
「十人のインディアン」では、インディアンの恋人を寝取られたニックの失恋体験を告白。
「アルプスの牧歌」では、雪の深いアルプスで山小屋に住む農夫を描く。農夫の妻が死んだのは12月で、今は5月。死後硬直した遺体を半年間も丸太のように、壁に立てかけていた粗野ぶりに唖然。
「身を横たえて」では、戦争のさなかにあっても、戦争を意識しないで済むひとときを描く。もはや郷愁の思いに縋るしかないか。
「世の光」では、娼婦に縋る男のロマンを描く。ただ、主人公は「ぼく」で、ニックなんて名前はどこにも出てこないが、これもニック・アダムス物語なのだそうな。
最後にニックが登場する作品は「父と子」で、すでに38歳。今度はニックが父親となって長男を連れて行く。胸に絶えず去来するのは自殺して果てた父のこと。息子と亡父の墓参りに行く約束をして物語は終わる...
2017-12-31
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