音楽のド素人でも、つい読みいってしまう音楽論というものがある。それは、歴史を投影しているからであろう。いや、音響論からの視点も見過ごすわけにはいかない。つまりは、数学的な側面からの見方である。
十九世紀から二十世紀初頭、近代社会は自由精神を目覚めさせ、王侯貴族のものであった芸術はブルジョア階級を経て解放へと向かった。これに共鳴するかのように、伝統派のブラームス党と急進派のヴァーグナー党が激しく対立。その新たな風潮を呼び込んだのが、シェーンベルクだったという。彼の編み出した十二音技法とは、自由や平等を旺盛にしていく時代に、十二音すべてを平等に扱おうとした結果であろうか。一つのオクターブに十二音を均等配置し、その組み合わせは、12! = 479,001,600 通り。これらの音列から発せられるリズムとやらの音響現象に無限の可能性を探る。これが音楽家の仕事というわけか。
シェーンベルクの音楽は分かりにくい!とは、よく耳にする。だがそれは、無調音楽に関してのものだろう。ピカソだって「泣く女」のような絵ばかり書いたわけではないし、シェーンベルクだって、弦楽四重奏曲や管弦楽曲にロマン派の余韻を漂わせている。
とはいえ、詩句もなく、韻律もなく、詩節もなく、ただ心の中で奏でる音を気の向くままに書くとは、いかなる境地であろう。音楽の散文とでも言おうか。音素材の弁証法とやらに固執している感もある。協和音と不協和音の境界を曖昧にし、雑音をも区別せず、調性から脱した域に入って、すべての音楽形式の束縛から逃れようと...
しかしながら、法則ってやつは、正しく理解されなければ、正しく反抗することができない。この天才とて、やはりバッハは特別な存在だったと見える。バッハの平均律からヴァーグナーの半音階手法を経て、対比すべくものを目覚めさせていく。
こうして眺めていると、相対的な認識能力の持ち主は幸せかもしれない。ある一つの何かを認識できれば、その対称的な存在をも認識できるようになる。ただそれも、才能豊かな者の特権ではあろうけど。
そして、あまりに急進的な試みは、却って古典回帰の魂を呼び覚ます。妥協なき探究心は、順行だけでは飽き足らず、やがて逆行へ転じ、さらに逆行の逆行へと導かれる。惑う星がごとく...
さて、今宵の BGM は、保守派の憤慨を買ったとされるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」でいこう。いや、ショパンの影を感じるドビュッシーも捨てがたい...
「シェーンベルクは、作曲技法の天才的学者であり、自分がドイツ = オーストリア音楽の伝統の最大の道と信じたところを、まっしぐらにつきすすんだ人間である。調性の廃棄と不協和音の解放の結果として考えられる、すべての音響の価値の均等化が、彼の仕事である。彼が、道に到達したのは、思弁によるのでなくて、内面の声に強要されたからであるということこそ、論議の余地のないほど明瞭に、彼の生成の道程を証明するものである。この様式が新しい音楽の表現の可能性としてはっきりさせたこと、即ち、4度和声、調性的にあいまいにされた導音の技法、非合理的な、小節縦線を否認するようなリズムの扱い、やたらと多い加線と非旋律的な歩みをもった旋律の扱い、線的ポリフォニーと、ソナタの図式からうけついだ展開的構成の原子化、こういったものはすべて、今日では、すでに歴史的なものになり、ほとんどあらゆる重要な作曲家の語法の資源になってしまっている。」
ところで、音楽には、ピュタゴラスの時代から数学的に論じられてきた歴史がある。そして、平均律の導入によってオクターブを平均的に十二分割すると、音響組織の合理化が促され、自由な転調、半音の等価性といったものが原理的に示された。さらに、機械的な作曲法まで提示されると、コンピュータでも作曲できそうに思える。今では、AI がそれをやっているし...
ある形式を徹底的に追求すれば、それに反する形式が見えてくる。何か一つに気づけば、倍、倍、倍... と覚醒させていく可能性がある。この認識過程は、数学に看取られているのだろうか。べき乗数に支配されて...
まさに、十二音技法の応用は無限の可能性を示唆している。それは、精神的合理性と数学的合理性は合致するか、と問い掛けているようにも見える。神は退屈しているに違いない。絶対的な認識能力を会得してしまったがために、もう覚醒させるものがないのだから。そして羨ましがっているだろう。人類は対位法なるものの完成を永遠に見ることはできまい。この幸せ者め!と...
2019-07-28
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