2021-01-10

「数える」という本能めいた行為... 万物は数なり!

人間は、精神的な緊張を別の単純行為で和らげることができる。この特性を利用しない手はない。
例えば、電話中に落書きをしたり、プレゼン中に手のひらでビー玉をコロコロさせたりすると、言葉が出やすい。
おいらの場合、思考中に歩き回る癖があり、ベランダをうろうろしたり、散歩したりして、思考のリズムをつくる。思考を促すために、大音量の BGM も欠かせない。一旦集中してしまえば、ほとんど耳には届かなくなる。
こうした単純動作へのこだわりが、脳内 cpu にクロックを安定供給し、自己肯定感を高める。
おまけに、おいらは閉塞感の漂うオフィス空間が大の苦手ときた。十年以上前は煙草も頼りになる相棒だったが、今ではお香を焚く。近年では介護モードも加わり、日々の炊事やお掃除が妙に思考のリズムと合う。風呂掃除だけはリズムがとれなくてストレスを増幅させるのだけど...
物理的合理性は計測しやすいが、精神的合理性は十人十色。そして、余暇や堕落も、回り道や寄り道も、人生に意味を与えてくれる...

そんな多種多様な単純動作の中でも、特別な存在がある。普遍的と言うべきか。「数を数える」という行為が、それだ。
数には、なにやら心を落ち着かせるものがある。精神病患者や知的障害者などは、心が落ち着かない時に数を数え始めると聞く。ある種の儀式のように。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。まさに、万物は数なり!
ちなみに、おいらが美少年と呼ばれた小学校低学年の時代、さんすうが大の苦手であった。放課後、一人残されては計算をやらされる。数ってやつがまったくイメージできず、机の下に手を隠して指を折って数える。すると叱られた。堂々とやれ!って。ごもっとも!当時の女の先生が鬼にも、天使にも見えたものである。やがて数の概念が理解空間と結びつきはじめると、いつの間にか、数の虜に。鶴亀算があまりにもすんなり数える概念と結びつき、こいつが方程式ってやつだと理解するのに大して手間はかからなかった。
しかしながら、大学の初等教育で再び奈落の底へ。高校までの数学がいかに算数であったかを思い知らされる。抽象化の概念は、指では数えられんよ。そして、数学の落ちこぼれになっちまったとさ...

「数」という概念と「数える」という行為は、ともに抽象化の道を歩んできた。数える行為を合理化するために記号を発明すれば、記号の関係性を求めて関数を編み出す。やがて、同じ性質を持つ数の集まりをひと括りにし、性質そのものの関係を探るようになった。「数」という概念は記号で抽象化され、「数える」という行為は関係性を結びつける関数に抽象化されてきたのである。
さらに、無限までも数えてやろう!という欲望に及ぶと、数の大小という関係は、濃度という概念へ飛躍する。アレフってやつだ。「数える」というからには整数論の領域にあるはずだが、まったく数に見えないのに整数とはこれいかに?有限界を生きる知的生命体が無限界に口を出すと、まったく悪魔じみている。とはいえ、すべては「一対一の対応」という手続きの元で引き出された知識である...

「数える」という行為は、進化論とも関係がありそうだ。原始の時代、人類は指を折って数え始め、数の概念はまずもって両手合わせて十本の指に乗っ取られた。人間の思考が十進法に憑かれるのも、その名残りか。女性の妊娠期間が約十ヶ月なのは、単なる偶然か。記念日や儀式に追い回されるのも、カレンダーの呪いか。ある原始民族では、手足合わせて二十進法を用いたという説もある。
しかし、だ。数の学問において、十進法ほど厄介な道具はない。コンピュータは二進法とすこぶる相性がよく、計算機工学では、8 進法や 16 進法が用いられる。つまり、2 の冪乗数があらゆる計算において優れているってことだ。情報理論の父と呼ばれるシャノンは、2 を底とする対数関数に情報の本質があることを見抜いた。ラプラスも、こんなことをつぶやいたとか。「ライプニッツは二進法の算術に『創造』」の形象を見た... 『一』は神を表し、『零』は空を表す...」と...
そして今日、デジタル社会では、0 と 1 があれば事足りる。なのに、人類が十本の関節を持つ指を授かったがために、十の数が崇められる。こんな自然に反するものを、誰が授けたかは知らんが...
ただ人類はどんなことでも、いかようにも解釈できる性癖も授かった。その見返りかは知らんが、幸福の原理として君臨している。
ピュタゴラス教団は、四元素とされた火、水、空気、土を底辺とする三角数 4 + 3 + 2 + 1 = 10 をテトラクテュスと呼んで崇めた。正三角形の頂点が神に通ずるとでも考えたか。
ただ、数学者がどんなに巧みな概念でねじ伏せようとも、計算ではスーパーのレジのおばさんの方が位取りで一枚上手ときた。
ちなみに、鏡の向こうから「十の時が流れる」という名を持つ野郎が、顔を赤らめてこちらを見つめてやがる。どうやら数に酔ったらしい。あヤツはテトラクテュスの申し子か?いや、君に酔っるだけだよ...

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