2021-01-17

森を見て木を見ず... 自我を見失い...

木を見て森を見ず... というが、どれほどの木が集まれば森になるのだろう。どれほどの家が集まれば町になるのだろう。どれほどの人が集まれば社会になるのだろう...
人間の洞察には、常に上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。人は、本当の森が、見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけだろうか。
人間認識ってやつは奇妙なもので、なんとなく集合体に属すというだけで、自己存在を確認させ、根拠のない安心感を与える。森の中心がどこにあるかも分からずに。ならば、自己を中心に置いて観察してみるしかあるまい。
しかしながら、俗世間では、個人主義と利己主義が混同される。英語で言うところの individualism という用語は、自己を大切にし、自我と向き合う... といった積極的な意味合いがある。これを村社会では、利己主義と翻訳しては負のイメージを植え付ける。不協和音の権化のごとく。自己観察もままならず他人を考察したところで、どうなるものでもあるまい。いや、自我が見えないから、人の目を気にし、人の行動が気になってしょうがないのかもしれん...

自我と向き合い、人生の大局観を覗き見するには、よほどの修行が要ると見える。真理を見るには、眼を閉じる方がよさそうだ。深い森の中で眼を閉じ、小鳥のさえずりに耳を澄まし、草木の匂いをかぎ、水の流れる音を肌で感じる。どうやら真理とは、癒やされるものらしい。
偉大な開祖たちが使徒に先立って隠遁したのは、気まぐれではなさそうだ。仏陀は森に入った。ムハンマドは天幕に引き篭もった。キリストは四十日間も荒野をさまよった。彼らは、わざわざ苦悩を求めたのだろうか、それとも、真の癒やしを欲したのだろうか。彼らの行動に、広大にして深遠な自我への沈潜を垣間見る...

しかしながら、凡庸人が眼を閉じるのは危険だ。抽象概念に振り回され、目の前の現実すら見えなくなる。まさに、森を見て木を見ず...
人間は、本当に真理を重要視しているのだろうか。真理っぽく見えるものに焦がれているだけでは...
現実主義とは、現実を直視することではなく、現実っぽく見えることに希望を抱いているだけでは...
人間社会で生きるには、真の人間である必要はない。人間らしく振る舞うことができれば、それで十分。実際、人間性を失った人間がわんさといるし、そんなものを自分自身に問うてみてもようわからん。
物理構造を鑑みても、人間なんてものは原子の集合体でしかないし、自由意志だって自由電子に振り回されているだけのことかもしれん。感情と呼ばれる心理現象にしても、ぜんまい仕掛けのオートマトンに過ぎないのかもしれん。近い将来、AI の方が人間らしく見える日が来るやも...

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