おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間における脳内マッピングとでも言おうか。
子供の頃からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか舐めていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。
サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。まるで精神空間を投影するような感覚...
しかしながら、記憶空間となると様相がまるで変わる。あれをやらなければ!と思って、いざやろうとすると、別の自分が既に仕事を終わらせている、といったこともしばしば。記憶がない!ということが、いかに幸せであるか。
一方で、その逆は皆無ときた。もうやったはずだ!と思って、いざ成果物を覗こうとすると、まるで終えてない。記憶を楽観視することが、いかに危険であるか。
理解空間でせっかく会得したことも、記憶空間ではチャラ。そして、しょっぱなからやり直し。こんなことを何度繰り返してきたことか。まるで自我空間を失っていく感覚...
自我を覗くために、夢を観察してみるのもいい。夢ってやつは実に奇妙な現象で、むかーしの知人が登場したり、これに現在進行中の仕事関係の人が入り混じったり、絶対ありえないシチュエーションにもかかわらず、見ている間は妙にリアリティがある。夢なんぞを本気で相手にしているのだから、現実のまやかしモノを信じてしまうのも仕方あるまい。バカバカしいほど単純な情報でも...
腹を抱えて大笑いし、自分の声で目が覚めることもある。振り返っても、何がおかしかったのか思い出せず、余韻だけが残り、奇妙な笑みを浮かべて周りから気持ち悪がられる始末。
そういえば大学時代、夢の中の自我を解析しようと実験をよくやったものだ。講義中に眠くなった自己に話しかけ続ける。すると金縛りになって、友人から大笑いされる。朝方、目を覚ましそうな時に実験をやると、よく金縛りになる。頭元に霊が現れるような感覚に、最初は怖さを感じるものの、慣れてくると、これが病みつき。金縛りこそ潜在意識そのものだと考え、こいつを完全にコントロールしてやろうと意気込んだものである。
そして、楽しんでいるうちに力が完全に抜けきって、もう金縛りになることもなくなった。どうやらストレスを感じないと、金縛りにはなれないらしい。遊びを一つ失ったのは実に寂しい!
今では、主治医に処方してもらう睡眠薬で、眠くなった状態でどこまで意識を持ち続けられるか、という実験をやる。目覚めの金縛りに出会えないとしたら、今度は、絶えず眠りにつこうとする自我を観察しようというわけよ。そして、睡魔と限界まで戦う快感に、遊びを一つ覚えちまった。金縛りにしても、睡魔にしても、まるで幽体離脱していくような感覚...
自我を覗くのは難しい。なによりも勇気がいる。自分自身のバカさ加減には、もううんざり。ひょっとしたら自分は天才じゃないか!と思う瞬間が、年に一度や二度あるものの、なんでこんなことも分からないんだ!なんでこんなことも気づかないんだ!と自分に怒鳴るのは、ほぼ毎日ときた。
おいらにだって、一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な意識があるにはある。しかしながら、自己の思考空間には無意識の領域が果てしなく広がり、この広大無辺な領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的と言わざるを得ない。メタ認識で、自己認識はメタメタよ。
それでも、自己を知ろうとする衝動を抑えられずにいる。自己を知るには責任がいる。無意識の自己に、どう自己責任を押し付けようというのか...
自我は曖昧なぐらいがいい。その方が幸せであろう。真理を覗くことによって精神を抽象概念へいざない、ますます自我を曖昧にさせる。「哲学する」とは、そういうことであろうか...
普遍的な思考に居場所を求めれば、神に看取られていると思い込むこともできる。そして、自我から幽体離脱し、責任は肉体に押し付けるさ。肉体を創造した神に押し付けるさ。それで神も本望であろう。
もはや、自己責任論から逃れる術は、幽体離脱しかない...
2021-01-03
自己責任から逃れる術... 幽体離脱!
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