フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。小説の中でも著者自身が弁護士として登場し、「私」の視点から物語るところに真実の醍醐味とやらを味わわせてくれる。
前記事では「犯罪」と題して、現実の事件に材を得た不気味な哀愁物語にしてやられた。ミステリーらしくないミステリーに...
ここでは「罪悪」と題して、異質な人間模様にイチコロよ。輪をかけてミステリーらしくないミステリーに...
そして、最後の最後のオチで、こけた!
精神科医に、ジェームズ・ボンド張りの陰謀事件に巻き込まれたと主張する男を診てもらいたいと、その旨を伝えて連れて行くと、男は先手を打った。
「こんにちは、私が先程電話したシーラッハ、弁護士です。」
そして「私」を指さし、「〇〇氏を連れてきました。頭に重大な欠陥があるようなのです。」と...
尚、本書には、「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「清算」、「家族」、「秘密」の十五作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。
それにしても、悍ましい。こうして文章にしていると、さらに落ち込む。おいらは暗示にかかりやすいのだ。DV、望まない妊娠、いじめ、冤罪、輪姦、犯罪依存、妄想癖... 殺人の方が、まだしも後味がいい。紳士や優しい人といった世間で良い人とされる連中が胡散臭く見え、法廷で声高に唱えられる正義や理性といった言葉を安っぽくさせる。
しかし、すべては実際の事件をモデルにした物語。つまりは、人間のありのままを描いている。時として、人間は人の不幸を見て自分の境遇を慰める。度が過ぎると、わざわざ不運をこしらえ、それを人に浴びせかける。サディズムや征服感に快感を覚える性癖は、誰しも心の奥に眠らせているのだろう。異常を自覚することは難しい。自覚できれば、まだましであろう。憎しみよりも嫉妬の方が、はるかにタチが悪い。こうした性癖は、まさに人に依存している証拠である。
とはいえ、人間が自立するには、よほどの修行がいる。自立した人間が、自信満々に正義や理性を掲げたり、堂々と他人の人格を批判したりはできないだろう。裁判の場では、「犯罪」そのものよりも、一歩引いた「罪悪」の方が重要な意味を持つのやもしれん...
1. ふるさと祭り
小さな町は、六百年祭を祝っていた。夏真っ盛りに、羽目を外す男たちはブラスバンドを結成し、ステージに上がる。つけ髭にカツラ、白粉に口紅、もう誰が誰だか分からない。おまけに、酒を少々やりすぎ。普段は、非の打ち所がない。保険代行員に、自動車販売店経営者に、職人に。幕が上がる前、その輪の中に一人の若い娘が連れ込まれた。素っ裸で泥まみれ、体液に汚れ小便がかけられ。男たちはことを済ますと、ステージから投げ落とした。彼らの中にも正義感を持った人がいたらしく、警察に通報。しかし、みながみな厚化粧で、犯人が誰だか分からない。医師も、娘の治療を優先して最後の証拠を台無しに。法廷では、沈黙を守らせた弁護士の戦略にしてやられる。被疑者たちは釈放され、元の生活に戻っていったとさ。妻や子供のところへ平然と...
正体がバレないという裏付けがあれば、人間は何をしでかすか分かったもんじゃない。自分自身を欺瞞することだって平然とやってのける。人間の理性なんてものは、その程度のものなのだろう...
2. 遺伝子
浴槽で殺された一人の老人。彼は売春婦を買っていることが知られ、わいせつ罪と未成年との性行為で前科がある。住まいを後にした二人の男女が老婆に目撃されて尋問されるが、決定的な証拠は見つからない。迷宮入りか。
しかし、容疑は固まっている。科学も進歩し、いずれ有罪は免れないだろう。女は、マリファナ中毒で目も当てられない。男は女の心臓を撃ち、自分のこめかみに銃口をあてて、引き金を引いた。罪悪感に押し潰されたか、あるいは現実逃避か...
3. イルミナティ
昔から、人間は陰謀説がお好き。フリーメイソンやユダヤ金融に、十字軍や聖堂騎士団に、ロスチャイルドやロックフェラーに... 世界征服説は枚挙にいとまがない。それは、現社会への不満がそうさせるのか、疎外感やアノミーを刺激してやまない。
そして、秘密結社イルミナティである。その歴史は、啓蒙主義的な傾向ゆえにバイエルン王家から危険視され、1784年の活動禁止令をもって終わっている。創始者ヴァイスハウプトは、1830年、ドイツのゴータで亡くなったとされる。神聖ローマ帝国の時代に。
しかしその後、様々な憶測が飛び交った。ヴァイスハウプトがジョージ・ワシントン大統領と顔がそっくりだったので、イルミナティが大統領を殺してすり替わったという説などは、陰謀史観の定番か。ヴァイスハウプトは白い頭という意味で、アメリカ合衆国の紋章が白頭鷹であるのが、なによりの証拠だとか。
さて、ここではサディスティックな少年たちの物語。更衣室で財布を盗むところを目撃され、弱みを握られた一人の男の子が、イルミナティを名乗るグループの餌食に。
「午後八時、食肉処理場で、汝の罪を償わん!」
素っ裸でロープをかけられ、爪先立ちに。後手に縛られ、胸に魔除けの赤い五芒星が描かれ。鞭打ちされ、首が絞まると、下半身を勃起させる。
ちなみに、縛り首中に勃起するのは、珍しいことではないそうな。血流が止まり、脳が酸素不足になるからだとか。15世紀には、夜の暗闇で育つアルラウネは、絞首刑にあった者の体液から生まれると信じられていたという。アルラウネとは、古典文学で見かけるマンドラゴラ(マンドレイク)の類いか。
しかし、少年たちは、そんなことは知らない。勃起すれば、興奮していると思い、さらにエスカレート。そこに、男の子の担任の女教師が通りかかった。彼女は、その無残さを見た瞬間、悲鳴を上げ、階段を踏み外し、頸骨を折って即死!少年たちは、まだ17歳で罪を問われることはない。女教師の死は、不幸な事故だったとさ...
4. 子どもたち
順風満帆の人生を送っていた男が、突然、逮捕された。少女が性的な悪戯を受けたというのである。被害者は、妻のクラスの児童で、証人は少女のお友だち。男のパソコンには、ポルノ映画が保存されていた。児童ポルノではなく、合法的なものだけど。妻は公判に現れず、弁護士が拘置所に離婚届を持ってきた。
それから数年、男は娘を見かけた。日記には、八歳の時、担任の先生の愛情を独り占めしたく、友だちとグルになって事件をでっちあげた、とある。先生をよく迎えにくる夫に嫉妬して。それから、再審が認められた。二人が本当のことを証言するのは簡単なことではないが、法廷で男に謝罪した。男は、冤罪の代償金を得た。今は、カフェを経営し、イタリア人女性と暮らしているという...
5. 解剖学
いつも女に馬鹿にされる男は、生意気な娘を思い通りにしてやると意気込む。これまで殺してきた動物たちは、みな怯えた。死の直前には匂いも違うという。大きな動物ほど怯えの度合いも大きいとか。
「鳥はつまらない。猫と犬はすこしましだ。死ぬということがわかるのだ。だが動物はしゃべれない。彼女なら...」
なるべく多くを喋らせるためにも、ゆっくりと死に至らしめること。それが肝要だ。解剖用具はネットで購入済。人体解剖図も丸暗記。そして、娘を車に連れ込み...
警察が家宅捜索すると、地下室に小さな化学実験室があった。動物の死骸に、娘の写真に、無数のスプラッタームービーに...
しかし、男は車から降りたところをベンツに跳ねられ死亡。「私」は、ベンツの運転手を弁護したとさ...
6. 間男
夫婦は、結婚八年。美しい妻は、サウナで肌を露出して男を挑発し、夫は了承している。夫婦は公共のサウナで何度か試し、乱交クラブに出入りし、相手をインターネットで公募する。妻は間男たちの道具と化し、妻もそれを望んだ。妻は抗鬱剤を服用し、薬の依存症を自覚している。冷たく虚ろな空間が広がり、彼女は自分を見失っていく。夫は、男の一人を灰皿で殴った。まだ息があり、止どめをさそうとしたが、妻を思い、急に殺意が失せた。
起訴状には、コカインを巡る争い、と書かれている。複数の他人と性的関係を持っていたなどという事実を、同僚の弁護士たちは受け入れるはずがない。妻が法律事務所で働きつづけるのは不可能。妻が証言台に立つと、夫をかばうために別の話をした。その男と浮気をし、夫の知るところになったと。嫉妬のあまり気が動転して犯行に及んだのであって、悪いのは自分であると。その男との情事の映像も証拠物件として提出された。夫婦は、間男たちの情事をすべてビデオに撮っていたとさ...
ちなみに、法学的な用語に「黄金の架け橋」というのがあるそうな。いわゆる、中止犯と呼ばれるやつ。このケースでは、最後に殺意をなくしたために、殺人未遂罪は追求されず、傷害罪で決着がつく。
7. アタッシュケース
婦警は、警官になる訓練を受ける時、直感を信じるよう教えられた。だがそれは、論理的に説明のつくものでなければならない。
ある日、ドイツ語の分からないドライバを止め、トランクを開けるよう指示した。どうやらポーランド人らしい。すると、赤いアタッシュケースがあり、その中に死体の写真が18枚。どれも、全裸で腹部から尖った杭が突き出ている。ドライバは、中身を知らずに運んでいたという。バーで知り合ったビジネスマンにベルリンへ運ぶよう頼まれ、報酬はその場で現金でもらったと。
監察医によると、写真の死体は本物だという。仮に本物だとしても、写真を持っていること自体は犯罪ではない。後に、いくつもの小さな穴の空いた死体が発見された。それは、口径、6.35ミリのブロウニングによって開けられた穴。処刑か。いずれにせよ、ポーランド警察に情報を伝えることしかできない...
8. 欲求
万引き依存症の心理学。ルイ・ヴィトンのバッグに、グッチの財布に、クレジットカードと現金を持つ女性は、いつも不必要なものばかり万引きした。盗みを働くのは、なにもかも耐えられなくなった時だけ。やがて警備員に取り押さえられるが、盗難品の金額も低く、初犯であったために、検察官は手続きを打ち切った。家族は誰一人として、事件のことを知らずに終わったとさ。
依存症とは、それによってしか、生きている実感が得られない状態を言うのであろうか、だとすると再犯の可能性は...
9. 雪
老人のアパートの部屋は、麻薬密売で警察に目をつけられていた。だが、老人は場所を提供しただけ。警察が踏み込むと、老人はナイフをポケットに入れていた。武器を持っていれば、それだけで刑が重くなる。密売人たちの名前を自白しろと迫るが、老人は黙秘を続ける。今までだって、刑務所に度々世話になってきた。酒に溺れ、軽犯罪と生活保護という転落人生。あとは、終わりが来るのを待つだけ...
ある日、見知らぬ女性が面会に。聖母のような。彼女は密売人の一人の子を妊娠したという。バレそうか、老人の様子を伺いによこしたのである。裁判所は、自供すれば、拘留を止める用意があると伝えたが、老人はチャンスを棒に振った。
老人は、パンをナイフで細かく切らないと食べられない。歯がないから、いつもナイフを携帯していたのであって、武器ではなかった。老人は、仮釈放が認められ、二年間の保護観察に付せられる。
そして、クリスマスに入院し、雪を見ながら面会に来た聖母のような女性の、幸せになった姿を思い浮かべる。しかし、密売人の男は、両親の決めた別の女と婚約させられていた。その男もまた、聖母のような女性を思いつつ...
10. 鍵
エリツィンは女だ!プーチンは男だぜ!今は、市場経済の時代。市場経済とは、なんでもお金で買えるってことさ!共産主義の解体、これに続く薬物経済の発展に乾杯!このロシア人は酷い訛りのあるドイツ語を話す。
麻薬密売のボスから、愛犬と愛車とコインロッカーの鍵を預かったものの、犬の野郎が鍵を飲み込んでしまった。動物病院へ駆け込むと、獣医はまずレントゲンを撮りましょう... だって。そんな悠長なことを言っている場合ではない。とっとと糞を出させる方法はねえか!超強力下剤とか。そして、金のありかを巡って、糞まみれの逃避行が始まる。
鍵はどこだ!と銃口を向けられてロッカーの鍵を渡すと、中には、コカインに見える砂糖と、昔つかまされた贋金が。現場には警察が囲んでいた。だが実は、別の鍵がコインボックスの裏側に貼り付けてあった。その鍵で隣のロッカーを開けるって仕掛けよ...
11. 寂しさ
強姦された女性は、ことが済むと家に帰された。彼女は処女だった。やがて体調を崩す。倦怠感、吐き気、めまいに襲われ、甘いものばかり口にし、太っていく。腹痛は疝痛か、いや、陣痛だった。赤ん坊は、便器の中に落ち、すでに死んでいた。タオルでくるみ、ゴミ袋に入れ、地下室へ。鮮血を流す娘を見て、母親は救急車を呼ぶ。医者は、後産の処理をし、警察に通報。望まない妊娠の悲劇は、繰り返される。妊娠に気づかず、手遅れになるケースもごまんとある。大抵、明らかな兆候に別の解釈を与えてしまうという。月経がないのはストレスのせい... 太り気味は食べすぎのせい... 胸が膨らむのはホルモン障害のせい... と。出産経験のある人でも、そういうことは珍しくないそうな。事実から背を向け、どうしてそうなるか知らない人もいる。医者が、詳しい検査を怠ったせいで、そうなることもあるとか。
彼女は、トイレで出産して初めて気づいた。後始末の行為は、どうみても正常な判断ができる状態ではない。そして、半年後に家を出た。しばらくして弁護士の元に手紙が届く。今は幸せです。夫も娘たちも元気です。ただ、地下室に横たわっている赤ん坊の夢をよく見ます。男の子でした。あの子がいなくて、寂しいです... と。
12. 司法当局
男は、二本の松葉杖をついて、よろよろと面接室に入ってきた。彼に、略式命令が届いた。愛犬をけしかけた上に、ある男を見境なく殴り、蹴ったという。身の覚えがなければ、反論してくるはず、裁判官はそう思った。だが二週間後、略式命令は効力を持ってしまった。罰金を払わなければならない。もちろん払わなかった。罰金刑は禁固刑に切り替わり、出頭命令が届く。男は、その書類も捨てた。そして、連行され、刑務所暮らしをしている。
足が悪いのは生まれつきで、何度も手術を受けたという。執刀医から取り寄せたカルテを鑑定させ、人を蹴ったりすることは不可能と判断された。再審が認められ、被害者もこの男ではないと証言し、無罪に。法律の定めによると、拘留の期間に対する代償金を請求することができる。ただし、6ヶ月以内に。男は、これもふいにした。またもは期日を守らなかったのである。おまけに、司法当局は、真犯人への訴訟手続を忘れたという...
13. 清算
優しい夫に恵まれた妻は、幸せな生活を満喫していた。娘は幼児洗礼を受けて。だが、子供ができると、夫は変わった。酒の量が増え、知らない香水の匂いも。ただ、娘には優しい、いいパパのまま。よくある倦怠期か...
いや、そうではなかった。妻の髪をつかみ、床をひきずり、毎日、妻の肛門と口を犯し、殴る蹴るの暴行を繰り返す。「おまえは、どこへも逃げられない!」家族にも相談できない。妻は恥じていた。夫のことを、そして、自分のことを...
ある日、近くに越してきた男が彼女に声をかけ、家を訪問した。優しい男の言葉に情事となるが、傷だらけの裸を必死に隠すも、男は怒りに震えた。娘が危ない!もう十歳になる。妻は夫を彫刻で殴り殺した。
老齢の裁判長は、被告人は十年間、夫の暴力に苦しみ、十分に情状酌量の余地があると主張し、無罪を言い渡した。正当防衛の線で。しかも、検察官に上告を断念するよう説得した。裁判長が、こんな説得をやるなんて異例中の異例。
だが、指紋鑑定についての言及がない。凶器からは指紋が検出できなかったのだ。手袋をしていたのか。まさか、経験豊かな裁判長が見落とした?凶器の彫刻は、41kg もある。裁判所から出てくる彼女を、男が車で迎えに来ていた。二人の周到な計画だったのか...
14. 家族
仕事で成功し、湖に面した豪邸を購入した男は、39歳で仕事をやめた。ある日、親しくなった隣人が書類を送ってきた。弟についての。離婚した母が、もう一人の息子をもうけていたことを知る。母がアルコール中毒で死ぬと、孤児院へ。そして、窃盗、傷害、交通違反など軽犯罪常習者に。
今、リオ・デ・ジャネイロの刑務所で、麻薬所持の容疑で裁判を待っているという。現地で懲役二年の判決はドイツで三年に換算されて、国内に連れ戻す。だが、刑期を終えると、またも喧嘩沙汰。父は、1944年、ナチによって死刑の判決を受けた。女性を強姦して。もう、私たちで終わりにしたい。そして数年後、死亡記事が新聞に。嵐の日、ボートから落ちたという...
15. 秘密
男が、CIA と BND(ドイツ連邦情報局)に追われていると、弁護士に助けを求めてきた。眼鏡屋で手術され、水晶体の裏にカメラを埋め込まれたという。自分が見るものすべてが、諜報機関に流れるという寸法よ。BND と CIA を告訴してくれ!そして、その黒幕のレーガン大統領を。レーガンは既に死んでますけど。そんなこと信じているのかい。ドイツの政治家の屋根裏に隠れているんだぜ...
弁護士は、このいかれた男を精神科医に診てもらおうと、病院へ連れて行くと...
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