2021-06-27

"わたしは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

脳科学系の書を読み漁ると、"GEB" という名を見かける。そう、論理学の巨匠ゲーデル、絵画の巨匠エッシャー、音楽の巨匠バッハの頭文字をとったヤツだ。そこには、論理的思考、空間的思考、時間的思考の融合のようなものを予感させる。
実は、二十年ほど前から、おいらの ToDo リストに居座っているのだが、なにしろ大作!本書はその姉妹書で、こいつでお茶を濁そうとしたのだが、逆に、六百ページもの厚さが心を熱くさせ、GEB へ向かう衝動を後押ししやがる。一昨日、アマゾンから届いたばかりで、目の前で手招きしてやがるし...


原題 "I am a Strange Loop..."
ここでは、ゲーデルに看取られた矛盾性と不完全性の概念から意識の正体を暴こうと、思考実験の場を提供してくれる。その切り口は、「KG は PM 内では証明不可能である」という言明への疑問に始まる。KG とは、クルト・ゲーデルの理論体系。PM とは、ホワイトヘッドとラッセルが提示した「プリンキピア・マテマティカ」。つまりは、数学の書ということになる。
脳の物理的存在は、医学的にも科学的にも説明がつく。だが、意識の存在となると、説明がつかない。心は、魂は、そして意識は、人間にだけ与えられた特権なのか。少なくとも、死を運命づけられた知的生命体が死ぬ瞬間まで意識し、思考し続ける宿命を背負わされていることは、確かなようである。それにしても、こいつは数学の書であろうか...
尚、片桐恭弘・寺西のぶ子訳版(白揚社)を手に取る。


「わたしは...」と主語を配置していることから、これは一人称物語。思考実験を繰り返すなら、存分に自己を解放し、徹底的に一人称で語ってみるのも悪くない。それは、自由精神を謳歌しようという試みでもある。
しかしながら、自己を語れば自我と衝突する。あらゆるパラドックスは自己言及に発し、これを避けようと、自己は第三者の目を合わせ持っている。普遍的な観点は、そうした三人称の冷めた語り手から生じるものだ。人間の意識には、無意識に第三の目を働かせる性質がある。それが、神の目か、善意の第三者の目かは知らんが、ただ、一人称と三人称が和解した途端に自我を肥大化させる。両者の間には、多少なりとも緊張感があった方がよい。つまりは、意識のどこかに自己否定する何かが必要なのであろう。それも、M っ気の胡椒の効いた...
自我とは、一人称と三人称の葛藤そのものか、あるいは、主観と客観の狭間でもがく存在か。自己言及が蟻地獄のような螺旋の大渦に引き込まれるのは、DNA が二重に強化された螺旋構造を持っているからか。まったく、おいらの自我は、M. C. エッシャー作『描く手』の中の囚人よ...



1. 万能機械と、ゲーデル - チューリング閾値
アラン・チューリングが提唱した概念に「万能機械」というのがある。人工知能が活況な昨今、よく話題にもなる。だが、この用語が意味するものとなると、なかなか手ごわい。チューリングマシンの進化版とでも言おうか。
コンピュータがある閾値を超えると、あらゆる種類の機械を模倣するようになるという。これを、ダグラス・ホフスタッターは「ゲーデル - チューリング閾値」と呼ぶ。こうした概念には、機械は思考するか、意識を持ちうるか、という問いかけが内包されている。
ところで、人間とオートマトンの違いとは、なんであろう。その閾値は?脳のメカニズムは、物理的構造を持っている。複雑なリレー構造を持つ中枢神経系は、無数のニューロンを束ねて情報を受け取り、各器官へ無数の司令を出す。人間が人間らしく振る舞えるのも、大脳のおかげ。脳の世界には電子の嵐が吹き荒れ、熱力学と統計力学に看取られている。つまり、脳もまた機械的な存在なのである。
とはいえ、心、魂、意識といった精神現象は、どのようなメカニズムになっているのだろうか。不安感、悲哀感、高揚感、憂うつ感、焦燥感、イライラ感など、様々な心理現象が脳に押し寄せる。すると、アミノ酸、アセチルコリン、モノアミン、ポリペプチドなど、様々な神経伝達物質が脳内を駆け巡る。心理現象も、ある程度は物理的に説明がつきそうだ。
では、現在もてやはされている人工知能は、心を持ちうるだろうか。そもそも、心ってなんだ?その正体も知らずに、平気な顔をして、心を持っていると断言できる性格の正体とは?人間が心を持っているというのは、本当であろうか。実際、世間には心無い人で溢れている。それでも、心を持っているように振る舞うことはできる。人間ってやつは、人の仕草を真似るのを得意としている。心の正体を知らなくても、世間が心を持っている振る舞いを定義すれば、それで正体を知っていることにできるという寸法よ。
実際、ロボットだって、アニメだって、生きているように振る舞えば、感情移入できる。まさに、人間は模倣マシン!だから、文明を模倣し、進化させてきた。万能人と呼ばれたダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ... しかり。万能とは、模倣に裏打ちされた能力、さらには、その能力のある閾値を超えた状態を言うのであろうか。ゲーデル - チューリング閾値とは、人間であるかどうかの境界面を言うのであろうか。いま、ホムンクルスが現実味を帯びる...


2. 意識のフィードバック・ループ
電子回路技術に、フィードバック・ループというのがある。基本的な特性は、入力情報をシャープにして微分的な作用をする正帰還と、逆に、入力情報をフラットにして積分的な作用をする負帰還の二種類。トランジスタのような半導体素子に対して、ポジティブな特性を与えたり、ネガティブな特性を与えたりすることで、増幅回路、積分回路、発振回路などが実装できる。
人間の意識にも、これを模倣するような神経回路が備わっている。意識のループが、感情の促進と抑制をスイッチングしながら、ある時はポジティブ思考へ、またある時はネガティブ思考へ。
巷では、考え過ぎはよくない... とよく言われるが、確かに精神衛生上よろしくない。しかしながら、さらに考え、考え、考え抜き、ある閾値を超えた時に見えてくるものがある。考え過ぎも、考えが足らないのも紙一重。フィードバック特性の閾値を見極めることを、自己に委ねるのは危険ではあるが、そうするしか道はあるまい。考えすぎなければ、その閾値も見えてこないのだから。
もしかして、感情とは、この閾値近辺で荷電粒子が揺らいでいる状態を言うのであろうか。電子回路ってやつは、許容範囲を超えた入力情報を与えた途端に暴走を始めるが、人間だって似たようなもの。そして今、人間社会では許容量をはるかに超えた情報が地球上を無限ループしているように映る...


3. 意識の因果依存症
原子ってやつは、他の原子とくっついて分子構造を持とうとする。万有引力の法則によると、あらゆる物質はその質量に応じた引力を持っていることになっている。何かと関係を持ちたがるのは、物質の摂理というものか。人間が、寂しがり屋なのも頷ける。
自然界には、数学との密接な関係に溢れている。オウムガイも、松ぼっくりも、ひまわりも、それぞれの螺旋構造にフィボナッチ数で裏付けられた黄金比に看取られている。人間の脳にも、はっきりと黄金比に看取られた意識が働いている。パルテノン神殿やピラミッドといった建造物、ダ・ヴィンチや北斎といった美術品、そして、ピュタゴラスの定理にも、数学の美が見て取れる。
人間の意識は、人との関わりだけでは満足できないと見える。ペットとの関わり、植物との関わり、自然との関わり、宇宙との関わり、他の物質との関わり... ひょっとしたら無意識に反物質とも関わっているやもしれん。もしかして、死とは、魂が反物質と関わって対消滅した状態を言うのであろうか。魂の不死を信じれば、意識の幽体離脱も厭わない。そりゃ、シュレーディンガーの猫とチェシャ猫の違いも分からんよ。どちらもほくそ笑んでやがるし...


4. バッハ礼賛
アルベルト・シュヴァイツァーの辛辣な文句には、おいらは言葉を発することができない。ただ、引用することぐらいしか。「バッハ」という主語を好きなように置き換えられれば、見事に抽象化された文章で、実に耳が痛い...


「多くの演奏家は、真の芸術家だけが知るバッハの音楽の深さを体験しないまま、何年もバッハを演奏している。...(略)... バッハの音楽の精神を再現できる者はごくわずかで、大多数はこの楽匠の精神世界に入り込むことができていない。バッハが言わんとすることを感じ取ることができないため、それを他者に伝えることもできない。何よりも厄介なのは、そうした演奏者が自分は傑出したバッハの理解者だと思い込み、自分に欠けているものに気づいていないことだ。...(略)... 危険なのは、バッハの音楽に対する愛情がうわべだけのものとなり、多大な虚栄心とうぬぼれが愛情と混じり合うことだ。当節のまがい物をよしとする嘆かわしい傾向は、バッハの私物化として表れ、目に余るほとになっている。現代の人は、バッハを称えたいという振りをして、その実、自分自身を称えているのだ。...(略)... 雑音をやや減らし、バッハ独断主義をやや減らし、技量をやや上げ、謙虚な態度をやや増やし、静寂をやや強め、信仰心をやや高め...(略)... そうしなければ、バッハの精神性と真実性をこれまで以上に称えることはできない。」

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