2023-04-16

"錯覚の科学 - あなたの脳が大ウソをつく" Christopher Chabris & Daniel Simons 著

ノーベル賞のパロディ版に、イグノーベル賞ってやつがある。格調高き研究を対象とする本家に対し、庶民感覚で笑わせながらも、どこか考えさせられる... そんな研究を対象とし、科学する達人たちの遊び心を垣間見ることのできる賞だ。品がない... 不名誉な... といった意味を持つ形容詞 "ignoble" にひっかけたネーミングもなかなか。
ちなみに、受賞者の発表は、エイプリルフールにやると洒落ているのでは... などと、密かに期待している。

2004年、クリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズは、ある実験でこの賞を射止めた。その実験とは、バスケの試合のビデオを被験者に見せ、パスの回数を数えるように依頼する。画面には、ゴリラの着ぐるみを着た女子学生が乱入し、ゴホゴホと胸を両手で叩いて立ち去る。その間、約九秒。この悪戯にどれだけの人が気づくか?という実験である。
そして、参加者を何度も入れ替え、何度も繰り返し... すると、なんと!半数もの参加者がゴリラに気づかなかったという。興味深いのは、見落とす人の多さだけでなく、改めてビデオを見直し、見落としたことを知った時の驚愕ぶり。ゴリラなんて絶対に出現しなかった!そんなものを見逃すはずがない!と自信満々に主張しながら...
人は、何かに集中していると、たとえ目の前の出来事でも簡単に見落としてしまうことがある。例えば、自動車の運転でバックさせる時、そこに障害物はないはず、という思い込みのために、ハッ!とした経験を持つ人は多いだろう。ながらスマホが問題とされる昨今、それがハンズフリーであっても電話にはご用心!
注視力の本質は、「何が見えたかではなく、何を見ようとしていたか」ということ。人間は、予期したものを見る傾向があるという...
尚、木村博江訳版(文藝春秋)を手に取る。

本書は、日常の六つの錯覚...「注意力、記憶力、自信、知識、原因、可能性」にまつわる錯覚を様々な実験を通して紹介し、人間の認識能力が、いかにいい加減で、いかに曖昧で、いかに操作されやすいかを物語ってくれる。日常の錯覚は、後を引くだけにタチが悪い。誤りと分かっていても、なかなか変えられない。
しかし、だ。錯覚しない人生って、どうであろう。錯覚に振り回される人生も困るが、まったく錯覚を起こすことがないとすると、それはそれで退屈しそう。
錯覚に救わえることもあれば、錯覚に身を委ねる方が幸せってこともある。錯覚の性質を知った上で、錯覚を活用することができれば、人生の幅が拡がるやもしれん。
人類は進化の過程で、錯覚にも役割を与えてきたことだろう。脳の進化には、都合のいい推論と信念も必要である。思い込みと信念は、紙一重!少なくとも、精神に安住を与えられる。
本書には、錯覚を科学する根底に、いかに己を知るか!という難題が提示されているように思われる。人は、自分のことは自分が一番知っていると思いがち。自己が自己に謙虚になることは、なかなか難しい。人間には、自分が本当に知らないことを、本能が偽って知っているかのように錯覚する性癖があるらしい...

錯覚を科学すると、思い込みと自信に対する感情操作のメカニズムが見て取れる。モーツァルトを聴くと頭が良くなる?脳は、10% しか使われていない?潜在意識を刺激すれば、もっと能力が引き出せる?だから、俺はまだ本気を出しちゃいない!ってか。
サブリミナル効果の類いに期待する前に、認識能力の錯覚に陥らぬようご用心!
自己啓発書などでは、自信を持つことが大切だと力説される。だが、根拠のない自信は却って危険である。
専門用語にもご用心!専門家は、自らの知識を過大評価する傾向があるという。難解な言葉を駆使する専門家ですら、肝心のことが分かっていないことが多いと。
また、大衆は、俗説、デマゴーグ、陰謀論の類いが、お好き!ときた。巷では、根拠のない逸話が定説となる。
人々は、話の物語性に惹かれる。社会が複雑化すれば、分かりやすさに人は群がる。分かりやすさが善!分かりにくさは悪!と言わんばかりに。扇動者は分かりやすい物語を巧みに語り、それが扇動しやすさのバロメータとなる。物語性は、記憶を強烈に植え付けるばかりか、頭の中で物語をこしらえて記憶を本能的に上書きすることもある。
自意識とは、恐ろしいものだ。情報源が誤って記憶されようものなら、他人の体験談までも自己の体験談にしちまう。知識や経験にも所有の概念がつきまとう。俺のモノは俺のモノ。お前のモノも俺のモノ。おいらの女に、あたいの男に... と。所有意識こそが、最も顕著な錯覚やもしれん...

自信は当てにならない。なのに、人は、自信満々の言葉に惑わされる。人は、自信ありげな人の言葉を信じてしまう。それは、拠り所にする何かを求めているからであろうし、人間社会を生き抜くことが大変であることを、本能的に感じ取っているからであろう。
政治屋や報道屋が、言葉巧みに説得してくることは分かっている。金融屋や商売人たちが、心地よさげに売り込んでくることは分かっている。そして、詐欺師はみな自信家だ!
自信が持てないと生きることが難しいとすれば、歳を重ねるほど息苦しくなっていく。チャールズ・ダーウィンは、こんなことを言ったそうな...
「知恵者より愚者のほうが、自信が強いものだ!」

優れた人の自信には、余裕のようなものが感じられる。でなければ、知らないことを素直に認めたりはしないだろう。そして、智慧者にためらいなく相談できる。自分の知識に根拠のある自信が後ろ盾になれば、その自信は本物かも。
自信なさそうな人物像は、ドラマの主人公には不向き。自信に満ち、テキパキと指示の出せるリーダは、かっちょええ!
リーダの自信は、部下の不安を和らげてくれる。苦難や災難に立ち向かう時、チームリーダの自信が支えになる。強がり!という見方もできるにせよ。
一方で、支配欲の強い独裁的なリーダも見かける。その苛立ちはなんなんだ。その脅迫的な態度はなんなんだ。自己を支配できないから、他人を支配にかかるのか。自信は言葉の強さではない。いや、むしろ逆かも...
「自信の錯覚は、能力ある人の存在を埋もれさせてしまう。」

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