2023-07-09

"啓蒙とは何か 他四篇" Immanuel Kant 著

昔からそうなのだが、おいらには「啓蒙」という用語が、イマイチしっくりこない。押し売りの類いか。宣教と何か違うのか。そんな眼で見ちまう。天邪鬼にも困ったものだ。
辞書を引くと、「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするよう教え導くこと...」とある。「啓」は、開く、教え導く... といった意。「蒙」は、暗い、愚か、無知... といった意。よって、愚か者を導くといった意味になりそうな... 
しかし、西洋語の "Enlightenment(英)", "Lumières(仏)", "Aufklärung(独)" は、いずれも「光」や「明るさ」といった意味合いが強い。つまり、光を見るのは自分自身の力であること... 誰かの思想に乗っかるにせよ、教え導くのは自分自身であること... といったところであろうか。「開眼」という語に近いような...

17 世紀から 18 世紀にかけて、ホッブズ、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ルソーらは、人間の自然状態を盛んに論じた。理性の原因を人間の本性に求め、自然に発する理性の実践によって自立を促すといった目論見である。それで、彼らの啓蒙思想は完成を見たであろうか。いや、まだ始まったばかりか。いやいや、ソクラテスの時代からずっと続いてきたような。カントは大衆を鼓舞する。人の意見を当てにして生きている大人どもよ、大人になれ!と...

尚、本書には、「啓蒙とは何か」「世界公民的見地における一般史の構想」「人類の歴史の憶測的起源」「万物の終り」「理論と実践」の五篇が収録され、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから『敢えて賢こかれ!』、『自分自身の悟性を使用する勇気を持て!』... これがすなわち啓蒙の標語である。」

本書で目を引くのは、「世界公民的...」という用語と、成熟した個人の行動に「理論と実践の一致を見る」という観点である。
まず、「世界公民的...」というのは、犬のディオゲネスが唱えた世界市民構想に通づるものがある。現代風に言えば、国民である前に、市民であれ!といったところであろうか。
イギリス革命やフランス革命などの市民革命の連鎖を経て、「近代国家」と呼ばれる政治形態が各地に出現した。現在の国家の枠組みは、この頃の形態をほぼ引き継いでいる。つまり、現在の国家という概念は、三百年ほどの歴史しかないということになる。おそらく、プラトンが唱えた国家論とも随分違うものなのだろう。
やがてグローバリズムの波が押し寄せ、国家という概念も随分と曖昧なものになった。とはいえ、ナショナリズム的な精神高揚は、19世紀頃からあまり変わっていないような。国家の枠組みに囚われた者とハミ出した者とで、世論が二極化するのも無理はない。ただ、自由主義や資本主義は、国家の枠組みから解放させてあげた方が機能すると見える...

次に、「理論と実践の一致を見る」という観点では、理想高過ぎ感は否めない。どんなに立派な理論でも、実践で役立たずでは意味がない。そればかりか、理想が現実を歪めちまうこともよくある。大衆社会では、理論と実践はしばしば矛盾し、たいてい実践が重んじられる。実践は難しい。理論はさらに遠く、道徳原理は遥か彼方なり...
しかしながら、カントは敢えて理論と実践の一致を唱える。理論が実践に近づくのか、実践が理論に近づくのか。いずれにせよ、調和や中庸といった概念を必要とするだろう。例えば、道徳を理論とするなら、義務が実践に位置づけられる。道徳哲学とは、自己が幸福になる方法を教えるのではなく、共同体にとって幸福に値するようなものを教える学を言うそうな。しかも、その学には義務が必然的に伴うとか...
そして、道徳と義務の一致を見る時、最高善という概念が薄っすらと浮かび上がる。アリストテレスのポリス構想にも通ずるような。自己啓発や自己実現といった地道な行動に、啓蒙を見る思い。そのためには、道徳だけでは不十分!ましてや幸福なんぞを目的にしても満たされるはずもない。道徳原理や義務遵守に定言命法を要請してくるとは、なんと酷なことを。凡人は、屁理屈でも唱えてないとやっとられん!

「無知な人が、自分で実践と思いなしているところのものについて、理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは、まだしも我慢できる。しかし利口ぶった人が、理論とその価値とを、(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが、しかしいざ実践ということになると、様子ががらりと変ってくるとか、或いは学校を出て実社会に出ると、これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒に追随してきたことをしみじみと感じるとか、... 要するに、理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものではない。」

うん~... 最も理論を実践に近づけているのは、道徳哲学よりも科学やもしれん。客観的な法則は、思い込みの強い人間の思考をねじ伏せちまう。宗教裁判なんぞを鑑みると、時間はかかるにせよ。なので、カントに限らず、啓蒙思想家たちが宗教政策に対して批判的な立場をとったのは頷ける。
本書の影で、啓蒙思想ってやつが近代国家の出現や科学革命の布石に見えてくる、今日このごろであった。そして、おいらも啓蒙されたい。M だし...

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