2023-07-02

"プロレゴメナ" Immanuel Kant 著

"Prolegomena" とは、ギリシア語で序論を意味し、正確な表題は「およそ学として現われ得る限りの将来の形而上学のためのプロレゴメナ(序論)」となるらしい。ここに、批判哲学の建築スケッチを見る思い。哲学の建設には自省がつきもの。自省の建築には自己否定がつきもの。批判哲学の建築に、健全な懐疑心なくして成り立つまい。自己否定に陥っても尚、愉快になれるなら真理の力は偉大である...
尚、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「人間の理性は、たいへん建築好きにできているので、なんべんとなく高い塔を築いては、あとからまたそれを壊して、土台が丈夫にできているかどうかを調べたがるものである。人間が理性的になり賢くなるのに遅すぎるということはない。しかし透徹した洞察をもつのが遅れると、これを活用することがそれだけ困難になるのである。」

カントの三大批判書に触れたのは、十年以上前になろうか。ブログの履歴を辿ると、そういうことになっているが、つい此の間だったような...
その第一弾「純粋理性批判」には形而上学への皮肉が込められていたが、刊行当初、それが形而上学そのものの否定と解され、有識者たちに猛攻撃を喰らったようである。著名な書には曲解がつきもの。難解な哲学書ともなれば、尚更。そもそも哲学とは、抽象的な概念の集合体であり、様々な解釈を呼ぶものだ。読者は、分かったような、分からないような、その境界をさまよいながら、自我の中に眠っていた思考を呼び覚ます。眠らせたままの方が幸せやもしれんが...

本書は、曲解への反駁として書かれているが、カントにしては文体が平明。実に、らしくない!そのためか、形而上学への皮肉が、より冴えてやがる。実に愉快!偉大な哲学者の愚痴が聞けるのもいい。いまだ人類は真の形而上学を手に入れていない!と言わんばかりに。これも曲解であろうか...

カントは、形而上学への道筋を、四つの問い掛けで組み立てる。
一つに、純粋数学はどうして可能か。
二つに、純粋自然科学はどうして可能か。
三つに、形而上学一般はどうして可能か。
そして、学として形而上学はどうして可能か... と。

ユークリッド原論には、五つの公準が規定される。純粋幾何学は、これ以上証明のやりようのない純粋な命題で構築されている。第五公準は反駁されたにせよ...
カントは、時間と空間をア・プリオリな認識として規定した。この二つを、経験に依拠しない、人間の根源的な純粋認識に位置づけたのである。公準も、アプリオリも、人間の認識能力の限界を示しており、直観の限界を暗示している。そして、純粋理性というものを探究すれば、この限界に挑むことになる。
純粋数学の真理は、絶対的必然性を帯び、まったく経験に依拠せず、ア・プリオリ的である。数学的判断と哲学的判断はともに理性的であるが、前者は直観的で、後者は論証的。いや、屁理屈的か。
したがって、純粋理性の建築には、論証だけで組み立てられるものではなく、直観で補完する必要がある。形而上学を学と成すにも、悟性だけでは心もとなく、直観と経験、主観と客観の協調が求められる。しかも、自我という閉じられた空間で。
「学として形而上学が可能か」との問い掛けは、詰まるところ、理性が学問として可能かを問うているようなもの。これも曲解であろうか...

カントは、「純粋理性批判」に至った経緯で、ヒュームが形而上学で持ち出した問題意識に触発されたと告白する。それは、「原因と結果との必然的帰結」という視点だそうな。たいていの認識過程は演繹的に導くことができるが、その必然性を突き詰めたところ、その先に純粋理性、すなわちアプリオリなるものを見たようである。そして、普遍的な原理において、理性の限界を規定するに至ったと。
理性は、自制において機能する。自分自身の理性に自信を持つということは、すでに理性が暴走を始めている。理性の暴走ほど厄介なものはない。信念や信仰を後ろ盾に、残虐行為までも正当化しちまうのだから。やはり、理性にも限界を規定する必要がありそうだ。それは、自分自身の認識能力の限界を知ること。すなわち、己を知ること。そして、ソクラテスの時代から唱えられてきた格言に回帰する... 汝自身を知れ!これも曲解であろうか...

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