2023-10-15

"君あり、故に我あり - 依存の宣言" Satish Kumar 著

サティシュ・クマールは、9 歳にジャイナ教の修行僧となり、18 歳に内なる心の声に従って僧を辞めたという。内なる心の声とは、ガンジー思想への目覚めであろうか。
彼は、無一文でインドから欧米に渡り、8000 マイルもの平和巡礼を行ったことでも知られる。核保有国の政治指導者に「平和のお茶」を届けたのである。その途中、フランスでは牢獄に放り込まれ、アメリカでは銃を突きつけられ...
この行動は、バートランド・ラッセルに触発されたものらしい。ラッセルの非暴力運動は合理主義と両立させ、人道主義をも超越しているという。日本でも平和行進に参加し、東京から広島まで 45 日かけて歩いたそうな...

本書はジャイナ教で彩られている。そして、インドの賢人ヴィノーバ・バーヴェ、自由の預言者ジッドゥ・クリシュナムルティ、数学者で合理主義者バートランド・ラッセル、解放者マーチン・ルーサー・キング、環境経済学者 E.F.シューマッハーと過ごした喜びを物語ってくれる...
尚、尾関修, 尾関沢人訳版(講談社学術文庫)を手に取る。

「この本は心の旅である。私はこの本の中で、多種多様でしかも相互に関連するネットワークとして世界を理解するに至ったインスピレーションの源泉を辿っている...」

サンスクリットの格言に「ソーハム(彼は我なり)」というのがあるそうな。サティシュは、これを「君あり、故に我あり」と解し、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」に対抗して魅せる。
そして、西洋の世界観を近世からグローバリゼーションに至る流れを追い、その源泉にデカルト哲学を見る。それは、分割と分離といった二元論的世界観である。我思う... ことにより自己を意識し、故に我あり... と、他との差異で自己を確認する。自己存在を強調し、そのために自己肯定感に苛むとすれば、まさに現代病がそれだ。

本来、多様性を受け入れるはずのグローバリズムは、少数派を次々に飲み込み、価値観を一本化しようとしてきた。すると、これに反発して対極的な価値観が勢いづき、世界は二極化していく。その過程で、対極にあるはずの個人主義と利己主義が結びつき、これに愛国主義が相まって、経済的生産競争や軍備拡張競争を激化させる。
超エリートの政策立案者たちは、いまだ消費を煽る以外に方策が見つけられないでいる。生産と消費に邁進すれば、環境破壊や自然破壊へ突き進むは必定。資本主義と共産主義は、互いにい対立するかに見えるが、自己の利益を優先し、国益を追求する点では同じ。資本主義は資本を喰い潰し、共産主義は個人を喰い潰す。そして、文明人は地球資源を喰い潰し、いったいどこへゆこうとしているのか...

「我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について語りかける。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は、恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。さまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる...」

しかし、だ。こうした問題すべてを、デカルトのせいにするわけにもいくまい。信仰的に思考するスコラ哲学から脱皮し、主体を客体化して科学的な思考を試みた点は評価できるし、また、それが必要な時代でもあった。それは、サティシュも認めている。彼が主張せんとしていることは、そろそろ新たな世界観へ脱皮する時代が来たのでは... そろそろ人間中心主義から脱皮しては... ということである。
主義主張の対立、イデオロギーの対立、そして何より宗教の対立は、もっと古くからあり、こうした対立構図は、むしろ人間の本質と見るべきであろう。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との対比や対立から自己を認識するほかはない。デカルトだってあの世でぼやいているに違いない。すべては自己責任で!と... 
しかしながら、自己責任ってやつは、これを実践しようとすると、なかなかの難物。巷では、この用語は、お前が悪い!という意味で使われている。自立という概念にしても、人間には高尚すぎるのやもしれん。
ならば、もっと謙虚に何かに依存しなければ生きられない、とした方が現実的やもしれん。少なくとも地球上を棲家とする生命体は、地球環境に依存している。人類は、自然に依存しなければ生きられないってことだ。
アリストテレスが定義したように、人間がポリス的動物である、というのが本当なら、ポリス、すなわち社会にも依存するほかはあるまい。但し、ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体という高尚な意味も含まれており、現実社会はそんな大層なものではあるまい。
サティシュは、完全なる依存を宣言する。自己を知らずして自立もあるまい。自己を見つめずして自律も叶うまい。自立や自律ってやつは、必要な依存を受け入れてこそ成り立つ概念やもしれん。自己責任!などと片意地はらんと、もっと自然体に...

「ガンジーにとって知識とは、謙虚さと真実を学ぶための手段だった。ガンジーは『知識は力なり』という考えを捨て去った。知識は奉仕のための道具である、とガンジーは考えた。傲慢さをもたらす知識は真の知識ではないのだ。」

また、平和宗教を論じる上で、イスラム教の思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンとの対話は、なかなかの見モノ!
宗教が、しばしば暴力の根源となってきたのも事実。考え方や信条が異なり、信仰が異なるのは、いわば人間の本質であり、これらの差異が対立や紛争を生む。
サティシュは問う。イスラム教の真髄とは何か?と。それは、理論や哲学ではなく、生き方であると。そして、状況が平和である時に、平和な気持ちでいるだけでは不十分だとし、「いかなるときも怒らないようにしなさい!」と説く。
イスラムとは、「平和に」という意味があるそうな。ならば、ジハード、すなわち、聖戦という概念はどう説明できるというのか?ジハードの意味は無惨なまでに誤解されているという。しかも、学殖があり、理性ある人々が、その意味を歪めていると。非暴力思想の根底には、怒りの克服があるらしい...

ジャイナ教について言えば、ジャイナとは、勝利を意味するそうな。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラとは、偉大なる戦士を意味するとか。だが、その言葉に反し、ジャイナ教ほど非暴力と平和に重きを置く宗教はないという。では、誰に対する勝利か?それは、自己に打ち勝つことであり、自我の克服であると...
これと同様、イスラムの教祖マホメットも偉大な将軍だったそうな。ジハードは、戦いを意味するのではなく、葛藤を意味するんだとか。最大の葛藤は、自我と戦い、怒りに勝ち、自尊心を克服すること。そして、不公正や強者による弱者の搾取と闘わなければならないという。しかも、非暴力的に。これが本来のジハードだそうな。それ故、マウラーナー・ワヒドゥディンは、こう唱える。
「良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教にはなんの意味もない。」

うん~... 仏陀も、他人を傷つけることは自分自身を傷つけること!と説いた。イエスも、汝の敵を愛せよ!もう一方の頬をも向けなさい!と説いた。
しかしながら、どんな高尚な思想を唱えようと、どんなに高い理想を掲げようと、人間ってやつは言葉でいかようにも操れる。未だ人類は、すべての真理を言い表せるほどの言語システムを獲得できていない。愚人は、なにかと言葉を欲する。具体的な言葉を欲する。そして、言葉は厄介となる。だから、あのナザレの大工のせがれは、沈黙のうちに十字架刑を受け入れたのであろう。民衆が沈黙で悟れるほど賢くないとはいえ。その意図の理解に、数千年の歳月がかかろうとも...

「ヒンズー教徒の非二元論の信念は、ジャイナ教徒の非絶対論に相当するものである。非二元論は時として、現実の単一性と理解されてきた。しかし、ゴーパールジー(サティシュの師)は次のように信じていた。... 非二元論は、自己か他者か、ということより、宇宙の多面的な性格を表している。多様性とは分裂や断絶ではなく、言葉では完全に言い表すことの不可能な、相互に関連した全体のことなのだ。人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。だから我々は、少なくとも言葉や心によって、全体的で絶対的な理解を完全に手に入れることは不可能だ、ということを認めるべきなのだよ。言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。その向こうには、ただ沈黙があるのみだ...」

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