2023-10-22

"ソネット集" William Shakespeare 作

シェイクスピアをまともに読んだのは、五十を過ぎてからのこと。ちょいと言い訳するなら、初めてのシェイクスピア体験は義務教育の文化祭あたり。学生時代は劇場にも何度か足を運び、モチーフにした映画も多く、直接触れずとも、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。
ゲーテは、カントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。
筋書きを知っていれば、小説を読むのも億劫になるが、媒体が違えば、違った光景を魅せてくれること疑いなし。なんとなく体裁が悪いと思いつつ、四大悲劇に手を出せば、ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベス物語に至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。おいらは暗示にかかりやすいときた。そして、「ソネット集」には、人間とは、こうも滑稽な生き物なのか... と。
ここまで来るのに、半世紀も生きねばならなかったとは... 怠惰な詩神よ。真実をなおざりに、沈黙の言い訳はよせ!
尚、高松雄一訳版(岩波文庫)を手に取る。

ソネットとは、ルネサンス期イタリアに発する十四行詩のこと。この形式がイギリスに渡ると、ひときわ異彩を放つソネット文学が生まれた。シェイクスピアの「ソネット集」がそれである。
但し、この作品について知られている事実は、ごくわずかだという。詩作した人物がシェイクスピアであることは間違いなさそうだが、刊行となるとトマス・ソープなる人物が浮かび上がる。しかも、校正の状態などから推して、シェイクスピア自身は目を通していないようだとか。なかなかの謎めいた作品である。
詠われる人物にしても、美貌の男子に、黒い女(ダーク・レディ)とくれば、シェイクスピア自身の愛の遍歴か。黒い女とただならぬ関係を歌えば、小悪魔か、高級娼婦か。美男子への愛を熱く歌えば、同性愛説も囁かれる。登場人物の身分や実名を追えば、謎が謎を呼び、興味が興味をそそり、想像が想像を掻き立てる。作者がシェイクスピアというだけで文学史上の問題となり、専門家の間で様々な説が飛び交う。

しかしながら、天邪鬼な読み手には、そんなことはどうでもええ。背後に潜む事実関係なんぞに興味はない。目の前の字句を素直に追うだけだ。
とはいえ、その解釈となると、やはり天邪鬼。愛の讃美歌が、どこか皮肉まじりに響く。文壇では神と悪魔の相性はすこぶる良いと見え、慰安と絶望が交差し、天国と地獄が表裏一体で仕掛けてきやがる。
天使は悪魔のごとく真実を覆い隠し、股ぐらから梅毒を撒き散らす。愉快!愉快!
のぼせ上がった美貌への愛に無慈悲を喰らわせ、黒衣裳をまとって愛の喪に服す。愉快!愉快!
かくして愛は道化に成り果て、犬にでも喰わせちまえ!これで犬儒学派に鞍替えよ。シェイクスピア文学は、こうでなくっちゃ!

シェイクスピア自身も、あの世で専門家たちの論争を尻目に、単に思いついた言葉を形式的に整えてみただけよ!って笑い飛ばしているやもしれん。詩人は文章を整えるだけでいい。それで学識は優雅な美しさを飾りたて、粗野な無知を知識と同じ高さに引き上げてくれる。愛の十字架を背負う者に慰めはいらぬ。醜い姿になる前に、ご自分を蒸留しちまいな!ってか。
さらに、愛の讃美歌を拾うと...

「愛がつくる最良の習慣は、信じあうふりをすることだ!」

「盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、最低のものをこよなく優れていると思い込む。私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。」

「愛していなくとも、愛していると言うがいい。いらだちやすい病人でも、死期が近づくと、医者からは良くなりますという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望すれば、狂乱におちいり、狂乱の最中におまえを悪しざまに言うかもしれない。すべてをねじまげる当世の堕落ははなはだしいから、狂った男の中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。」

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