2023-10-01

"てのひらの肖像画" Lytton Strachey 著

イギリスの本屋には、伝記コーナーがしっかりと設けられているそうな。古本屋ともなると、年季の入った、それこそ歴史を感じさせる区画を演出しているらしい。昔から伝記が読み物として親しまれてきたお国柄というわけか...
一人の人物を語るということは、その人物が生きた時代を語るということ。人類の歴史を個人の歴史の集合体として眺めれば、まさに本書がそれを体現してくれる...
尚、中野康司訳版(みすず書房)を手に取る。

「過去に関する事実を、芸術の力を借りずにただ集めただけでは、それは単なる事実の寄せ集めにすぎない。もちろんそういうものが役に立つこともあるが、それは断じて歴史ではない。すなわち、バターと卵と香草を寄せ集めてもオムレツにならないのと同じである。」

原題 "Portraits in Miniature"
これに「てのひらの肖像画」という邦題を与えた翻訳センスもなかなか。ここで言う肖像画とは、単なる人物像ではない。スナップ写真のような静止画でもない。もっと連続的で動的な... ある人物を遠近法で眺めながら、自分自身に返ってくる何かを感じるような...
リットン・ストレイチーは、18 篇ものささやかな人物像を連結して、16 世紀から 19 世紀頃のイギリスの社会風潮を炙り出す。彼は、遠い昔に思いを馳せ、彼自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪ったか。18 世紀頃の文才には柔和に美点を持ち上げ、19 世紀頃の文才には辛辣な批評を喰らわす。
例えば、デイヴィッド・ヒュームには、中世の神学的思考を一掃し、理性を純粋に発揮して公平無私の精神を実践したと、神わざのごとく称賛し、エドワード・ギボンには、節度ある理性と調和という天性の資質の持ち主として憧憬する。
一方、トーマス・カーライルには、度の過ぎる道徳癖によって自らの芸術的才能をぶちこわしたと手厳しい上に、カーライルに私淑したジェイムズ・アントニー・フルードに至っては、偏狭なプロテスタンティズムに幼稚な倫理観と切り捨てる。

「盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。」

ヴィクトリア朝の時代といえば、産業革命によって国家経済を進展させ、帝国主義へ邁進していく時代。文学や芸術までもが、やがて訪れる偏狭な愛国主義へ傾倒していく。ストレイチーは、そんな兆しでも感じ取ったのだろうか。「文体は精神を映す鏡」としながら、雄弁家の文体には「もはや繊細さや洗練を期待しても無駄!」と言い放つ。芸術精神の持ち主だからこそ、時代の変化に感じ入るものがあるのやもしれん。特に、世界が狂気へ向かう時は...

「この世にはもはやかつての面影はなかった。何かがおかしくなっていた。あの騒乱と、あの改革と、それからまた改革の改革。まともに相手にする必要はなさそうだ。居眠りをしていたほうがよさそうだ。」

また、6 人のイギリスの歴史家を論じながら、歴史学のあるべき姿についても断片的に暗示している。6 人とは、ヒューム、ギボン、マコーリー、カーライル、フルード、クレイトン。
まず、歴史家の素質には、三つあるという。一つは、事実を吸収する能力。二つは、吸収した事実を叙述する能力。そして三つは、視点である。だが、三つ目を備える歴史家は、なかなかいないと苦言を呈す。
「歴史はなによりも物語」という。だが、書き手が語り手となり、歴史家が雄弁家となれば、それは悲劇の時代か。雄弁家の困ったところは、聴衆を自由にさせないことだ。歴史家が道徳を説く必要もあるまいが、雄弁家は道徳や倫理に血眼になる。まるで聖職者!
歴史書が道徳臭を漂わせれば、トゥキュディデスの神秘的な智慧やタキトゥスの迫力に思いを馳せる。主題を本当に理解している歴史家は、そうはいないという。それでも仕事を成し遂げられるのはなぜか。自分自身を知り、自分自身の限界を知り、その上で自己の中に調和を保ち続ける能力。これこそが、歴史家の資質というものか。客観的な立場を保つには、批判的な視点が欠かせない。ストレイチーは、ギボンを内面的調和を保つ名人!と称賛する...

「明確な視点をもつということは、対象に共感を抱くということではない。むしろ逆だと言ってよい。不思議なことに、偉大な歴史家は自分の題材と敵同士みたいに睨み合っている場合がじつに多い。たとえば、洗練された冷笑家のギボンは『ローマ帝国衰亡史』において、野蛮と迷信の叙述に二十年を費やした...」

0 コメント:

コメントを投稿