2025-10-26

"生命 - 有機体論の考察" Ludwig von Bertalanffy 著

科学界には、「大統一理論」という壮大な夢がある。それは、自然界に存在する四つの力を統一した力学法則で記述しよういうもの。四つの力とは、重力、電磁気力、クォークの結合や原子核を形成する強い力、中性子のベータ崩壊などを引き起こす弱い力で、これらを一つの宇宙法則で説明することが物理学者の使命とされる。
生物学者ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィは、この「統一」という用語に対して「一般」という用語を当て、物理学を超越した学際的な立場を表明する。「一般システム理論」がそれだ。生物や無生物の垣根を取り払い、精神現象や社会現象をも取り込んだ一般理論を構築しようというのだから、大々統一理論とでも言おうか...

生物の生息や形態、系統的な発生や進化に留まらず、合目的性や人間の存在意義までも論じようとすれば、心理学、精神医学、社会学、哲学など、さらには形而上学の領域にまで踏み込むことになる。デカルト流儀の物質と霊魂という二元論を乗り越えて...
ただし、ここでは生物体を一つのシステムと見なす点において、やはり生物学の書ということになろう。
尚、長野敬、飯島衛共訳版(みすず書房)を手に取る。

「そこで、問題は誰もまだ見ぬ物事を見たりすることよりも、むしろ誰もが見ていながら、誰もまだ考えぬ物事を考えるという点にこそある。」
... ショウペンハウエル

一つのシステムは、全体性を示す。この特性は、生存競争において個よりも優位ならしめる。人間社会では、集団性がそれだ。
全体は、連携、協調、相殺、排他といった相互作用によって、一つの有機体を成す。それは、細胞レベル、生命体レベル、統一体レベルで階層構造をなし、なんらかの秩序めいたものをもたらす。自己生長、自己再生、自己調整、自己分割、自己複製といった運動をともなって...

しかしながら、生長には腐敗がつきもの。全体性には、やがて分解作用が働く。それを機械論で説明するには限界があろう。なんらかの意思が働いているようにも見える。科学法則ってやつは、本質的に統計的な性格を持ち、結局は確率論を持ち込むことになるのだろうか。エントロピーが介在する限り...

なぜ電子が存在するのか?物理学者は答えてくれない。
なぜ生命が生じるのか?生物学者は答えてくれない。
ベルタランフィは、ただ生物体が開放系にあり、しかも定常状態システムであるとだけ告げる...

「閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義される。このことから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるということである。」

 たった一つの掟に 世は結ばれる。
 うつろうものの つらなりと共に
 千千(ちぢ)にかわって 見分けがたくとも
 力づよく流れる規矩(のり)はかわらぬ。
  ...
 この世は 矛盾で織りなされ
 経(たて)と緯(よこ)とは 相容れない。
  ...
 然りと 否とは 相結び高く翔(か)け
 そこに 真実は生みいだされる。
 相容れぬものこそ 生命だ。
 やわらかな憩い それは永遠(とわ)の眠り... 死。
 かくして 神の姿すらも
 矛盾のうちにこそ 生きている。
  ...
 相容れぬもの 矛盾。
 これこそは豊かな流れの 源をなし、
 すべてのものは ここに始まる。
  ...
... 「詩と反歌」より抜粋。

2025-10-19

"いかにして問題をとくか" George Pólya 著

これは、数学の書である。しかし、数学だけに留めておくのはもったいない。数学者ジョージ・ポリアは、問題解決のための一つの道筋を示してくれる。
尚、柿内賢信訳版(丸善出版)を手に取る。 

  • 第一に、問題を理解せよ!
  • 第二に、データと未知のものとの関連を見つけ、関連がすぐに分からなければ補助問題を考え、そうして計画せよ!
  • 第三に、計画を実行せよ!
  • 第四に、得られた答えを検討せよ!

個人的には、四つ目を注視したい。振り返ることに...
人間が思考する上で言語の役割は大きい。さらに突っ込んで記述のやり方に注目すれば、数学的な表記法が鍵となる。数学は、それだけで一つの言語体系を持っている。

「方程式をたてるということは、言葉であらわされている条件を数学的記号をつかってかき表すことである。それは日常の言葉から数式という言葉に翻訳することである。方程式をたてるときに感ずる困難はこの翻訳のむずかしさである。」

数学という学問は、客観性において他を寄せ付けない。その特徴の一つに、記号や数式を用いて表記する技術があり、直観的でありながら形式的なアプローチを強固なものにする。その過程で演繹的な思考や帰納的な思考を巡らせ、仮説を導入しながら試行錯誤を繰り返す。
本来、帰納法は個々の事例から共通の法則を見出そうとする論理的推論である。だが、数学的帰納法となると、むしろ演繹的となる。逆向きの演繹法とでも言おうか。演繹法をトップダウンとするなら、数学的帰納法はボトムアップといったところ。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...

「帰納とは観察や特殊な事例の組合せから一般的な法則を発見する手続きである。それはあらゆる科学において用いられ、数学においてさえ極めて有効である。数学的帰納法は数学においてだけ使われ、ある種の定理を証明するのに役に立つ。この二つのものの間の関連は非常に浅いのであるから、似た名前がついていることはむしろ不幸なことである。じっさいにはこれら二つを併用することがあるから、もちろんそういう意味で全く無縁のものではない。」

データ社会では、分析という言葉が乱用される。人間は、好奇心をそそるような事物に遭遇すると、それを調べずにはいられない。対象が複雑であれば、その全体像を把握するために、分解と結合を繰り返す。理解できなければ、それをバラバラにして構成要素へ還元してみな!ってな具合に...

また、事物の検証では、解析という言葉がよく用いられる。ある結論に達すれば、そのプロセスを紐解かずにはいられない。こうした視点は、結果から原因へ辿るような逆向きの仕事をやる時に都合がいい。

さらに、検証に行き詰まると、一旦否定を仮定して、この仮定を否定するという形で矛盾に活路を見いだす。帰謬法がそれだ。直接的な推論で行き詰まると、今度は間接証明を試み、推論の手続きを分解しては帰謬的思考を絡めて手続きを並び替えてみる。事物そのものにしても、検証プロセスにしても、あらゆる場面で分解と結合を試みるわけだ。
これに類似性と抽象的な視点を交え、仮説を立て、問題を違う角度から見直す。そして、問題を変形し、データや条件を変形し、問題を言い換えることができるかを問う。
こうした変形プロセスに、数学的な記号操作が有効というわけだ。人間の思考には、どこか還元主義的な性質があるようである...

「問題をとくということは人間の基本的な活動の一つである。われわれの意識的な思考の多くは何かある問題に関連したものである。ただ戯れや夢想をしているのでない限り、われわれの思考は必ずある目的にむけられている。われわれは手段をもとめ、問題を解こうとするのである。」

2025-10-12

"数学と算数の遠近法" 瀬山士郎 著

数学者瀬山士郎氏には、「数学にとって証明とはなにか」と題し、あの呪われた ε-δ 論法をほぐしていただいた(前記事)。
ここでは「数学と算数の遠近法」と題し、ちょいと風変わりな風景を物語ってくれる。その主旨は、「算数を通して数学を眺め、数学の広い高台から算数を眺めることで、抽象的な高等数学・現代数学と素朴な算数が地続きであると実感できる。」とさ...

本書で用いられる道具は二つ、「食塩水の濃度」「方眼紙」。どちらも小学校で馴染んだものだ。微分積分学を食塩水の濃度の延長上で、線形代数を方眼紙の延長上で眺めるという趣向(酒肴)である。
濃度という量は、長さや重さ、面積などとは、ちと違う性質を持っている。それは、全体量に対する割合や比で表される量。その意味では、速度も時間に対する距離という比で表されるので、扱いが似通っている。この比に極限という概念が加わると、そのまま微分積分学になるという寸法よ。
また、方眼紙を用いたお絵描きで、ユークリッド空間にベクトル量を適用すると、そのままアフィン幾何学を体現できる。小学生の頃に見た図形の風景を、幾何学の風景に写像するって寸法よ。
こうした視点は童心に帰る思い、脂ぎった天の邪鬼な心を少しばかり救ってくれる。

内包量こそが、微分積分学の先祖...
長さ、重さ、面積といった加算することに意味のある外延量を時間の関数に適用すれば、加算しても意味のない内包量に変貌させる。加法が成り立つということが、様々な局面でいかに役立つか。線形代数では欠かせない視点である。
内包量という概念は、高度な記号化と形式化された演算システムによって実数体での四則演算を可能ならしめ、さらには複素数体での四則演算へと拡張させる。
ちなみに、sin を微分すると、cos に、 cos を微分すると -sin に... これだけでフーリエ変換の偉大さを感じる。本書にはフーリエ変換という用語は登場しないけど...

あの呪われた ε-δ 論法を方眼紙を通して眺めれば...
正方形でパッキングして近似していくプロセスから、フィボナッチ数列を通して黄金比を見るような風景が見えてくる。
ちなみに、正方形を平行四辺形にすれば、そのままアフィン幾何学となる。すべての三角形はアフィン合同というわけか...

「一次変換という名の正比例」を論じれば...
正比例という概念が、正比例関数に拡張され、さらに多次元の正比例関数に昇華した時、固有値問題が匂い立つ。
ちなみに、本書には固有値や固有ベクトルという用語は登場しないけど...

  y = ax
  → y = Ax
  → Ax = λx

「平方完成という名のテーラー展開」を論じれば...
二次関数に平方完成を適用すると、2乗比例から座標変換系が得られる。解析学では欠かせない視点だ。

  y = a + bx + cx2
  → y + (b2 - 4ac) / 4c = c(x + b/2c)2

これを 2乗比例の形で捉えると、

  Y = y + (b2 - 4ac) / 4c,  X = x + b/2c
  → Y = cX2

まさに、xy 軸から XY 軸への座標変換を示している。
すべては、小学校で学んだ正比例からの地続きであったとさ...

そういえば、小学校の問題に「植木算」ってやつがあった。木を同じ間隔で植える時、必要な木の数やその間隔の長さを求めるってヤツだ。これを多面体に持ち込んで、頂点の数を p、辺の数を q、面の数を r、切断の数を s とすると、「オイラー・ポアンカレの定理」が見えてくる。

  p - q + r = 2 - s

これを曲面で眺めれば、トポロジーへの道筋が見えてくる。すべては、小学校で学んだ植木算からの地続きであったとさ...

2025-10-05

"数学にとって証明とはなにか" 瀬山士郎 著

おいらは数学の落ちこぼれ。その張本が、大学初等教育でいきなり出くわした ε-δ 論法だ!
本書の副題にも「ピタゴラスの定理からイプシロン・デルタ論法まで」とあり、この用語に引き寄せられる。怖いもの見たさか、ブルーバックスというのもあろう。それは一般向けの科学・理工学シリーズで、子供から大人まで楽しめるという趣向(酒肴)。学生時代、おいらはブルーバックス教の信者であった。やはり数学をやるのは楽しい。童心に返る思い...

「絵を描けなくても、名画を鑑賞することで、何が名画なのかを心の中に刻むことができる。作曲ができなくても、一流の音楽を鑑賞することで、音楽に対する感性が養われる...」

本書は、数学の肝である証明に焦点を当て、絵画や音楽のように鑑賞しようという趣向。基本となる論理構造に、演繹、帰納、仮説の三つを挙げ、論ずる技術に、数学的帰納法、背理法などを巡り、円周角不変の定理、ピタゴラスの定理、プトレマイオスの定理、デデキントの切断などを外観させてくれる。
そして、中間値の定理や区間縮小法の原理が登場すると、いよいよ ε-δ 論法が匂い立つ。

それは、論理学から、幾何学、解析学、代数学へと辿る巡礼の旅!
論理学の最も単純なやり方は三段論法、これを日常会話に持ち込めば、たちまち屁理屈屋に...
一方、幾何学の証明は純粋にワクワクさせてくれる。ちょいと補助線を加えるだけで物理構造を可視化し、新たな空間イメージが沸き立つ。
解析学は、微分積分学が発展した形で連続や無限の概念へと導く。無限を相手取れば、循環論法に陥るは必定。代数学でも無限が問題となるが、n 乗根の演算を相手取れば、別の世界へいざなう...

ところで、証明とはなんであろう...
本書には、「証明とは、だれもが正しいと認める事実から出発して、新しい事実へと論理をつないでいくこと。」とある。
だが、その用い方は人それぞれ。相手を説得する手段、自分自身を納得させる手段、議論を高尚せしめる手段、あるいは論争で相手を貶めたり、論理で武装して煙に巻く手段... と。
いずれにせよ、ある事実が正しいことを確認する手続き、とすることはできよう。有無を言わさず正しさを強要しちまうので、自由を心棒する者には威圧的ですらある。M にはたまらんが...
証明のプロセスを味わうことは文章の読解力にも寄与する。論理思考のやり方においても参考になり、一つの命題に対して証明法がいくつもあれば、それだけ思考法が広がる。

しかしながら、証明の最も難しいのは存在証明であろう...
解の存在、中間値の存在、極限の存在を求め、手続きが行き詰まれば、存在の否定を仮定して、それを否定するという形を模索する。こうした試行錯誤が懐疑心を焚き付け、自己の存在、魂の存在を問い、神の存在証明に挑む羽目に。
となれば、直感を信じて、そのまま受け入れる方が幸せやもしれん。パスカルのように。まぁ、神が存在する方に賭けたところで失うものはあるまい。
数学の記号操作が記述を厳密にするが、その意味するものとなると、様々な解釈を呼ぶ...

「数学記号はこの世界をよく知るために人が考え出した言葉の一つです。これほどうまく作られた人工言語はない、と言ってもいいかもしれません。言葉には意味があります。その意味を追いかけることが証明の本質的な部分だと私は考えます。」

ついでに、あの忌々しいヤツにも触れておこう...
ε-δ 論法なんて、ギリシア文字で表記するから大層なものに見えちまう。だが、意味することは単純だ。xy 座標系において、連続関数の x の範囲を狭めていくと、y の範囲も狭まり、その極限が解、あるいは近似値となる。なんて当たり前なことを。あとは ε が y に δ が x に相当するたけのこと。連続していれば、必ず二等分できる、と言っているのと同じレベル!
連続性が保証されるからこそ大小関係が成り立ち、適当なところで切断でき、中間値も得られる。おぼろげな対象へのアプローチは、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方は実に単純だ。こうしたアプローチが重要視されるのは、微分方程式の多くが解けないという背景がある。
言うなれば、連続性の世界における万能な論法というわけだ。しかし、物事は単純で純粋なものほど、証明するのが難しい。そして、落ちこぼれは、数学を暗記科目にしちまったとさ...