2007-01-30

"はじめて読むドラッカー: 技術編" Peter F. Drucker 著

4冊目: 技術編 - テクノロジストの条件
本書は、シリーズに新たに加えられたもので、前作と少々重複したところがある。要点を簡単に記すと、こういったところだろう。
文明を作るのは技術であり、テクノロジストである。
テクノロジストこそ、知識と思考を夢に終わらせないために、マネジメントが必要である。

過去の技術革命から学ぶべきものとして、歴史を紐解くところから始まる。
「今日、7000年ぶりに遠い祖先が灌漑文明の時代に経験したものと同じ状況にある。古代シュメール人や古代中国人が今日の技術を見れば唖然とするだろう。しかし社会制度や政治制度に対しては親近感を抱くだろう。」
今日の制度は、古代と大差がないと語っている。
人間社会の爆発的変化は科学の進歩であると通常は答えそうなものである。
しかし、本書は少々異を唱えて、「人類が最も進化させたものは技術の体系化である。」とも述べている。

IT革命は産業革命になぞって語られている。
「IT革命の問題は情報そのものではない。eコマースの影響である。1万年前狩猟と採集の時代から農耕と牧畜の時代に入ったように、予想もつかない産業が生まれる。既にバイオテクノロジーが生まれた。今後20年間で相当数の新産業が生まれるだろう。しかも、それらの多くがIT、コンピュータインターネット関連ではない。」
そういえば、産業革命で鉄道が生まれた時代には、印刷革命が起こり郵便、新聞、銀行など多種にわたるサービス産業を引き起こした。なかなか視野の広い分析である。

「テクノロジストを遇するのに金銭で懐柔するこは不可能である。今日のように株主利益を最優先する経営では10年ともたない。知識産業の基盤は、どこまで知識労働者を惹きつけ、いかにやる気を起こさせるかにかかっている。つまり、従業員としてではなくパートナーとして遇さなければならない。」
多くの会社で技術者の流出を防ぎきれないでいる。しかし、おいらは技術者が一定の場所に居つくより、ある程度循環した方が凝り固まった文化に染まらなくて良いと考えている。技術者は会社同士の関係ではなく個人の繋がりの方が大きいのである。

「今日かかえる大企業の官僚的、保守的体質はイノベーションの障害となる。しかし、中小企業でも同じである。最も起業家精神に乏しくイノベーション体質に欠けているものはむしろ小さな組織である。イノベーションや起業家体質は規模には関わりがない。その障害は既存の事業である。」
どんな組織であれ、起業家精神を持続することは難しい。一度成功すると惰性的になりがちである。人は楽な方向や心地良いところに居続けたいからである。
アル中ハイマーは、今が最高に心地良い状態にある。そして、惰性的に夜の社交場へ足が向く。まさに今、絶滅への一歩を踏み出したところである。

「イノベーションの機会は、あらゆる社会変化に対して可能性を模索できる。例えば人口構造に目をつけたのは日本の企業だった。少子化構造を予測し、あらゆるところでロボット化が進んでいる。」
日本を褒めている文面は珍しいので目に留まる。しかし、少々褒めすぎである。ロボット化については、人件費を節約するための企業努力であり、社会現象の先を見越した政策ではないのである。
人口減少、高齢化社会は、むしろイノベーションの機会と見るべきであろう。
資本主義は、人口増加と共に自然増殖してきた。しかし、いつかは、地球資源も枯渇する。このまま地球だけに住み続けるならば、いつかは歯止めが必要である。人類に生物的防衛本能が働いても不思議はないのである。いったい日本人口はどのくらいが適正なのか?そして世界人口は?地球資源は限られ、しかも日本にはほとんどない。更に農業政策によって食料の自給自足もままならない。1億も人口のある先進国は、アメリカの広大な国土を別にすれば日本ぐらいなものである。それだけのために少子化担当大臣を設置し、しかも政策は"子供を生みましょう!"という始末である。グローバル化した社会、住み心地が良ければ移民でもなんでも集まるのが自然の理である。将来に大きなツケを残す政策を続けているのだから、その結果も自然の理である。

「技術格差についての説明には大部分が間違っている。アメリカが優位に立っているのは政府予算のためであるという説明にいたっては完全に誤りである。政府予算が技術や頭脳に対して役割を果たすことは稀である。ヨーロッパでも研究の成果は上がっている。しかし、技術格差が生まれるのは、研究成果を製品化できていないことである。」
科学上の成果を経済的な事業に転換する能力、つまり、マネジメントとマーケティング能力は金では買えないのである。
日本においても政府の起業家支援ブログラムが横行して補助金がばらまかれている。こうした補助金を頼る企業は自立性を失う危険性がある。更に第三者の資本が入ると、経営者によっては投資家の方向に目が行き、従業員や事業の方向に目が行かないなど、もはや誰の会社なのか分からなくなるといった深刻な状況になる。補助金や資本が入ると一時的に経営が改善されるように見えるが幻想に過ぎない。
という話を、アル中ハイマーは友達の友達から聞いたことを思い出すのである。

「イギリスの頭脳流出の原因の1つはオックスフォードとケンブリッジの存在にある。フランスがアメリカとの技術格差を生んだ原因の1つはグランゼコールにある。これらはエリート養成機関としては優れた教育を行う。しかし、両国でリーダーの地位につけるのは、これらの機関の卒業生だけである。特定の機関以外の人間に道を閉ざすことは、知識の本質と相容れない。いかなる大学で習得した知識であっても5年で陳腐化するからである。」
知識社会では、もはや上り詰めていく道を制約する余裕などないということなのだろう。
また、いかに高度な知識を習得しても5年しか持たないと言い切られるのは、おいらには辛過ぎるのである。アル中ハイマーには、もはや知識が無いと断言されたのである。"真っ白だぜ!"

「今や知識は、資本と労働をさしおき、最大の生産要素となりつつある。しかし、われわれの時代を知識社会と言うには時期尚早である。今のところ知識経済をもつに過ぎない。とはいえ現在の社会が資本主義社会でないことは間違いない。」
本シリーズを読んで、1909年生まれのドラッカーじいさんの分析が、現在でも通用するところがすごいと感心させられるのである。いまや21世紀、既に知識社会へ突入していると考えねばなるまい。まさしくポスト資本主義が到来しているのであるが、適切な言葉が生まれないのも不思議である。それだけ捉えどころの無い社会ということなのだろうか?
新語が出ても、アル中ハイマーにはどうせ覚えられないのである。

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