2010-01-06

もしも、アル中ハイマーな数学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな数学者がいたら...だめだこりゃ!

大デカルトのように、若き日に哲学や倫理学を蔑み、数学だけが真理を与えるとしながら、結局哲学へ帰依していった偉大な数学者は多い。したがって、あらゆる数学の公理には、なんらかの哲学的な意味が内包されている。
アインシュタインが時空の概念を持ち出す前から、カントが時間と空間のみをア・プリオリな認識と規定したことには意義深いものがある。


1. 数学は哲学である
人類が学問を始めたきっかけとは何か?その源泉となる思考とは何か?などと、ぼんやりと考えてみる。それは、人間とは何か?自己とは何か?生きるとは何か?こうした素朴な疑問から始まったことだろう。そこには、人類の住む宇宙の真理を探求する欲望がある。となると、思考の源泉は欲望であろうか。人間精神という得体の知れないものを解明しようとすれば、明確なところから徐々に形式化していく。抽象化技法とは、古代から受け継がれる哲学的思考方法である。そして、人間の思考から生まれた公理は、見事な宇宙原理を示している。公理は直観によって生み出され、そこから客観的に演繹されたものが理論体系として構築される。数学という学問の流れが始まったのは、こんな感じであろうか。人間精神から形式化されたものだけが数学として分離し、そして、いまだに人間精神の真髄部分だけが哲学に留まり続ける。つまり、自然哲学として分離したものが数学であると解釈している。それは、ニュートンの著書プリンキピアの正式名「自然哲学の数学的原理」が示していると言っていいだろう。したがって、数学も哲学も論理体系化しようと試みる点では、同じ学問である。
古代から、数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。数学の問題を一つ解決すれば新たな問題が生じ、数学は常に不安定な状態にある。というより、すべての学問が常に危機的状況に曝されると言っていい。だから学問なのである。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、常に直観と形式の対立が見られ、方法論においても哲学的な論争が繰り返される。人間味と無味乾燥の対立は延々と続くかのように。
ユークリッドの「原論」は、人類史上最も厳密性のある書物と言われる。だが、非ユークリッド空間が登場すると、数学の真理に疑いを持つ風潮が現れた。第五公準は、明らかに他の公準よりもややこしい。いわゆる平行線公理である。ここにユークリッド自身が、非ユークリッド空間の可能性を暗示していたと解釈するのは考え過ぎか。そこで、数学の乱れに方法論的に方向付けをしようと試みたのが、ヒルベルト・プログラムである。しかしこれまた、不完全性定理の登場によって、数学は哲学の領域に引き戻された感がある。この感覚は、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映ったであろう。
G.H.ハーディ曰く、「数学者が作る様式は、ちょうど画家や詩人の様式と同様に美しくなければならない。様々な概念は、色や言葉と同様に、互いに調和しつつ全体を形作らなければならない。美が第一の条件である。この世には醜悪な数学に永住の地はない。」

2. 異質な学問
純粋な数学は他の学問と比べて異質である。物理学は、機関車やエネルギーといった、人間社会を豊かにしようとする具体的な目的を持っている。あらゆる学問は、人間社会への貢献を具体的に掲げる。それに反して、結果的に害となるケースも多いわけだが。対して、数学は不思議な世界で、そこに目的なんてものはない。ひたすら美しい理論や真理を探求するだけだ。結果的に何に使われようが知ったこっちゃない!言い換えれば、純粋な精神を探求する世界である。数学のほとんどの定理が、日常生活に役立つわけではない。役立てているのは占い師ぐらいか。純粋とは言っても、難問を解くことによって名声を得ようとか、賞金をものにしようといった野心もつきまとうわけだが。
発見された理論は、偶然にも後に応用分野で活躍する場が与えられる。まさか素数の発見者が、暗号アルゴリズムに使われるとは思わなかっただろう。あらゆる技術分野において、数学の知識がなければ仕事ができない。人類への貢献という意味では、数学は間接的にしか拘われない。だからといって、他の学問がどれほど人類に貢献したというのか?どんな学問であれ宇宙に貢献したものなどあるのか?偉大な生命体の歴史を眺めれば、一匹のプランクトンよりも貢献した人間なんているのか?どんな優れた知識でも、人間社会にとって薬にも毒にもなる。多くの科学者が純粋な知識を政治的に悪用されて苦悩してきた。弾道計算や航空力学など、数学の戦争への貢献は大きい。もし、戦争が終わるのが早いほど善とするならば、科学の戦争への貢献は絶大と言えよう。更に悲観論に持ち込んで、人類滅亡の危機まで背負い込めば、宇宙平和のために貢献していると言えるかもしれない。自然環境にとって、もっとも有害な人間社会を抹殺できるのだから。
数学者たちは、純粋に学問に取り組むために、政治的な思惑にかかわることを避けたいと考えるだろう。そして、人間社会にかかわることを嫌うかもしれない。純粋な精神を追い求めれば、人間嫌いにもなる。肩の凝る世間体に巻き込まれたり、片意地を張っていては、純粋な精神を解放できるはずもないのだから。こうした境地は、凡庸な酔っ払いの憧れでもあるが、けして到達できるものではない。自由とは、天才にのみ与えられた特権なのだろう。
「凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いは自由がほしい!と大声で訴える。純粋な天才は無言で自由を謳歌する。」

3. 数学の神
数学の歴史は抽象化と一般化の歴史である。もともと数学の対象は数であり、それは自然数から始まった。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の系からはみ出すことである。算術によって系が閉じられない現象は、数の概念を、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させた。そして、無限の概念にぶつかった時、神が現れた。論理的限界に到達した時、不完全性定理が姿を現し、数学ですら矛盾の概念には無力であることを証明した。数学は、またもや宗教へと引き戻されるのか?
数学の抽象化は、射影幾何学でおもしろい現象を見せる。写しを完全にするか?不完全にするか?と議論すれば、実存論やイデオ論に通ずるものがある。まさしくトポロジーの世界は、あらゆる物体の形状を位相的に同等化して、物体の実体を曖昧にする。物体の構造は、抽象化の進化とともに分解され、もはや実存から離れていくかのようだ。数学的実存は、形而上学の問題を多く解決してきた。だが、人間の持つ抽象化概念は哲学的な実存問題をややこしくする。数学の発達がコンピュータを進化させ、議論の対象を実空間から仮想空間へと変えてきた。科学が天動説から地動説へ変化させ人間の地位を下げていくかのように、数学は実存の概念から遠ざけようとしているのかもしれない。そして、人間の存在すら蔑むのだろうか?
数学界には、二つの相反する宗派がある。それは、「離散」と「連続」である。代数学は自然数や有理数などの離散数を対象とし、解析学は関数や無理数などの連続体を対象とする。代数学は真理を求める理論的方法であり、解析学は生きるための実践的方法と言えよう。それぞれの宗教的立場は、無限を神に崇めるか自然数を神に崇めるかの違いである。離散数の極限には神秘な宇宙が拡がり、連続体の中で自然数は特別な輝きを見せる。
また、数学界を違った角度から眺めると超越数の諸派が入り乱れる。その代表が、円周率π派とネイピア数e派である。誰がどの宗派に属するかは簡単に見分けられる。ちなみに、アル中ハイマーはe派である。その証拠に、オッパイ星人ではなくて、脚線美にこそ自然美の対(つい)を心底感じるからである。これを「自然対数底の原理」という。ところで、超越数と超越数を足すと、答えは超越数になるのだろうか?
あらゆるカルト宗教の源泉が無限の概念に憑かれる。彼らは布教活動に数秘術を使う。まず、4,3,2,1で形成される正三角形を崇め、足せば10となり、これを聖なる数とする。神の正体を暴くには、親しみのある数を元にする。そうでなければ民衆は理解した気になれないので、詐欺は成立しない。ちなみに、鏡の向こうに、「十の時が流れる」という名を持つ赤い顔をした住人がいる。彼はテトラクテュスの申し子か?はたまた霊能者か?いや!単なる泥酔者だ。

4. 無限の概念
人間の認識は「無限」という概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?数学者は、無限濃度アレフを崇め、より次元の高い無限!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える。微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れれば、精神が安住できるだけのことかもしれない。酔っ払いは、「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定しながら、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶にないから永遠に飲める量が解明できない。結局、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないではないか。ここから得られる帰結とは、酔い潰れて気分悪くその場に寝込んでいる状態が「有限の概念」で、精神だけが「あぁ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が「無限の概念」である。これは天国か?無限地獄か?人間は「無限」という言葉に憑かれる。人間精神には幻影を追いかける性質があるのだろうか?実存するかも分からない不可能な観念を熱烈に求めるのは、人間精神の持つ本質なのか?だから、実りもしない愛を求めるのか?なるほど、愛は実を結んだ途端に興ざめするのも道理である。

5. 巨匠の影と複雑系の道具
複素解析に重要な指数関数と三角関数の関係を示したのは、言わずと知れた巨匠オイラーである。この数学の道具は、急激に増大し発散する世界を、振動する閉じた世界に変えてしまう。そのお陰で、ホーキングは、虚時間という概念を持ち出し、宇宙の境界線まで無くしてしまった。アルコールのピッチが上がれば上がるほど、同じ台詞を繰り返してホットな女性を口説くという現象もオイラーの公式によって説明がつく。夜の社交場へとまっすぐに向かう足取り(クリティカル・ライン)は、いつのまにか例の店(零点)にいる。店を出て、更にまっすぐ歩くと、またまた例の店(零点)に辿り着く。ただ、クリティカル・ラインがまっすくだと信じているのは、歩いている本人だけで、結果的に螺旋を描いている。この現象は、実(実数部)は半分(1/2)しか飲んでいないのに、ひょっとしたら(虚数部で)無限に飲んでいるのかもしれない。しかも記憶がない(自明でない)。おまけに、たとえベロンベロンに酔っ払っていても、別の人格(定義域)では、「俺は酔ってないぜ!」と主張する。これはまさしくゼータ関数の特性ではないか。なるほど、リーマン予想は、酔っ払いの気まぐれな行動をも体現させる。
ひょっとしたら、あらゆるランダム現象は無限級数によって数学的に表記できるのかもしれない。ゼータ関数の自明でない零点は、多くの研究分野でランダム・モデルとして使われる。複雑系を議論する上では、確率論に持ち込んだ方が現実的な答えが得られるからだ。量子論では、エネルギー準位やカオス系において粒子の存在確率を議論する。ネット検索では、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。ランダム性には、実は数学的に体系化できる何かがあるような予感さえする。これすべて、背後に偉大なオイラーの影を感じる。
全ての行動規範を論理に頼るのは危険である。宇宙は矛盾律で成り立っているのだから。コンピュータ工学を学んだ人は、実数演算をいかに近似で誤魔化しているかを知っている。たまーに浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754の意義を匂わさてやればいい。そこに、べき乗の壁があることを。実数演算が全てできると信じるのは狂信的である。実数演算はできないものの方が多いのだから。アラン・チューリングは、プログラムが停止するかどうかを決定する機械的方法が発見できれば、計算できない実数演算も計算ができると主張した。いわゆる、対角線論法によって証明された「停止問題」である。
微積分学は、人間社会を実践的に捉え、極限に近づくことで豊かにしたと言っていい。数学は、社会現象などの複雑系を体系化する道具として用いられる。だが、数理物理学を支えてきたこの偉大な概念も、三百年に渡って息切れしている。そこで、実践的な解決策として「アルゴリズム」という概念が登場した。アルゴリズムは記号を操作する手続きに過ぎない。だが、知能の概念をも解き明かそうとするから摩訶不思議。アルゴリズムの計算は、有限で不連続で、ただシミュレーションによって離散的にスナップショットするだけだ。数学者は、この不連続なものを貼り付けることによって、近似的な仮想世界を推論する。いまや、自然科学の基本法則は、アルゴリズム、情報、記号の三つの概念によって救済されると言っていいのかもしれない。つまり、人間は、現実世界を仮想世界によって近似して実践しているわけか。

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