2010-01-24

"時間と自己" 木村敏 著

古くから、哲学の問題に「時間とは何か?」というのがある。時間の存在論は、アリストテレスの時代から多くの哲学者によって議論が重ねられてきた。カントは、ア・プリオリな純粋認識は時間と空間の二つのみであると規定した。
時間は客観的な物理量として存在するのは事実である。だが、人間にとっての時間は単なる意識の産物に過ぎないのではないか?と昔からなんとなく考えている。神は、人間に生きることを飽きさせないために様々なパーツを用意してくれた。昼と夜が繰り返し訪れ、月が移動する様は、生命に時間の流れを感じさせてくれる。そして、客観性を持つ時間の流れは、精神の主観性と結びついて、奇妙な認識を与える。昨日のことが、ずーっと昔に感じたり、昔のことが、つい昨日のように感じられる。幼少の頃、嫌なことがあると「時間は、いずれ過ぎ去る!」と呪文を唱えたものだ。台風が過ぎ去るかのように、じっと待つ。これが生きる術でもあった。いつのまにか、精神と時間との係りを強く意識してきた。昔から精神病になる資質があることは自覚していた。というより、誰しも潜在的に精神病を持っていると思っている。本人が気づかないこともある。精神病の気がない者は、欲望の病にとり憑かれているだけのことかもしれない。
人間は、自らの存在感という精神の居場所を求めながら生きている。これは精神を獲得した生命体の宿命であろうか?先進国では、物質的な豊かさをもたらしても自殺者の数は減らない。人から頼りにされると生きる力も湧く。停年になったり、役職を失った途端に気力を失う人も少なくない。子供たちが巣立ち家庭内の役割を終え、後は多くの孫に囲まれながら平穏に余生を送るだけとなった途端に痴呆症になる人を見かけるが、これは単なる偶然だろうか?知的障害者は、老けるのが早いという話も聞く。忙しい時には見せなかった兆候が、一安心した途端に病状が現れる。役割を期待される、あるいは、そう思われていると信じる妄想が気力を支える。権力誇示や既得権益を頑なに守ろうとするのも、自らの存在価値を見出そうとする防衛本能が働くのだろう。なるべく無神経さを演じて他人から期待されぬように仕向けるのも一つの防衛本能であろうか。そして、本当に他人の気持ちが見えなくなってしまう。こうしてブログを書いているのも、自らの居場所を求めているだけのことかもしれん!

本書で興味深いのは、自己の存在意識と時間意識の関係を、精神病の視点から解明しようと試みているところである。そして、自己の存在意識と、時間の流れを感じる意識は、実は同一のものではないかと語られる。精神病者に共通して見られる傾向は未来志向的だという。それは、遠い未来を夢見る自己の理想像を追い求める姿や、近未来をプログラムしたような緻密な計画から自己を見出すような姿である。実現不可能な夢想からは自己分裂を引き起こし、緻密な将来設計から逸脱すれば自分自身が許せない存在ともなろう。
また、死に対する人生観の違いによっても病状の違いがあるという。それは、死を否定的に考えて避けようとする心理と、逆に大いなる死と崇めて高揚感を求める心理といった違いである。分裂病患者には遠い未来を求めて夢想する性格、鬱病患者には近い未来の計画性と几帳面な性格、躁病患者にはお祭り気分的な高揚感を求める性格などの傾向があるという。いずれも、未来志向から現実と乖離した時の現実逃避と捉えることができそうだ。本書は、過去、現在、未来の時間軸を通常は連続性として認識するが、精神病患者は離散的に認識すると指摘している。そして、時間と自己の関係が均衡されている間は正常であるが、一端均衡が崩れると誰にでも異常になりうるという。

1. 「もの」と「こと」の差異
本書が紹介してくれる「言葉の差異」は興味深い。「もの」とは、「存在するもの」を意味し、西洋的実存論に通ずるものがある。自然科学は客観的観察を求めること、即ち「もの」を見ることを基本姿勢としてきた。実存論は、精神の存在を肉体と同じように物理的存在としての「もの」として議論される。ちなみに、「理論(theory)」の語源は、ギリシャ語の「見ること」だそうな。
もし、すべてが客観的に解釈できれば、すべてを「もの」として処理できるだろう。だが、そうはいかない。素晴らしい景色を眺めれば、眼に映る客観的情報があり、同時に心を動かされた主観的感情が現れる。景色と自己が一体化してこそ、精神は余韻として味わうことができる。
本書は、客観的に映るものを「もの」と表現し、主観的に映るものを「こと」と表現している。「もの」を「こと」という言い方で存在論的差異を表す習慣は、欧米の言葉にはまったく見られず、日本語独特の用法だという。とはいっても、カントも批判書の中で、唯物論よりは唯心論の方が優勢であると語りながら、認識の中にある主観性を強調していた。これも、認識の体系化に限界があるという意味では、思考的に似ているように思える。ちなみに、日本語の「もの」と「こと」の差異について、最初に哲学的考察を行ったのは和辻哲郎氏だそうな。
様々な場面で遭遇する「こと」には、すべて不安定な性格がある。人間には、自ら感じる意識に対して、他人にも同調してほしいと願う性格がある。精神の持つ自己の弱さは、個人意識に差異が生じることを認めようとはしない。だから、あらゆる議論で客観性を強調して他人を説得しようとしたり、無理やりにでも認識を合わせて同調したかのように演じたりする。人間は、寂しがり屋なのであろう。
しかし、精神の中にある「こと」を客観的に固定することはできない。自然科学を解明しようとする願望は、主観性が客観性を求めて、心の安定を求めている証なのかもしれない。一方で、芸術の世界では、思いっきり主観性を解放し、精神の限界に挑む。そうすると、精神病を患うようなところからしか、真の芸術は生まれないのかもしれない。
西洋的思考には、事件、出来事などを「もの」として解釈する客観的な合理的世界観がある。一方で、日本的思考には、「こと」として解釈する主観的な感性的世界観がある。どちらがより本質的かは比べようもなく、好みの問題であろう。人間には、一般的に世論や群集に流される性格がある。客観性を訴えたところで、実は主観性の多数決に支配される。これも、共通感覚によって精神の安定を求めている行為なのかもしれない。

2. 「事」と「言葉」
古代日本には、「事」と言葉の「言」の区別がなかったという。口に出したコト(言葉)は、そのままコト(事実や事柄)を意味していたという。微妙に区別され始めたのが奈良、平安時代なのだそうな。次第に「言」は表面的な一端を表現するに過ぎないものとなる。とはいっても、現在においてもその区別は微妙である。「事」が内面的で本質的な意味で意識されているかも疑わしい。言葉そのものが表面的であるのは確かであろう。そして、内面的な質を見せるのは読者の解釈として現れることになろう。

3. 文明の影響
文字を持たない原始社会と文字を持つ文明社会でも、精神病の現れ方に特徴があるという。文字を持たない原始社会では、感情の高揚を原因とする躁病とった祝祭的な病状があったそうな。昔から、断片的で一貫性のない妄想や幻覚、時間空間の認知傷害といった症状があったという。ところが、西洋的な分裂病や鬱病といった病状は、文字を持つ文明社会で現れ始めたという。自己の存在認識と言葉には、本質的な関係があるのだろうか?著名な作家が精神病を患わして自殺するのも、文字の影響による職業病のようなものか?文章を書くということは、自己を観察しながら冷静な立場で自己精神を眺めていることになろう。そこには多重人格的な性質も現れる。言葉は、自己認識を伝達する手段として使われる。言葉の持つニュアンスは完全な客観性に支配されるわけではないが、主観性であっても、感情の近似という意味では伝達手段として機能している。自らの思考を文章として綴る時、自己精神を検証することができる。言語という媒体は、現在という時間を実感しながら、過去と未来という時間の連続性をも再認識させてくれる。
言語を持たない動物たちは、もっと純粋な感覚で生きているのかもしれない。言語が発達し、文明が高度化すれば、人間は精神病へと向かうのだろうか?文明の発達は、医学の進歩や良質な食料をもたらし、寿命を長くする。だが、肉体的な病は精神的な病で相殺されるのかもしれない。寿命が延びたところで、精神がそれだけ成長しているかも疑わしい。むしろ、死を目前にした人間が神秘的な力を発揮することがある。精神の成長は、実は年齢に関係するのではなく、死に近づくことから得られるのかもしれない。

4. 癲癇病
少々異色ではあるが、癲癇病について議論しているところはおもしろい。癲癇は古来「聖なる病」と呼ばれてる一方で、悪魔の呪いとも呼ばれてきた。そういえば、シーザーも癲癇だったという話がある。映画でも痙攣するシーンがある。サヴァン症候群のダニエル・タメット氏は、その著書「ぼくには数字が風景に見える」で癲癇を患ったことを告白している。癲癇になる確率は自閉症スペクトラムの人が高いという話もある。ドストエフスキーも癲癇だったという話は広く知られる。本書は発作の体験を表した文章を紹介している。
「憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時のものすごい勢いで緊張する。生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安、階調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶けこんでしまうかのように思われる。」
癲癇患者の多くは自分の発作が意識できないからか?さほど深刻に受け止めず、服薬や受診を怠ける傾向があるという。むしろ、癲癇患者は発作を欲しているようでもあると感想を述べる学者もいるぐらいだ。発作の襲来と終始は突然であって、時間の流れが完全に寸断されるという。本書は、これも現在を過去と未来を隔離した離散的な意識が現れるのではないかと考察している。癲癇患者には、永久調和の存在を直感するといった感想もあるという。これは性的自慰行為の一つなのか?あるいは、現在だけを崇高な時間と崇める心理が働いて、自分だけに与えられた幸福と感じているのか?突然時間が止まり、全宇宙を感じ、神を感じ、聖なる永遠の力を得るような、そんな境地にでもなれるのか?本書は、死の世界を覗いているというよりも、死の世界から生の世界を覗き込んでいるような体験と言っている。
そういえば、癲癇とは対称的に、恐怖やショックを受けると、その時間帯だけ記憶喪失になるといった現象もある。これも時間の離散的な意識という意味では似ているのかもしれない。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

本書で紹介される書籍をメモっておく。

廣松渉氏は、「もの」と「こと」について高い水準の議論をしているという。
その著書は「事的世界観への前哨」「もの・こと・ことば」。

渡辺慧氏は、物理的時間の不可逆性が観測に由来することについて議論しているという。
その著書は「時」。

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