2010-01-03

もしも、泥酔した反思想家がいたら...

もしものコーナー...
もしも、泥酔した反思想家がいたら...だめだこりゃ!

あらゆる思想というものは、社会風潮の反発エネルギーから育まれた。いずれも当初は素晴らしいものだったに違いない。だが、その創始者がどんなに天才であっても、凡庸な人々によって改竄されていく運命にある。
おそらく、あのナザレの大工のせがれは、噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。お釈迦様が気の毒なのは、仏像として拝まれることである。あの偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。


1. 反思想家の告白
神は、宗教を通して人間に義務を与える。これが神学の意義であろうか。宗教の矛盾は、神の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるものであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。そして、自ら持つご都合主義と有難迷惑主義によって、自己矛盾という呪縛にはまりこむ。
その一方で、科学者や数学者たちは、神を思いっきり蔑みながら、独自の神学を構築する。そこには、それなりに合理性が見られる。強制する神の存在は邪魔だが、自由に創造できる神の存在は邪魔にはならないということである。
あらゆる思想は、社会的慣習の上に成り立ち、その上に宗教的思想が育まれてきた。けして宗教によって先導されてきたわけではない。しかし、宣教師たちは、宗教の存在を大前提にしながら、その上に思想が成り立つかのように洗脳する。だから、無宗教家や無神論者を蔑むのであろう。
思想や哲学を構築する過程では、あらゆる角度から論理的な検証を試む。だが、けして思想構築に完成を見ることはない。自己矛盾と対峙しながら思考を繰り返し、下手をすると精神病まで患ってしまう。精神病患者とは、自らの精神と正面から立ち向かう勇気の持ち主なのかもしれない。人間は、退屈すぎれば、ろくなことを考えない。忙しすぎれば、思考することすら怠る。精神は泥酔するぐらいでちょうどいい。精神分裂をアルコール分解と錯覚するから。そして、真の思想家は、独自の思想を構築するために、あらゆる思想から遠ざかり、ついには泥酔した反思想家と呼ばれる羽目になる。

2. 思想のカルト化
あらゆる思想の創始者は偉大であったのだろう。だから、少なからず信者がいる。問題は、偉大な創始者を伝承する人々が凡庸だということである。教えを民衆に広めるためには、分かりやすく、しかも象徴となるものがあると便利である。高貴な思想は、受け継がれていくうちに凡庸化し、崇高過ぎる思想は様々な解釈を生む。聖職者たちは自らの存在感を強調し、罪人たちは改心すれば全てを水に流してくれると信じるだろう。そして、宗教組織は愚行で暴走し、多くの偶像崇拝を誕生させてきた。宗教家たちは、無条件に信じるように仕向け、群集を脳死状態に陥れる。しかも、その思想を幸福という最高位の価値観に崇めながら、自らを善人像として仕立て上げる。だが、あのヘブライ人を崇めるのと、キリスト教を崇めるのとでは、意味が違う。
パスカル曰く、「キリスト教を本当だと信じることによって間違うよりも、間違った上でキリスト教が本当であることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。」
偉大な人物は抽象的にしか語ってくれない。真理を探究した挙句に、具体的には何も語れないことを悟ったかのように。だが、凡庸な人々は具体的な言葉を求め、司教たちは具体的な行動をお示しなさる。偉人たちは、あの世で嘆いているだろう。「私はそんなことを言った覚えはない!」と。
無条件に信じられるものがあれば、人間は幸せになれる。ただ、幸せは、ちっぽけなぐらいでちょうどいい。幸せ過ぎると、無理やりにでも余計な悩みをこしらえるのだから。幸せを求める人間の欲望には限りがないのだから。伝統や思想になんの疑いも持たずに、ただ服従するのであれば、カルト化する。聖書を単なる読み物として出版し、解釈を一般の読者に委ねれば、優れた倫理学の書となるであろう。宗教は遠くから眺めるぐらいでちょうどいい。近づき過ぎれば盲目となって狂乱する。愛は近づきすぎるから盲目となる。
どんな組織や機関も、創設された当初は、きっと美しいものであったに違いない。それらは、社会問題を解決するために現実的な手段として誕生したことだろう。だが、長期化すると腐敗し、やがて社会の害へと変貌していく。人間精神は、いつも安住の地を求めてさまよう。一旦その地を獲得すれば、今度は頑なに守ろうとする。人間は面倒臭がり屋なのだ。美しいものが、長期化の中で醜いものへと変化するのは、宇宙原理なのかもしれない。人間社会は、宇宙膨張とともに、ますます破壊のカオスへと膨む。となれば、人間は思考の検証を永遠に続ける義務を背負わされることになろう。人間社会には、政治家がまつりごとを破壊し、 経済学者が経済危機を招き、道徳家が道徳を崩壊させ、平和主義者が戦争を呼び込むという矛盾した現象で溢れる。矛盾律は宇宙原理として存在するかのように。

3. 「教える」とは何か?
ソクラテスは教育学を否定し、子供の精神の自発性を呼び覚ます人を教師と呼んだそうな。それは、教育者が自分を押し通して精神的な統率者になろうとするのではなく、教育者とは弟子に弟子入りする人といったところであろうか。権威的で強制的なところに、真の精神は宿らないというわけか。
知識は何のために得るのか?と問えば、それは人生の意義を豊かにするためという答えが返ってきそうだ。では、知識はどうやって得るのか?それは、先人たちの知恵や思想といったものを参考にしながら、自らの能力によって加工することであろうか。教科書や参考書といった自分に合ったものを探しだす思考のプロセスにこそ、知識の源泉がある。知識とは、自主的に得るものであって、他人から教わるものではない。したがって、「教える」とは、学問の意義や楽しさを匂わせることぐらいしかできないであろう。コンピュータ部品のように、人間を記憶素子化しても無駄である。記憶至上主義は、子供たちの創造性を奪うであろう。そして、学問は、他人との詰め込み度の差別化によって、優位性を感じるだけのものとなる。知識を得ようとすればするほど、物事が見えなくなる。理解しようとすればするほど、理解できなくなる。実体を把握しようとすればするほど、実体が見えなくなる。そして、何もかもが空虚に思えてくる。そもそも、人間精神とは夢想に過ぎないのかもしれない。知識への欲望とは、自己の実存を感じるための手段といったところだろうか。最初から教材や結論が与えられれば、学問の意義や楽しさを奪うことになる。教材が自分に合うかどうかなんて、自分にしか分からないのだから。人間は、あらゆる問題の解決方法を具体的に模索しようとする。その答えを第三者に求めても見つからない。具体的な方策は自ら編み出すしかあるまい。結局、学問は第三者の意見を参考にすることはできても、我流で育むしかない。「独学にまさるものなし!」学問する時間は、ほとんど人生の道草の中で費やされる。それがたまらなく愉快なのだ。教えるもののない者にとって、「教える」とは、自らの馬鹿さ加減を暴露することである。

4. 学問の意義
一般的に、学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収できるから、それも間違いではないだろう。だが、幼児英才教育にしても短期的には意味があろうが、長期的な効果があるかは疑わしい。大人になって自発的に学習しなければ、学力は低下するであろう。学問はいつから始めるというよりも、「続ける」ことが肝要である。だが、この「続ける」という行為が最も難しい。
あらゆる学問が深みを増せば、専門化が進み専門馬鹿に仕立てられる。それも仕方がないだろう。学問は、数学などの自然科学から始めるのもいい。歳を重ねると数学で求められる柔軟な発想が難しくなるから。すると、必然的にコンピュータと触れ合い、コンピュータ工学を学ぶのもいい。論理的思考を重ねながらプログラミングしていると、いずれ文学に通ずるものを感じるであろう。また、日常生活から必然的に社会学や政治学に触れる。生活手段では経済学も必要となる。はたまた、生活の知恵や学問の根底には、先人たちの培ってきた歴史学がある。そして、最終的には哲学に辿り着くであろう。あらゆる学問で真理を探求すれば哲学的思考からは逃れられないから。
昔、理系の方がはるかに学問的意義が高いと信じていた時期がある。やがて、理系や文系の枠組みになんの意味があるのかと疑いを持つようになった。コンピュータの世界には、文学と科学の融合が見られる。美しくプログラミングするには文章センスが問われ、効率良くプログラミングするには工学的構造を知らなければならない。
高度な情報化社会では、容易に知識が得られる分、生産性が高まったことは間違いないだろう。しかし、創造力や思考力が高まったかは疑わしい。情報が溢れる分、落ち着いて物事を考える時間は減ってはいないか?現代人は忙しいのだ。古代の哲学的思考や科学的発想は、現代人をはるかに凌駕しているように思える。知識から、結論や具体的な解決策が見つかるに越したことはない。だが、焦ることもあるまい。見つからなくて結構!むしろ、知識を得るまでの過程を大事にしたい。人生は死までの暇つぶしであるから。
一方で、人間には信仰が必要である。何か信じるものがなければ、信念のようなものがなければ、学問を続けることも難しい。となれば、信仰的強制力に囚われずに、解放された精神から納得のいく信仰を構築すればいい。一つの事に集中して匠の世界を究められるのは、豊かな才能に恵まれた人々だけに与えられた幸せであろう。専門分野だけで、芸術の域に達した精神を味わえるのは、一部の天才たちだけであろう。対して、凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いでも、それなりの生き方があると信じたい。したがって、「学問とは、気の向くまま、足の向くままに探求することによって持続すること」と解釈している。

5. 読書の是非
学者の中には、強制的や権威主義的な読書に批判的な人も少なくない。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。本に出会うにしても、それなりに興味があったり共感できるものがあるから、その本を選ぶことができる。多く読書をすると賢くなるという学者の意見も耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書しているように映る。
知識が、逆に思考の邪魔をすることもある。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、思考の転換の妨げになることもある。知識とは不思議なもので、得れば得るほど物事が分からなくなるような気がする。自信を持っていた知識は、だんだん自信を失っていく。
パオロ・マッツァリーノ氏は、OECDの調査では読む時間を問題にするが、日本の読書調査では冊数ばかりを問題にすると指摘していた。冊数で読書の質を評価することは、統計の暴力のなにものでもない。酔っ払いは一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかないではないか。貧乏性だから、くだらない本でも隅々まで読んで元を取ろうとする。ハズレないように、必然的に立ち読み時間も長くなる。経験的には、手軽に読める本よりも、苦労して読む本の方が得るものが大きいような気がする。読むのが難しいということは、読者に思考の働きを求める。読むのが易しいということは、思考せずにそのまま鵜呑みにする恐れがある。具体的で分かり易いものほど洗脳力が高いと言えよう。
義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由であるはずなのに、教師が正しいと思う思考へと誘導される。子供たちも大人たちの顔色をうかがいながら優等生振りを装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子供も多いはず。酔っ払いはその典型だ。自由に文章を書くことに喜びを感じはじめたのは、論文を書くようになってからであろうか。だが、技術論文は形式的であって、主観性を排除する慣わしがある。とはいっても、完全に主観性を排除する文章なんて書けるだろうか?純粋な客観性で綴るならば、数学の公理のような表現しかできないはず。ほとんどの客観性は、業界の慣習に従っているに過ぎない。客観性で語ると宣言した論者が、客観性で語っていたためしがない。どうせ客観性で語れないのなら、思いっきり主観性で綴ってみるのも悪くない。そう開き直ると、気楽に文章が書けるようになる。お陰で技術論文でさえ、冗談を忍ばせないと気が済まなくなったのは困りものだ。

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