2010-01-13

もしも、アル中ハイマーな遺伝子学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな遺伝子学者がいたら...だめだこりゃ!

障害者が生まれてくる可能性が無くなれば、人間社会に差別は無くなるだろうか?「普通」という言葉に、どれほどの意味があるというのか?

1. DNAと運命
生体を解明すると、暗号として機能するDNAと、これに組織され制御されるタンパク質から成る。生物の構成アルゴリズムにおいて、一個の細胞から有機体が形成されるところに神秘がある。DNAには遺伝情報を伝える役割がある。生物の基盤はタンパク質であり、更に様々なアミノ酸からできている。このすべてがDNAの指揮のもとでスケジューリングされるというわけだ。
驚くべきは、DNAは不死身ということである。しかも、複製ミスを二重らせん構造によって互いに補完しあう仕組みを進化の過程で構築した。これは、未来を洞察するように設計されているのだろうか?人生の冒険をも、DNAでスケジューリングされているとしたら、まさしく運命には逆らえないことになる。ならば、このアルゴリズムを、純米系の成分によって逆転させてみたい。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚生活が逆戻りできるとすれば、多くの人を救済できるであろう。

2. 不公平な遺伝子
ずーっと前、鎌形赤血球遺伝子の話を聞いたことがある。アフリカのマラリア発生地域と鎌形赤血球遺伝子の分布には強い相関があるという話だ。この遺伝子を持つと、赤血球が鎌形に変形して酸素運搬機能が低下し、貧血症が起こる。逆に、鎌状赤血球にはマラリア原虫が寄生できないという優位性がある。マラリアに強い遺伝子を生物の進化の過程で見事に作り上げたというわけだ。となれば、正常な赤血球と鎌形赤血球の両方の遺伝子を引き継ぐと、病気に強い体が形成できそうだ。だが、病気に強い遺伝子に恵まれる一方で、五体満足でない人々が存在する。DNAの複製段階で、生命に致命的ダメージを与えるものや、機能面で何らかの支障をきたすものもある。これは、生物学的にも統計学的にもやむをえないであろう。
社会には、ある低い確率において普通には生きられない人々がいる。障害者は意外と周りに多い。同級生の家庭に障害者がいると聞かされるのは、たいてい卒業後で、しかも第三者からだ。社会人になってからも、そうした境遇で生きている人は意外と周りに多い。彼らは自ら打ち明けないことも知っている。家族に障害者を持つ人は自ら悲観的に語る人もいる。なぜ自分にだけ不幸が降りかかるのかと嘆くように。まるでお荷物とでも言っているかのように。それは、せっかく生を受けた人間に対して失礼であろう。たまに宗教に駆け込む例もある。だが、お布施をぼったくられて誰が不幸の根源なのかも分からない。遺伝子に恵まれる人間がいる一方で、恵まれない人間がいる。だからといって悲観することはない。単に、自然界は遺伝子コピーの不完全性を示しているに過ぎないのだから。親戚ですら、無神経に遺伝のせいにして、勝手に「不幸な家族」のレッテルを貼る輩がいる。こうした環境が、社会の反抗分子という遺伝子を引き継ぐ。そして、無神経さでは上手をいくのであった。だが、遺産をめぐって骨肉の争いを繰り広げる方がよほど悍ましい。
社会には環境に恵まれて成功する者もいれば失敗する者もいる。その要因は運や偶然性に微妙に左右される。幸運に出会うということは、一方で不運に見舞われる人々がいることを意味する。
全人類のヒトゲノムは99.9%が同じで、0.1%程度の個人差があるという。この配列が、何世代にもわたって誤差として蓄積され、更には、父方と母方の混合物から創られる。この偶然性は、人間が好む差別の存在など、全く無意味であるように思わせる。

3. 「食べる」とは何を意味するのか?
遺伝子構造が解明されていくと、「生命とは何か?」という問いに対して、「生命とは自己複製システムである」という答えが見えてくる。生命体はプラモデルのような静的なパーツから成り立つ機械分子ではない。パーツ自体が動的なモデルである。その中で、生物を無生物から区別するものはとは何か?それは「食べる」という行為とかかわりがありそうだ。人間は、自らの生命体を維持するために食べる。現在では、食材が豊富なので、人生を楽しむために食べるという価値観がある。そこで、一つの疑問にぶつかる。「食べ続ける」とは何を意味するのだろうか?タンパク質のアミノ酸が外部から吸収され、次々と入れ変わっていく様子は、食べることの意味を教えてくれる。絶え間ない合成と分解を繰り返し、傷ついたタンパク質や変性したタンパク質を取り除き、不純物が蓄積されるのを防ぐ。これが生命体の秩序を守るということであろうか。脂肪でさえも、アル中分子でさえも、駆逐しようとする。ただ、おもしろいのは、食材からして自分のDNAとは全く違う成分を採取していることだ。必要なものを吸収し、不要なものは排泄する。ここには、自分のDNAに合ったものを選んで吸収するという自動維持システムがある。しかし、必要な栄養分でも多く採りすぎて、蓄積速度よりも排泄速度が遅くバランスが崩れた時、蓄積されたエントロピーが生命体に危機をもたらす。なるほど、ベロンベロン状態とは、一種のエントロピー最大の状態と言えよう。それは、アル中ハイマーにとって、極めて気持ちよく自然な飽和状態と言っていい。そして、体内秩序を保つために飲み続け、最期には飲まれる。「飲んで!飲んで!飲まれてー飲んで!」食べ過ぎれば、栄養素の飽和状態となろう。その典型に、タンパク質の立体構造が変化して引き起こされるプリオン病があるという。アルツハイマー病、狂牛病、ヤコブ病などなど。
しかし、だ!これだけ懸命に食べ続けて合成と分解を繰り返すにもかかわらず、なぜ人間は老化するのだろうか?なぜ寿命があるのだろうか?DNAには、細胞分裂の繰り返し回数でも記録されているとでも言うのか?いや!自然法則は、生命体の究極の進化を妨げているのかもしれない。なるほど、神は悪魔というライバルの出現を拒んでいるわけか。

4. 生命科学の時代と遺伝子売買
遺伝子研究が進めば、病気のみならずあらゆる面で優位になろうとするだろう。人間の欲は計り知れない。遺伝子学の進歩とともに遺伝子売買が始まるかもしれない。そうなると、遺伝子に格付けがなされるだろう。価格競争も激化し、オークションも登場する。人間は、他人と差別するのが好きな生き物だから、学歴差別のごとく遺伝子差別なんて問題が発生するだろう。長寿遺伝子、スポーツ遺伝子、学者遺伝子などなど。「流行遺伝子創刊号」なんて雑誌が出回るかもしれない。食材は天然ものが良いとされるが、そのうち天然ものが馬鹿にされる時代が到来するかもしれない。そして、天然の人間が姿を消し、ついに遺伝子格差社会の登場を見る。しかし、刺身は天然物の方がはるかに美味い。

5. 崇高な病と創造力
癲癇という病は、遺伝なのだろうか?この病は、脳の中で一瞬電気的な不具合を起こすために、痙攣発作に見舞われるという。癲癇にかかる確率は普通の人よりも自閉症スペクトラムの人の方が高いという統計情報もあるらしい。癲癇を患った著名人は意外と多い。その代表はシーザーである。映画でも痙攣するシーンがある。ドストエフスキーには、癲癇病の体験を記したものがある。
「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出しても構わないとさえ思うほどだ。」
癲癇病患者は自ら発作を求めるかのようだと感想を述べる専門家もいる。この病は、古来「聖なる病」と呼ばれる一方で、「悪魔の呪い」とも呼ばれてきた。「不思議の国のアリス」のルイス・キャロルも側頭葉癲癇を患っていたと言われる。画家のゴッホも、かなり重度な発作を起こして鬱病になったという。癲癇と創作活動には関連性があるのだろうか?狂気のないところに、天才は生まれないのかもしれない。
似たような脳障害にサヴァン症候群があると聞く。この病は、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをしようとして能力が高められるという。数字に対する執念や計算能力などサヴァン症候群で一般的に見られる能力は、左脳の能力をすべて右脳でやってしまうために、感覚的な能力が高度な並列処理を目覚めさせるのかもしれない。論理処理を得意とする従来のコンピュータが、量子コンピュータに進化するかのように。人間の主観能力には、恐ろしいパワーが秘められているようだ。こうした病は、自閉症障害に起因するとも言われる。実は、鬱病や精神病を患う人ほど、人間精神と正面から対峙する勇気の持ち主なのかもしれない。
ちなみに、昨年、アル中ハイマーは二度完全に意識を失うという今までにない体験をした。行付けの店で...どんなに泥酔しても意識だけはしっかりしていて、行儀のよい酔っ払いだと自負していたが、それも改めなければなるまい。癲癇のような痙攣を起こすわけではない。いきなり床に倒れるらしい。頭をぶつけて...5分間ほどだが、苦しそうにしているのか?よく分からないらしい。声をかけても反応しないのだそうな。救急車を呼ぼうか一瞬悩むらしい。しかし、本人は心地良い時を数時間過ごしている気分である。まるでホットなお嬢さんに膝枕してもらっているような、もう目が覚めたくないほどに。死ぬ瞬間とはこんな感覚だろうか?気がつくと天井が見えるからビックリ!一瞬ここはどこだ?とうろたえる。そして、何事もなかったかのように飲みはじめる。以来、行付けのバーではマスターに「二杯までね!」と注意されている。また体験したいと言うと怒られる。安心できる店でしかならないのかもしれないが、優しい人たちに囲まれると安心して酔えるとは、まったく迷惑な話だ!

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