2014-08-10

"数学と論理をめぐる不思議な冒険" Joseph Mazur 著

数学を小説のように読ませてくれる書とは、こういうものを言うのであろうか。そこには、タレスやピュタゴラスによって始まった幾何的思考から、カントールやゲーデルを苛ませた無限の概念に至るまでの論理思考の旅物語がある。幾何的思考の根源は、精神空間を物理空間に投影しようという試みから始まった。そこに代数的思考、すなわち記号が融合すると、アレフという別世界が開ける。「万物は数である」という信仰が崇められ、数学が極めて宗教臭い時代、無限の概念はゼノンのアキレスと亀の競争物語によって伝えられた。アリストテレスは、「現実的な無限」と「可能的な無限」を区別し、自然数の集合を「可能的な無限」と考えたようである。アルキメデスに至っては、既に可能無限から実無限の概念へ飛躍していたのではないか、という研究報告がある。だからといって、ニュートンやライプニッツの微積分学の功績が色褪せることはない。ほんの束の間ヒルベルトの時代、宇宙のすべては数学で完全に記述できるとされた。しかし、ゲーデルがどんな論理にも不完全性が紛れ込むことを証明すると、数学はまたしても哲学の領域へ引き戻される。人類は、無限を手懐けるために二千年以上もの旅を続けてきたが、いまだ精神空間を完璧に物理空間に投影できないでいる。数学は、永遠に哲学に幽閉され続けるのかもしれん...
「数学は精神で構成するものであり、精神の活動を通す以外には、実存性はもちえない。記号、方程式、定理は、数学の内容を伝えるための手段にすぎない。それらのものは命題をなし、それが集まって物語となる。」

数学の王道は演繹原理にある。それは、ユークリッドが原論で示した証明への道筋だ。純粋な証明ほど説得力のあるものはない。自己主張を論理武装しようとするのは、それが説得の道だからだ。
しかしながら、説得の道にはもう一つある。見たまんま!ってやつだ。実際、原論は五つの公準から成り立っている。公準とは、平たく言えば前提である。つまり、証明の要なし、いや、証明できない自明な命題があることを承知せよ!と要請している。すべての論理証明が前提によって成り立つとすれば、前提の根源を考察せずにはいられない。人間は何事を思考するにも、まず直感や直観の類いを働かせる。インスピレーションとは、ある種の霊感のようなものであろうか。そうした思いつきは極めて経験的であり、演繹に至る前に帰納という思考を試している。純粋な思考だけで定理は導けない。寄り道、回り道、近道といった思考実験を繰り返すうちに、定理らしきものがうっすらと見えてくる。学問に王道なし!とは、この道だ。王道を探るには、覇道や邪道も探ることになる。定理への道は前提から始まる、これを帰納原理とでもしておこうか。とはいえ、邪道ばかり歩いていると疲れる...

前提ほど脆いものはない。まさに非ユークリッド幾何学は、第五公準の崩壊によってもたらされた。第五公準の言い換えはいくつもあるが、ここではルジャンドルの言葉を拝借しよう。
「角の和が180度に等しい三角形が少なくともひとつ存在する。」
だからといって、ユークリッドを蔑む者はいないだろう。ポアンカレはこう言ったという。
「ひとつの幾何学が他の幾何学に比べてより正しいということはありえない。どちらが便利かと言えるだけである。」
人間社会もまた、すべて前提によって成り立っている。社会制度、政治体制、経済システムなどすべてが。民主主義社会では説得の力がモノを言う。説得力とは奇妙なもので、論理だけでは心もとなく、信じこませる何かひと押しがいる。すると、大数の法則は多数決の原理と結びつき、感情の向う確率論に支配されるという寸法よ。これを意志力というかは知らん。物事が客観性から乖離するほど扇動の力が武器となる。アピールやプレゼンテーションなどと呼ばれる技術が、それだ。精神が素粒子で構成されているとすれば、量子力学に従うはず。そこで、宇宙人たちの噂を耳にした。地球という天体には、マクスウェルの悪魔君が大勢いる世界があるとさ...

「天秤は、おもりを載せれば必然的に下がらざるをえない。それと同じく、精神は明白な証明には屈せざるを得ない。精神がからっぽで、釣り合い用のおもりがなければ、最初に言われたことの説得力の重みにすぐに負けてしまう。」
... モンテーニュ「エセー」の中のキケロの引用...

1. 疑い深きトマス君!
著者ジョセフ・メイザーは、マールボロ大学の数学教授。彼は講義中にこんな実験をしたという...
まず前提で、2p - 1 は、p が素数の時、必ず素数になると宣言する。そして、2 から 19 までの数を計算して見せる。わざと p = 11 を飛ばして。さて、受講生の反応はいかに...
1000 の桁に達すると、学生諸君は教授の権威によりかかる。だが、冷静になってくると、ある学生が疑念を抱き始めたという。最前列に陣取る彼の名は、トマス君!イエスの復活を信じなかった、疑い深きトマスにかけているのかは知らん。彼は、実例だけでは証明にならないと食い下がる。確かに、p = 11 や p = 23 では成り立たない。

  211 -1 = 2047 = 23 x 89
  223 -1 = 8,388,607 = 47 x 178,481

数学は純粋な判断であり、想像力が作る虚構とは次元が違うという評判だが、それは本当だろうか?数学だって、経験を基に憶測で納得しているところがあるのでは...
学校は、証明の手順を真似することを教える。証明を思いつく方法を教えるわけではないし、教えられるものでもない。試験とは、既存の証明をまる写しすれば良い成績が取れる仕組みである。おいらが好青年と呼ばれていた頃、数学は暗記科目ではないと固く信じていた。試験中に公式を導くところから始めていると、とても時間が足りない。決定的だったのは大学に入ってからだ。暗記科目と割り切れないと単位がとれない... どうせ落ちこぼれの愚痴よ!
おっと、話を戻すと...
反証するには一つの反例を示せばいい。だが、証明の方はどうであろう?真理が精神空間に映し出される幻影に過ぎないとすれば、数学もまた芸術の域にある。証明への道が無条件のエクスタシーを与えるならば、数学もなかなかの宗教だ。今でも証明されていない難題が真であることを頑なに信じて、その証明に人生を捧げている研究者たちがいる。その定理は、あてすっぽに真理らしきものを、気まぐれに語っただけかもしれないのに...
ポアンカレ曰く、「すべてを疑うのも、すべてを信じるのも、同じように都合のいい手だ。どちらもよく考えてみなくてすむ。」

2. 推論式(シロジズム)と自己矛盾性
数学の論証は、推論式によって組み立てられる。つまり、「もし~ならば~...」式の束によって。本書は「シロジズム」と呼んでいるが、なかなか微妙な用語である。論理学の根源は、アリストテレスの演繹モデルに従う。「すべての人は死ぬ。ソクラテスは人である。故にソクラテスは死ぬ。」 の類いだ。この手の三段論法を好む社会学者や経済学者は、実に多い。歴史は言うであろう。戦争が起こる時は必ず強大な軍事指導者がいたと。故に、強大な指導者がいる時は必ず戦争が起こると。
一方で、三段論法の危険性を忌み嫌う数学者や科学者は少なくない。ただ、一つの命題が他の命題との依存関係によって成り立っていることは事実だ。キェルケゴール風に言えば... 命題とは一つの関係、その関係はそれ自身に関係する関係の関係の... 狂ったか!
関係が複雑ならば、論理をほぐすために、カルノー図のような見た目で解釈する方法がある。実際、ブール代数を簡略化して真の意味を探ろうとする思考が、コンピュータシステムを支えている。こうした論理性は、境界条件によって支えられている。
ただ、論証できるからといって意味があるとは限らないし、結論が前提から導き出せるとしても前提の正しさとは無関係だ。ここに、根源的な論理の脆弱性が内包されている。ウィトゲンシュタインは、考えを伝える時に混乱を避ける方法は、論理的に正確な言語を作り、それぞれの単語に一つしか意味を持たないようにすることだとしたという。
しかしながら、一つの意味とはどういう意味か?精神の内で勝手にイメージされるものを、どうやって一つに集約できるのか?客観性に満ちているはずの専門用語ですら、微妙にニュアンスの違いを見せ、誰一人として同じ言葉を喋っちゃいない。記号に意味が生じた時、既に感覚と結びついているではないか。
とはいえ、人間社会は、矛盾だらけの言語を用いながら、それなりに通じ合っている。確かに、代数的記号は無味乾燥的なものだ。x = y という式の意味は、それ以上でも、それ以下でもない。だが、人間が解釈した途端に客観性を失う。コンピュータ言語だって人間が意味解釈をすれば、そりゃ暴走もする。純粋客観とは、無認識の領域にしかないのかもしれん。ここに、数学の抱える自己矛盾性があるのではなかろうか...

3. 数を数え続ける動物
プラトンのあまり知られていない短い対話篇「エピノミス」は、こんなことを論じているという。
「動物の魂は、理性的な計算ができなければ、魂の力の長所すべてを得ることはできないだろうし、2 と 3、奇数と偶数を認識できず、数をまったく知らない人は、事物を合理的に説明することはできないだろう。事物について、感覚と記憶しか有しないからだ。それで勇気や沈着などのその他の長所がなくなるわけではないにしても。しかし真に語ることができなければ、人は決して賢くはならず、十全な徳の最も重要な成分である賢さがないことには、その人は完全な善に達することはありえず、したがって幸福にもなれないことになる。」
人間は自然数の概念になんの疑いもなく、数え続けてきた。数の概念がなければ文明すら成り立たない。それはプラトンの言うように、本能的に理性を求めている証であろうか?
ところで、ユプノ族というニューギニアの奥地に暮らす原住民には、手の込んだ計算法があるそうな。まず指から始まり、いろいろな体の部分を指定の順に右から左へ移りながら、33 まで数えるという。
ちなみに、フランス式指電卓というものがあると聞く。

「計算機がなくても、掛け算が出来る便利な方法があるのをご存じですか。俗にいうフランス式指電卓です。
7 x 8 = 56 の場合、左は、7 を表します。御一緒に... いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち。右は、8 を表します。御一緒に... いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち。次は答えです。十の位は立ってる指を足します。2 + 3 で 5 ですね。一の位は折れてる指を掛けます。3 x 2 で 6。ということで、7 x 8 = 56。九九を忘れた方はぜひやってみてください。
では次に、8 x 9 = 72 にチャレンジ。いち、にぃ... これ大変時間がかかります。お好きな方は自分でやってみてください。」
... 「警部補・古畑任三郎スペシャル 笑うカンガルー」より...

4. 有限と無限の境界
エレアのゼノンは、亀にハンデをやれば、いくら足の速いアキレスでも勝てないことを論じた。アキレスが亀のスタート時点に着いた時には亀はさらに先に進んでおり、次の亀のスタート時点に着いた時には亀はさらに進んでいる。これを繰り返せば、永遠に追いつけないと。この謎掛けには、摩訶不思議な世界がある。亀もアキレスも、有限の時間で、有限の距離を進んでいる。なのに、追いつく距離は無限に縮まり、迫りくる無限小の時間の中でもがき続ける。それでも、境界条件をちょいと加えると論理は崩れるかもしれん。
「靴下さえ履いていたら、アキレスもちゃんと勝ったはずだ!」
さて、有理数と無理数の違いにも摩訶不思議な境界がある。有理数とは、分母と分子を自然数で表せる数。自然数は無限にあり、分母も分子も無限に配置できる。どんな有理数と有理数の間にも必ず有理数を配置できるわけで、無限小の隙間を埋め尽くせそうな気がする。にもかかわらず、有理数では表せない無理数ってやつが存在しやがる。そりゃ、ピュタゴラス教団も慌てるわね。無理数とは、無限の自然数で配置される有理数よりも、高貴な無限なのか?無限にも濃度があるというカントールの主張は、出任せではなさそうである。
それにしても、初めてカントールの無限に触れた時には、たまげた!デカルト座標上のすべての点は、数直線上の点と一対一で対応できるというのだから。集合論は詐欺か?論理とは、屁理屈と紙一重の世界にある... とでもしておこうか。
これと似た感覚がトポロジーの世界にもあって、ドーナツもコーヒーカップも同じ形とされる。形の属性において「位相」にだけ着目すれば、確かにそうなる。もはや常識ってやつは、まるで役に立たない。着眼条件をちょいと変えるだけで、客観性の視点も変わるということだ。
無限濃度の境界条件には「可算」という概念がある。平たく言えば、数えることが可能かどうかによって濃度が区別されるということ。無限と無限を比較する時、一対一の対応というと少々抵抗があるので、対応するものが必ず一つだけあるとしたらどうだろう。言い方をちょいと変えただけよ。直観的に大小関係を感じても、互いに無限個あれば、対応がつかないなんてことはありえない。同じ原理を用いれば、整数も、偶数も、奇数も、はたまた有理数もすべて同じ無限個数ということになる。
「有限の世界が無限の世界と出会うところには、ヘリも境界も端も限界もない。有限の図が無限の図になる特定の瞬間もない。」
ここで、人間の直観には、見たまんま!という思考原理が働くことに注意しよう。知覚の危険性が潜んでいることを。例えば、生まれつきの盲人が40歳で視力回復手術を受けた時の体験談を読むと、階段が目の前にあるのに、足下に危険があることすら認識できないと語っていた。形の属性は確実に認識できても、それが自分の身にどんな作用が生じるかまでは分からないらしい。そして、映像情報が大量に脳に入り込み、処理能力が追いつけず、却って精神病を患うことになる。あるいは、よく見慣れた人の顔でも、逆さに見ると誰だか見分けがつかなかったりする。人間は、知覚情報だけで認知処理をしているわけではない。論理思考とはいえ、極めて経験的だということだ。
カントールの無限は、人間にとって純粋に思考することが、いかに難しいかを問うている。現実に人間社会には、解釈され過ぎた常識ってやつで溢れている。客観性の能力を放棄したかのごとく...
「ここでの教訓は、帰納による論証には、疑いを向けた方がいいということだ。ただ、帰納による論証もそれなりに地位があるのは確かで、本当らしい印象を作ろうとするときには、非常に役に立つ。」

5. 連続体仮説ってどうよ?
無限濃度の記号は、ヘブライ文字の ℵ(アレフ) が用いられる。カントールはカトリック系だったと思うが。
それはさておき、有理数の集合と無理数の集合には、可算という境界概念において区別される。整数や有理数の濃度は、ℵ0 と表し、実数の濃度 c に対して次の関係が成り立つとされる。

  ℵ< c

これが、「連続体仮説」ってやつだ。日常的な数の感覚では、有理数よりも無理数の方がはるかに多い。まさに見たまんま!可算の条件に照らしても、自然数で表せないものを数えるなんて不可能に思えるし、直観的には連続体仮説は真に映る。
しかし、だ。次の命題が真だとすると、どうだろうか?
「どの二つの有理数の間にも無理数があり、どの二つの無理数の間にも有理数がある。」
これは直感に反する。二つの有理数の間に必ず無理数があるのはいい。二つの有理数の差がとても小さいとすると、その差をπで割り、結果を小さい方に足す。これで、元の二つの間にある無理数が一つ得られる。
問題は、無理数の間に有理数が必ずあるか?だ。二つの無理数を a, b とし、xy座標において原点から傾き a と b の直線α, βを引く。p, q を整数とすると、二つの直線は格子点(p, q)を避けて通るはず。そうでないと、傾きが q/p となって有理数となる。a と b の間には必ず角が生じる。その間の直線を無限に延ばせば、必ず格子点(p, q)のどれかに捕まるという。なんとも信じがたいが、そうなるらしい。
となると、無理数は、二つの有理数の間に存在するという関係から、可算という条件に当てはまるのではないか?二つの有理数の中間値に対して、見事に一対一で対応づけているではないか。ん~... アル中ハイマーには、無限濃度とアルコール濃度の区別が永遠につきそうにない...

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