2015-05-31

"富の理論の数学的原理に関する研究" Antoine Augustin Cournot 著

本書は、数理経済学を最初に確立した書とされるそうな。経済学が抱える根幹的な問題は、いかに正当な価値を与えるか、これに尽きるだろう。客観的判断を求めるために、あらゆる学問分野で数学という道具が威力を発揮してきた。経済学の発展においても数学者の貢献は大きく、マーシャルやケインズもまた数学から発している。その先駆けが、著者アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーあたりになるようである。ワルラスの一般均衡理論にも多大な影響を与えたとか。ただ道具なだけに、ちょいと扱いを間違うと、誤謬を犯しやすいことにも留意しておこう...

時代は19世紀、アダム・スミスの次を担う世代。「国富論」という表題からも、政治の一分野としての印象が強い。本書にも、その余韻が残っており、政治経済学という用語を見かける。ただ、数学的な考察はスミス以前から見られる。17世紀、ジョン・グラントやウィリアム・ペティに発する「政治算術」は、既にマクロ的な視点を与えていた。
クールノーは、数理モデルを導入しながら、生産社会の仕組みを解明しようとする。つまり、生産者側の立場から、価値判断や価格設定を数式化しようというわけだ。現在では、価格は需要との関係から決定される、というのが常識とされる。真の経済活動に目が向けられ、いよいよ政治の思惑から脱皮したミクロ経済学の本格的始動を予感させてくれる。
注目したいのは、需要曲線や供給曲線らしきものの関係から均衡が考察され、限界効用らしき概念が導入されていることである。そう、近代経済学の根幹をなしている法則が、既にこの時代に見られるのだ。その前提となる活動の動機に、「利益の最大化」を求めることを宣言している。それは、あくまでも前提条件であって、ここから始めないと何も始まらない!と表明しているに過ぎない。複雑系を考察するには、なんらかの条件を仮定し、単純なモデルから始めることになろう。
しかしながら、後世の経済学者は、この前提条件を鵜呑みにし、長らく絶対条件としてきた。合理的な行動の代名詞として...
古典に触れてみると、最新理論においてさえ首をかしげたくなることがよくある。人間ってやつは、記憶や知識を辿りながら、連続性の中でしか認識することができない。現在という瞬間現象だけで未来予測ができるほど賢くはないのだ。おまけに、時間の矢に幽閉される存在ときた。エントロピーは、まさに神のごとく振る舞ってやがる。現代理論をそのまま鵜呑みにしては、大昔の二の舞を喰らうことになろう。
古典なんてものは、読まないより読んだ方がいい、ぐらいのものかもしれない。確かに、クルーノー理論には古めかしいところがある。しかし、だ。いかに近代理論が構築されてきたか、その思考過程を観察して根本哲学を知ること、これこそが古典を読む意義なのだと思う...

クルーノーは、独占形態から生産者による中間的な不完全競争を論じ、ついには無制限の自由競争へ移行する段階を考察する。その中で分配と所得の問題を検討する。自由競争の形態を独占状態から出発するところに、ロックやルソーが政治学的に唱えた自然状態と比べ、やや違和感があるものの、価格上昇にともなう社会所得の上昇の必要性を唱え、経済循環による資本の自然増殖を予感させるような記述も見られる。そして、需要関数と販売関数を連続関数で規定し、多項式による変動関数的な発想で積分的思考を要請してくる。多項式とはいえ、すべての条件が加味されるわけもなく、抽象的な記述にならざるを得ないのだけど。
一方で現在では、瞬間的な儲けを最大にしようと目論むあまり、微分的思考がもてはやされ、証券アナリストは市場を煽る占い師のごとく振舞う。株価を予測することが、いや煽ることが、経済学の役割ではあるまいに...
また、デュオポリー的な観点は、問題提起として取っ付き易い。すなわち、二つの市場の絡み合いと、二者による独占論である。投資の意義については語られないが、為替変動に対する銀行取引の相殺によって、力学的に経済安定に向かうといった考察は興味深い。生産費用の正当性は、パートナーシップとの相補関係と健全な競争原理にかかっている。官僚化した市場は不用となるばかりか、他の市場にも影響を与え、公害を撒き散らす。市場に対する政治の関わり方において、租税の影響や公平性についても言及される。政治がいかに市場を歪めているか、と。
そして、これらを統合すると... 利益の最大化を求める動機から独占市場が形成され、一旦は限られた生産者によって寡占状態となるが、やがて訪れる価値の多様化から真の自由競争が見えてくる... などと解するのは行き過ぎであろうか。
今日の経済社会は、物質的欲望の価値評価を主眼に置き、すべての価値は貨幣で換算される。しかし実際は、価値観の多様化が進む中でフリー市場やボランティア労働が増殖し、インフレやデフレなどの単純な相関関係だけで経済状況を計ることはできない。アングラ経済が実質GDPの底上げをしているのも事実だ。経済学とは、人間社会を考察する一分野であり、労働や商業活動、あるいは教育や人口変動などの無限の要素から、総合的な分配に目を向ける必要があろう。それは、古代から変わりはしないだろう...

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