2018-09-02

"遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...

歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...

アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...

マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...

・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
 どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
 また、どれほどの美と富を与えられようとも、
 死は免れ得ない。
 栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
 ... トマス・グレイ

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