2018-09-16

"ビヒモス" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたいと考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、その一つに手を付けたがために、流れ弾に当たってしまった作品も数多ある。酔いどれ天の邪鬼には、寄り道、道草、回り道の類いがたまらないときた。そして、リヴァイアサンという海の怪物が、ビヒモスという陸の怪物へといざなうのである。人間社会という怪物は、神ではなく悪魔に看取られているらしい...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。

「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...

一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...

1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」

2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...

3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...

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