生涯で一度は読んでみたい... そう考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある。こいつも、その一つ。いくら有名な書とはいえ、イメージが先走り、いまいち気分が乗らない。面倒くさがり屋の心が奥底でつぶやいているのだ。本当に評判どおりのものなのか?と。骨を折ってまで読む価値があるのか?と...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...
「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。
哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...
一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。
1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」
2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」
3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...
2018-09-09
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