2021-10-31

"権力論(上/下)" Guglielmo Ferrero 著

権力とは何か...
それは、恐怖の連鎖であったとさ。恐怖心が暴力を呼び、暴力がより一層の恐怖心を植え付ける。まさに恐怖心の自己増殖システム!
「人間は、最大の恐怖心を有する最高の生物である。恐怖こそ現世宇宙の魂である。... 権力とは、人間が恐怖から逃れようとして自ら惹起した恐怖の最高の表現である。... 命令、脅迫、強制、これこそ人類が創造し、服従してきた権力の本質である。」


権力は、正統性が担保されてはじめて機能する。では、正統性の根拠とはなんであろう。グリエルモ・フェレーロは、正統性の原理を恐怖という心理学を絡めながら論じて魅せる。
尚、伊手健一訳版(竹内書店)を手に取る。
「正統性原理こそ、国家の見えざる精神!その主な仕事は... 革命精神と戦い、かつそれを閉じ込めること... であることが、この魔力の原因である。独裁者の恐怖は、正統性原理の、この魔力の一例にすぎない。独裁者は正統性原理を侵すことにより、権力を獲得したが故に、自己の権力を恐れるようになる。」


フェレーロは、古代史の研究家として知られるそうな。そんな人物をして近代を論じさせた背景とは...
彼が生きた時代は、ウィーン体制の崩壊を招いた1848年革命、いわゆる「諸国民の春」の余韻冷めやらぬ時代。国民国家や民族的アイデンティティといった概念が各地で育まれ、近代国家の成立を見る。王侯や貴族のものであった権力が、フランス革命によって庶民の手に渡るかと思いきや、すぐに恐怖政治と化し、ナポレオンの呼び水となり、さらにナポレオン追放後、ウィーン体制が確立してヨーロッパに新たな国際秩序をもたらした。フランスは、権力の正統性を唱えたタレーランの元で王政復古を果たすものの、権力の所在については問題の先送り。
結局、この新たな秩序の時代に、フランス革命の機運で蒔かれた種が芽を出すことに。民族主義や自由主義といった芽が。そして世界は、自由主義、社会主義、共産主義などが乱立するイデオロギーの時代を迎える。フェレーロの故郷イタリアではムッソリーニ率いるファシズムが台頭。フェレーロ自身はというと、反ファシズムを表明してパリへ亡命する。「権力論」は、デモクラシーの先駆者によって書かれた本というわけか...


フェレーロは、四つの正統性原理を挙げる。「貴族・君主制原理、世襲制原理、選挙制原理、民主制原理」である。実際は、これらの原理が混在し、前者の二つは適合しやすく、後者の二つはすこぶる相性がいい。一見、世襲制原理と民主制原理は矛盾しそうだが、国民議会には世襲議員で溢れている。カトリック教会でも選挙制は採用されているし、ヒトラーは選挙で堂々と躍進した。
となると、こう問わずにはいられない。政治は、国民の意思を代弁しているか?と。そもそも国民とは誰か?なるほど、支配階級も国民というわけか。
政治体制を正統性の観点から眺めると、君主制も、貴族制も、民主制も、大した違いはなさそうに映る。アリストテレスは、民主制が最悪の政体というようなことを漏らした。アテナイ都市国家の実情を嘆いての言葉であろう。だが、君主はことごとく僭主であり続け、真の君主は滅多に見かけない。貴族にしても、真の国家精神を体現する者はごく僅か。実践的な体制となると、結局、民主制に落ち着く。民主主義にしても、崇めるほどのものでもあるまい。社会主義や共産主義、マルクス主義よりもはるかにマシだけど。つまりは、消去法...


ただ注意を払うべきは、民主制が醜態を晒し、弱体化した場面では、危険な独裁者が出現するということ。それは、歴史が物語っている。フェレーロは、この時代にあって既に独裁者の時代を予見している。共和制が醜態を晒し、恐怖政治を目の当たりにすれば、ナポレオンの登場は必然であったように思える。
では、ファシズムの出現もまた民主主義の過程で必然であったのか?そして、ヒトラーはその最終章であったのか?そう楽観もしてられまい...
「正統政治、すなわち、良き政治とは、なさねばならぬことをなし、かつ、それを十分に果たし、そして公共善の完遂に成功している政治である。政治の正統性は、その有効性により確認される。」


民主制は完成を見ないであろう。そして、衰退するのにも時間がかかるであろう。不完全なままの方が人類には適合しそうだ。君主制は、一応の完成を見た。ルイ14世の栄華をもって。そして、完成した瞬間から崩壊の道を辿った。ローマ帝国の衰退に時間がかかったのは、その根底に共和制を受け継いでいたからかもしれん。皇帝と元老院の共存によって。
絶対的な権力の持ち主と言えども、市民の意思を無視していては祭り事が為せない。少数の支配層と大多数の従属者という構図は、君主制も、貴族制も、民主制も同じ。ただ違うのは、民主制は人民に選ばれた人間が統治権を得ること。つまり、人民の承認を得ること。これが正統性の第一歩。
とはいえ、選挙という手段が目的化すれば、やはり同じこと。実際、現在の議会においても世襲議員が溢れ、巷では上級国民などという言葉が飛び交う。
そもそも、人間が人間を支配するところに無理がある。人間ってやつは、自己が支配できなければ、他人の支配にかかる。だからといって、神に委ねたところで、神の代弁者と自称する者の暴走を許すことに。神の声を聞く資格のある人間が、この世にいるのかは知らん。となれば、毒を以て毒を制すの原理に縋るほかはあるまい。これが、権力分立の原理というものか...


ところで、正統性とは気分の問題か。人の行動を誘発する時、最も有効な手段に不安を煽ることがある。あらゆる商売戦略で用いられる心理戦術だ。お得感を強調して、今買わないと損しますよ!流行に乗り遅れますよ!などと脅す。みんなで損する分には慰めにもなるが、自分だけ損することは絶対に許せない。だから、流行りの思考回路に埋もれてしまう。
従属者や隷属者が大多数であれば、それだけで正統性めいたものが浮かび上がる。やはり正統性とは、気分の問題か。それも集団心理を利用した...
正統性とよく似た用語に「正義」ってヤツがある。政治屋や愛国主義者どものお好きな。この言葉ほど胡散臭く、濫用されてきたものはない。きまって彼らは、これに義務と責任を結びつけて、自己宣伝狂を患わせる。正義が権威の後ろ盾になるのも確かで、それだけで正義の御旗を掲げる理由になる。正統性が気分の問題なのではなく、正義が気分の問題なのか。
いずれにせよ、国家への忠誠を政権への忠誠と混同するわけにはいかない。勝てば官軍負ければ賊軍!これが近代国家方式というわけか...

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