2024-06-16

"作品は「作者」を語る" ソーントン不破直子, 内山加奈枝 編著

作品は誰のものか...
人間の本能は、とかく所有の概念に敏感ときた。私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。その対象は、物ばかりか人にまで及ぶ。ぼくの彼女に、あたいの彼氏に、はたまた、お前がこの場にいるのは俺のおかげだ!などと...
その領域を侵そうものなら、恨み妬みの類いが襲いかかる。作品を購入すれば、所有権は購入者へ移り、その作品をどう解釈するかなんて、持ち主の勝手次第。作者が過去の人なら死人に口無しよ。だからといって、作者の亡霊からは逃れられない。作品を評するのに、作者の存在はなかなか無視できない。そして、作者の意図を解し、作者が生きた時代背景を汲み取る。そうでないと、作品を味わうことも難しい。作者は、単なる作品の制作者にとどまらない。名作ともなると権威をまとい、時には道徳論と結びつき、時には教育論で存在感を示し、時にはイデオロギー装置の引き金となって永遠の存在となる。

では、作者不明の作品はどうであろう...
例えば、原作不明で知られる「千夜一夜物語」、別名「アラビアン・ナイト」は世界各国で翻訳され、子供たちにも親しまれる。作者が定まらなければ、原型も定まらず、後に加筆され、様々なバリエーションが共存する。
しかしながら、作者不明と作者不在とでは、ちと意味が違う。たった一人の原作者の権威に縛られず、あちこちから作者が加わり、作品自体が独り歩きを始める。未完成とは、自由の代名詞か。とはいえ、寄り集まりの作者たちが生きてきた時代に翻弄されてりゃ、世話ない...

「読者の誕生は、作者の死によってあがなわれなければならない。」
... ロラン・バルト

作品の解釈をめぐっては、作者の意図を優先すべか、受け手の自由な解釈に委ねるべきか...
解釈する側の単純化する性癖はいかんともしがたい。一貫性を求めたところで、作者の自己矛盾ばかりか、受け手自身の自己矛盾に翻弄される。ならば、その双方にとどまらず、中庸な立場で眺めるのも悪くない。想定できるすべての立場を渡り歩くのも面白そうだし、それこそが作者が意図することかもしれん。
例えば、ヘミングウェイは、何も起こらない物語を書いたという。原題 "Big Two-Hearted River"、これの邦題が「二つの心臓の大きな川」では直訳すぎる感も... まぁ、それは置いといて。戦争帰還兵の物語が、戦争には一度も触れていないとは、これいかに。戦場とは対照的な静寂な光景に浸るという、なんとも思わせぶり。ヘミングウェイ自身がロストジェネレーションでもあり、そうした空虚な精神状態を物語ったのであろうか。作者の生きた背景を知らなければ、味わうのが難しい作品である。
しかし、それも読者の勝手な解釈かも。戦争とはまったく関係なく、単に癒やされた感覚を素直に綴っただけかも。読者の側も、読了した労力の報酬を受取りたいし、読書時間に対する見返りが欲しい。どんな言葉も、どんな表現も、深読みすることによって読者は救われる。批評家であれば、尚更であろう。
おまけに、作品に自己同一性を求め、教訓的な何かを期待する。作品の主体に責任を押し付けるのは、読者の責任逃れか。作者に人類を救え!などと吹っ掛ける気にはなれんよ...

「余は心理的に文学は如何なる必要あって、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり」
... 夏目漱石

文学は、言葉の力を魅せつける。言葉は語られることによって生を受ける。しかし、誰が語るかが問題だ。この世には、名言とやらが溢れている。本来、誰が何を言ったかなんて関係ないはずだが、語り手の名声が威光を放つ。この天の邪鬼ごときが孔子の言葉を熱く語ったところで、所詮、酔っぱらいのたわごとよ。
そもそも文学とはなんであろう。その定義となると、「言語表現によって創作された虚構」とするのが一般的なのかは知らんが、文学作品は人間の本質を暴き、その虚構の場に読者は現実を重ねる。マクベスが権力欲を露わにし、クレオパトラが情欲を剥き出しにし、ロミオが愛の苦しみを暴き、シェイクスピアの虚構が人間の現実を物語る。作者の体験からくる発想が膨らんでフィクションとなり、フィクションがフィクションでは終わらず、さらに上位のメタフィクションで語り継がれ、もうメタメタよ!

「読書という行為によって生命の息を吹き込まれて生かされていく限り、文学作品は、そのときの読者の生命を一時停止させることによって、ある種の人間になるのである。」
... ジョルジュ・プーレ

古典は、時代に揉まれて名作となる。本体のニュアンスを微妙に変化させながら、時代に同化していく。まるでカメレオン!
作品は作者の鏡、自己投影の場、心で感じたものが露わになる場。そうした作者たちの独創性はどこからくるのだろう。社会に馴染めない性癖が、虚構の世界に走らせるのか。持って生まれた才能が、そうさせるのか。
いや、人に影響されずに生きてゆける人間は、そうはいない。独創性の源泉には、なんらかの模倣が含まれているはず。ゲーテは、死の一ヶ月余り前に、こんなことを呟いたという...

「われわれはどう振舞ってみても、結局みんな集合体なのだ。純粋な意味でわれわれ自身のものと呼べるものは、どんなにわずかなことだろう!われわれは先人や同時代人からすべてを受け入れ学ばなければならない。... 私は他人がまいてくれたものを取り入れさえすれば、よかったのだ。」

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