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2025-12-07

"電気革命" David Bodanis 著

電気とは何か。それを見た者はいない。だが、その存在を感じることはできる。物体が帯びる電磁場、あるいは、それを取り巻くエネルギー場を通して...
電気が走る... という表現もある。それは気配のようなものか。それは魂のようなものか。人間の意思を自由電子の集合体とするなら、そうかもしれん。
ところで、電流と電圧の違いとは、なんであろう。それは、しびれるか、しびれないかの違いさ...

本書は、雷に電気の種を見たフランクリン、電気の力場に居場所を求めたファラデー、愛の告白のために電話を発明したベル、電磁波の放射に遠隔作用を見たヘルツ、電子の振る舞いに万能機械を夢見たチューリング、物質の結晶格子に電気特性を見たショックレー、そして、彼らの発明や技術が軍事と結びついてきた背景を物語る。
また、電気の基本単位アンペア、ボルト、ワットに名を冠する電気屋さんたちの逸話も見逃せない...
尚、吉田三知世訳版(新潮文庫)を手に取る。

電気革命において、最も社会貢献した技術とは何か?と問えば、トランジスタを挙げる人は少なくない。つまり、半導体素子を。この発明がデジタル社会の幕開けを告げた。主役に躍り出た物質はシリコン。この結晶格子が持つバンドギャップを利用すれば、電子を流したり、止めたりすることができる。原子レベルでオンオフ制御ができれば、チューリングが夢見た超高速の論理スイッチも実装できる。しかも、この結晶を組み合わせることによって、ほぼ無限の多段等価回路が形成され、高密度化への道が開ける。そして、ムーアの法則を呼び込むことに...

それにしても、電気とは摩訶不思議な存在である。力場に存在する正の電荷と負の電荷は同じ数だけ存在し、両者はよく釣り合い、普段は無であるかのように振る舞う。電荷の効果が生じるのは、そのバランスが崩れた時。この「場」を研究したのがファラデーなら、場の中で伝搬する「電磁波」を研究したのがヘルツである。

宇宙には、電磁波が満ちている。光も電磁波の一種だが、これを伝搬するための媒体は存在するのだろうか。宇宙空間には、何かが充満しているのだろうか。マクスウェルは、エーテル説を信じて電磁理論を展開したが、エーテルが存在しなくても成り立つことで苦悩したと伝えられる。それは、エーテルの存在を否定したのではなく、あってもなくてもいいってことか。かつて物理学は、エーテルの存在を否定したが、今ではダークマターの存在が囁かれている。それはエーテル代替説か。宇宙を説明するには、従来の物質とは違う概念が必要なようである。
電磁波は、人体にも満ちている。自己複製能力を備える生命体もまた電荷で形成され、細胞や神経伝達系、DNA までも電磁場に包まれる。人間は電子の振る舞いによって思考し、気分までも動かされる。そして、この電気特性がそのまま医療技術に投影される。

電気を取り巻く力場の研究では、ファラデーが電磁場の基礎理論を確立し、マクスウェルがあの四つの方程式のもとで電磁気学という一分野を確立した。
電気というものの存在が初めて唱えられた時、こんなものがなんの役に立つのかと馬鹿にされたことだろう。ファラデーは、いずれ税金がかけられるだろう... と言ったとか、言わなかったとか。そして、現代社会の利便性は電気によってもたらされる。
だが、どんな利便性も、そのまま社会的リスクとなる。価値交換の利便性は、そのまま犯罪の利便性に。善と悪は共存し、すべてはイタチごっこ!これが人間社会というもの。
最先端の科学技術には、まずもって軍事利用されるという皮肉な歴史がある。その相殺のために人間は神を必要とするのか。但し、神もまたサイコロを振るらしい...

今や、電気のない社会を想像することはできず、ムーアの法則のごとく電気依存を加速させていく。なんにせよ過度の依存症は恐ろしい。いずれ、太陽フレアが大規模で発生したり、小天体の接近で地球の電磁場が削られたりして、かつてない大停電を経験することになるのか。二百年以上かけて築き上げてきた電子社会も、一夜にして崩壊する日が来るのやもしれん...

2025-11-30

"バナッハ - タルスキの密室" 瀬山士郎 著

数学の本をミステリー仕立てとは、なかなかの趣向(酒肴)。定理に至るプロセスは推理過程そのもの。数学とミステリーは、すこぶる相性がよいと見える。
登場人物は、推理小説ではお馴染みのシャーロック・ホームズと、その記録係ジョン・ワトスン。ここでは、バナッハ - タルスキの定理をホームズ探偵譚で物語ってくれる。
見ることと観察することは、はっきりと違うのだよ... ワトスン君!

これは、錬金術に惑わされる人々の物語である。人間の欲望本能がそうさせちまうのか。かのニュートン卿は錬金術の研究に没頭したと伝えられる。「自然哲学の数学的原理」を書した人物までも...
人類は、実に多くの仮想的な価値を編み出してきた。市場取引で貨幣の倍増を目論むのも、ポイントを貯めて貨幣と見なすのも、ネット社会に出現した分散型通貨も錬金術の類い。いや、貨幣そのものが仮想的な存在。いやいや、資本主義経済そのものが価値を自然増殖させちまうシステム。したがって、人間社会にインフレ現象はつきもの...

「単純なものにほど人は騙されやすい。これは奇術の常識さ!」

ホームズは、犯罪組織のボス、モリアーティ教授とライヘンバッハの滝で最後の対決をし、それから三年もの間、失踪する。死亡説も囁かれたが...

1. 最初の偽錬金術師事件
最初に登場する錬金術師は、ホームズの失踪と同時に現れたシャイロット・ヘルメスという男。そこの奥さん!ちょいと、見て見て見て!ここに取りい出したるは、賢者の石の粉末!これをニュートン卿の霊に導かれて手に入れたのよ。どうやって手に入れたか?って。それは営業秘密ね!この粉末を使って、過去の錬金術師がやろうとしたように鉛を金に変えることはできないよ。だけど、目の前にある金を増やすことはできちゃう!
そして、不器用な手付きで、正方形の金の延べ板を適当に切って長方形に並び替えると、なんと面積が増えちゃった。

  8 x 8 = 64 を 5 x 13 = 65 に並び替え、1 マス分、増えている。

まさに、幾何学的トリック!不器用ってところが、本当っぽく見せるのよ...
これを「ボヤイ - ケルヴィンの定理」で反証する。

「平明図形 A をいくつか切って並び替えて平面図形 B ができるための必要十分条件は、A と B の面積が等しいことである。」

これを三次元に拡張したのがヒルベルト 23 問題の三番目のヤツ。ここで、その反証に用いられた「デーンの定理」を持ち出す。

「正四面体を切ってどんなに並び替えても立方体にはならない。つまり、同じ体積の正四面体と立方体は分割合同ではない。」

この分割合同を球体に適用すると「バナッハ - タルスキの定理」が強烈に匂い立つ。

それはさておき、ヘルメスに金をだまし取られたのは、モリアーティ教授にかかわる悪徳貴族ばかりだったとか。ホームズは失踪から帰還するも、ヘルメスは行方をくらまし、取り逃す。ヘルメスが世間を騒がした時期とホームズが失踪した時期が重なるのは、単なる偶然か?ワトスンは、この事件の真相を記録する勇気がなかったとさ...

2. 次に、偽降霊術師の密室事件
自称降霊術師の両手には手錠がかけられ、手錠は窓の手すりに鎖でくくりつけられている。部屋には死体と降霊術師しかいない。まさに密室!事件解決に、殺された男の霊を呼び出して事情を聞こうと...
確かに手錠は外せない。だが、くくられた鎖との関係から紐解くことができる。手錠は閉空間をなし、鎖も閉空間をなすが、これらを両手という開空間で結びつければ... またもや幾何学的トリック!
ホームズは「ライデマイスター移動」という結び目の定理を持ち出し、トポロジーを絡めるが、ちと大袈裟な。知恵の輪か、あやとりの類いでは...

3. 最後に、本物の偽錬金術師事件... 本当に本物?
大学の研究室で日系数学者の森屋氏が不可解な事故死を遂げた。直径が 2 メートルもある岩で圧死したという。この巨大な岩を外から部屋へ持ち込む方法は皆無。一度家をぶっ壊せば話は別だが。つまり、巨大な岩は最初から部屋にあったことになる。
ここで、取りい出したるは「バナッハ - タルスキの定理」。この定理には、二つのバージョンがある。拡大バージョンと複製バージョンとが...
前者は「球面を分解して組み立て直すと、大きさの違う球体を作ることができる」と告げ、後者は「一つの球面を分解して組み立て直すと、二つの球面を作ることができる」と告げる。
こうした現象は、球面に実存する各点を集合として捉え、これらが群と絡まった時に生じる。それは、無限のなせる仕業か...
群とは、一言で言えば、ある演算の対象となる数の体系。球面を適当に回転すると、回転群ができる。回転の仕方は軸の取り方次第で、それこそ無限にある。

「球面から可算集合を取り除いた残りの球面と元の球面とは分解合同になる。」

カントールが集合論を編み出したのは、無限を手懐けるためだったのか。なにしろ、直線上の点の数と平面上の点の数が同じだというのだから尋常ではない。無限集合から選ばれしものを一つの集合と見なした時、その選ばれしものの正体は... 「選択公理」ってやつが、大きさや数量といった概念を崩壊させちまうのか...
人間の思考に無限が絡むと、実存主義なんぞ自己崩壊しちまう。無限とは、得体の知れない存在という意味では、魂のごとく。
群は恐ろしい。群れは恐ろしい。それは人間社会とて同じこと。どんな良い事でも、人間が集まり過ぎると碌な事がない。群衆には、個々の意志とはまったく別の意志が働く。群衆という一つの個体が生まれたかのように。そして、この集団力学はことのほか強大だ。これも、ある種の群論であろうか...

それはさておき、森屋教授は密室でバナッハ - タルスキ分解を実践して見せたというのか。実は、森屋というのはモリアーティ教授の変名であったとか。なんと強引なオチ!数学の定理と駄洒落は、すこぶる相性がよいと見える...

2025-11-23

"バナッハ - タルスキーのパラドックス" 砂田利一 著

こいつぁ、定理か?それとも逆説か?
バナッハ - タルスキーの定理には、二つのバージョンがあるという。拡大バージョンと複製バージョンとが...

「球体を適当に分割し、それらを適当な方法で寄せ集めると、大きさの違う球体を作ることができる。」
あるいは、
「球体を適当に有限個に分割して寄せ集めることにより、元の球体と同じ球体を二つ作ることができる。」

大きさの違う球体とは... 野球のボールのような小さな球体から、地球のような巨大な球体が作れるとでもいうのか。どうやらそうらしい。
同じ球体を二つとは... 同じ理屈でいくつでも球体を作ることができるというのか。どうやらそうらしい。
これは、存在の定義を問うているのか。実存からの解脱を意味しているのか。宗教家ともなると、言葉では語り得ぬ事柄については、逆説をもって語ってみせる...

「不合理なるが故に信ずる。」... 教父テルトゥリアヌス

数学史を紐解いてみると、それは矛盾との葛藤の歴史とも言えよう。ゼノンに始まるアキレスと亀の徒競走には、瞬間という微分的思考と積算という積分的思考が交錯し、無限の影をちらつかせる。瞬間という無限小の概念を通して眺めれば、飛んでいる矢だって止まっている状態を定義できる。時間の流れを瞬間の集まりと捉えるなら、ここに集合論が匂い立つ...

集合論では、二つの集合を比較する時、要素を一対一で対応させ、対応できない余った要素があれば、そちらの集合の方が大きいとする。実に当たり前な考え。
では、無限集合ではどうであろう。カントールは、無限集合を自身の真部分集合と一対一で対応できるものと見なした。対角線論法が、それだ。
しかも、無限集合の大きさに濃度、ℵ(アレフ)という概念を持ち込む。
例えば、自然数の集合と一対一で対応できる状況が作れれば、同等の無限集合ということに。そして、整数、奇数、偶数も可算集合として同じ濃度 ℵ0 ということに...
直観的に同じであるはずもないが、数学の証明においては、こういうことが起こる。同じ理屈で、二次元平面上に存在する有理数は一次元の直線上にマッピングできる。多次元でも同じこと。カントールは、無限を手懐けることで、うまいこと有理数に居場所を与えたものだ。
そして、無理数という不可算集合を考察すれば、実数は有理数よりも大きくなり、この手の集合を ℵ1 ということに。ある集合より大きな集合は、集合の集合の... 冪集合!さらに次元の高い無限集合!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える羽目に...

こうなると、無限なんてものが本当に実在するのかも疑わしい。それは数学でしか扱えない代物か。単なる証明技術に過ぎないのか。
仮に定義を単純化して、有限でなければ無限!とするなら、有限で不可能なことは無限ではすべて可能!と解することもできる。数学の本質がその自由さにあるとすれば、なんでもありか。宗教じみてもくる...

「無限には二種類ある。否定的無限と真無限である。否定的無限は果てしのない進行をいい、これは有限を越えて進むが、どこまで進んでも有限に止まる。これに対して、真無限とは他者のうちにおいて自己自身に止まるところの普遍者、有限なものを契機として止揚している精神・絶対者である。」
... ヘーゲル

似たような思考実験は、幾何学にも見られる。辺の長さや角度といった概念を取っ払えば、トポロジーの世界へ。バナッハ - タルスキーの定理は、この幾何学の領域にある。
鍵となるのは、「選択公理」というやつ。証明に至る計算は正しそうだ。論理的にも間違ってなさそうだ。
しかしながら、選択公理の適用においては狐につままれた気分。こいつぁ、数学の技術か。姿や形なんてものは、要素の選択の仕方でどうにでもなるというのか。まさに人生そのもの。人生もまた矛盾に満ち満ちてやがる...

「分割は存在するが、その構成法はない。」

矛盾に遭遇すれば憂鬱にもなるが、無批判に信じてきたものに疑念を抱かせ、反省を促すこともある。人類は、矛盾を手懐けるために、様々な思考技術を編み出してきた。
例えば、存在が証明できなければ、一旦存在を否定し、そこに矛盾を見い出して否定の否定を真とする。背理法がそれだ。
あるいは、系に内包される矛盾を論理的に乗り越え、自ら統一した見解を無理やり見い出そうとする。弁証法がそれだ。
こうした思考法が新たな境地を開いてきたのも事実だが、存在をめぐる論理は相も変わらず隙だらけ。自己の存在すら確かなものではないし、精神や魂の存在すら物理的に説明できずにいる。自己存在を確実に説明できなければ、自己言及によって矛盾に陥るは必定。人間の認識すべてが...
無限を相手取るには、存在の定義をたった一つで限定するより、多くの奇妙なことを容認しなければならないようだ。シュレーディンガーの猫のように...

「存在証明に適用される背理法は、具体的構成法には拘らない論理であるが、現代数学はさらに究極的とも言える論理上の約束事を使うことがある。それは『選択公理』という、集合論に現れる大前提である。...(略)... 選択公理は、選ぶという人間の行為を超越した、まさに『御神託』とも言える約束事なのである。」

2025-11-16

"微積分読本" 田村二郎 著

秋風立つ今日この頃、いつもの古本屋で散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。数学を読み物にする本とは... 読本の定義も微妙だが、それは読み手次第ということであろうか。今、童心に返る思い...

「現実の世界を支配している自然法則に対して、われわれが一度十分に透徹した理解に到達するならば、これらの法則はただちに、最も透明な単純さと、最も完全な調和をもつ数学的関係として表現される; この事実は幾何学のなかだけではなく、それにも増して物理学のなかで、驚くほど繰り返し示されてきた。この単純さと調和に対する感覚は、今日、理論物理学において欠くことのできないものであり、これを養うことが数学教育の主な任務であると私には思われる。」
... ヘルマン・ワイル

本書は、六つの基本関数を典型的な物理現象に照らしながら物語ってくれる。六つの関数とは、一次関数、二次関数、cos 関数、sin 関数、指数関数、対数関数。物理現象とは、物体の一様な運動で、自由落下、放物体、等速円運動、振り子、放射性核の崩壊など。微積分が対象とするのは連続関数で、動的な関数の挙動や動く量に対する感覚を要請してくる。

物理現象の変化は時間の関数で記述され、それを瞬間的に捉えようとすれば時間で微分することになり、大局的に捉えようとすれば時間で積分することになる。
連続性は、人間の認識能力にとって根源的な性質であり、「瞬間」という見方と「変化率」という捉え方で、距離、速度、加速度を時間の関数で記述することができる。そう、ニュートン力学の第二法則だ。

空間認識を記述するには、ベクトル空間の概念がしっくりくる。ベクトル分解の概念は、座標に関数を投影する感覚で捉えることができ、多次元に適用できる。ベクトルの加法が登場すれば、可換群が匂い立つ。そう、あのアーベル群だ。本書にアーベルの名は見当たらにないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

cos 関数と sin 関数の相関では、ともに二階微分すると符号が変わる特性に照らして、そのまま向心力と遠心力に適用できる。そう、ニュートン力学の第三法則だ。cos と sin はセットで相殺特性があり、解析学で鍵となる分解特性が匂い立つ。そう、フーリエ変換だ。本書にフーリエの名は見当たらないが、ここでは匂わせてくれるだけで十分。

指数関数と対数関数の相関では、考古学や地質学で用いられる年代決定法などに照らして、相対変化率や減衰率といったものを味わわせてくれる。

しかしながら、微分方程式には、いつまでもつきまとう問題がある。解の存在と一意性の問題である。微分方程式を相手にすれば、その多くは解くことができない。少なくとも、おいらには解けない。
となれば、対象の範囲を狭めて、解に近づこうとする思考法が有効となる。そう、ε-δ論法の思考法だ。あの忌々しい... 呪われた... おいらを数学の落ちこぼれにしやがった... 本書では、そんな感覚にも目を細める。それを振り子の運動で体現させてくれる。単振動の微分方程式の解で、初期条件を満たすものは一つしかないと...

2025-11-09

"越境する巨人ベルタランフィ - 一般システム論入門" Mark Davidson 著

生物学者として紹介されることの多いルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ。彼をどのカテゴリで捉えるかは悩ましい。
ここでは... 二つの大戦と東西冷戦の時代を生き、ヒトラー主義、スターリン主義、マッカーシズム、盲目的愛国主義、狂信的排外主義に反対し、科学万能主義の高慢を糾弾した科学者で、生物学主義の遺伝万能論を否定した生物学者で、経験主義の絶対価値に異議を唱えた実験研究者で、物質主義を拒否した不可知論者で、個人主義を擁護した社会的計画の支持者で、システム科学が全体主義のために使われる可能性があることを警告したシステム科学の先駆者などと紹介される。
純粋な好奇心をもって学に励み、孤高であるがゆえに、あらゆる世界から距離を置いて物事を観る眼を持ち得たのであろう。健全な懐疑心を保ち、啓発された個人主義を貫くことは難しい。これぞ、遠近法人生か!
尚、鞠子英雄、酒井孝正、共訳版(海鳴社)を手に取る。

「ベルタランフィは、おそらく二十世紀において最も知られていない知的巨人であろう。一般システム論として知られる学際的な思想の父として、彼は生物学、医学、精神医学、心理学、社会学、歴史、教育、哲学に重要な足跡を残した。にもかかわらず、彼は人生の大半を日陰の中で過ごし、今日ほとんど脚注の中で生き長らえている...」

システム論的思考は、なにも真新しいものではない。アリストテレスが遺した言葉に「全体は部分の総和以上」というのがあり、ヒポクラテスもまた医療の基礎に、患者を取り巻く空気や水から、食生活、性衝動、政治的姿勢といった行動原理を重視したと伝えられ、古代の哲学思想に統合的に物事を捉える思考原理を辿ることができる。
しかしながら、人間というものを手っ取り早く理解しようとすれば、機械論に埋没するやり方が効率的ではある。少なくとも人体構造は、それで説明できる。
おまけに、社会科学、精神科学、心理科学、人文科学などとあらゆる学問分野に科学が結びつくと、研究した気にもなれる。人間が編み出した科学が万能だとすれば、人間そのものが万能だということか。そりゃ、神にでもなった気分にもなろう...

「人間というものは、自分以外のものには驚くほど能率的に対処できるのに、こと自分自身のことになると、その取組みは途端に不器用になってしまう。」

とはいえ、機械論的思考が科学進歩の原動力となってきたのも確か。それはベルタランフィも認めている。ここでは、情報理論、ゲーム理論、オートマトン理論などのシステム理論に触れ、特にサイバネティックスの数学モデルの役割に注目している。
ベルタランフィの著作「人間とロボット」では、サイバネティックスの基本概念はフィードバックと情報にあるとしていた。サイバネティクス・モデルは、情報との関係においては開放系であるが、環境との間では閉鎖系であると(前記事)。
機械に自己調整機構を実装するためには、フィードバックは欠かせない。だが、生命システムの維持では、それだけでは不十分。動的に相互連携する自動調整機構が必要となる。
人間精神ともなると、自己実現や自己啓発、自発性や創造性など、環境による刺激だけでは説明のつかない特性がある。胚の発育を一つとっただけでも、生命活動にはエントロピーの法則に反するところがあり、確率の低い秩序から確率の高い秩序へ向かうとは限らない。生命体は、負のエントロピーという矛盾を突きつける。かのシュレーディンガーもまた、「有機体が食料としているものは、負のエントロピー!」としたとか...

「システムの特性は、その構成要素からだけ由来するものではない。むしろ、構成要素の配列あるいは相互関連から生まれる特性の方が重要である。」

ベルタランフィは、生物システムの中でも人間を「シンボルを創造する独自の存在」と規定している。シンボルこそが人間の文化的遺産であり、人間の存在証明であり、人間精神を創造する原動力であると...
そもそも人間の認識アルゴリズムは、シンボリズム的である。ブランドや流行に流されるのも、象徴的な存在を求めてのこと。なにより人間が育んできた言語文化がシンボリズム的で、人生の指針に格言や名言を引き、コミュニケーションに合言葉を用い、理性や知性に模範的な理念を求める。国家や宗教といった枠組みも象徴的な存在。価値観、世界観、イデオロギーといった意識も、これらの反発として生じるニヒリズムや疎外といった情念も。生や死にも象徴的な意味が与えられ、人間像そのものがシンボリズム的と言えよう。
但しそれは、言語の枠組みを超え、文化の恩恵となるばかりか、自ら破滅をもたらすことも...

「あらゆる知識は、究極的実在の近似でしかない。」

本書は、ベルタランフィが描いた「新しい人間像」というものを紹介してくれる。多様化し、複雑化し、混沌としていく人間社会において、また、進化し続ける科学技術と共存していく中で、実存というものが曖昧になっていき、人間性を見失いがち。こうした状況下で、多種多様な視点とアプローチが試され、新しい人間像を模索する。一般システム理論は、そのアプローチと傾向において複雑で難解な多様性を持つ。これを、ベルタランフィは「豊穣なカオス」と形容したそうな...

また本書は、様々なキーワードを提示してくれる。有機体論、フィードバック、負のエントロピー、開放系の自己制御的定常状態、シンボリズム、システム、遠近法主義など...
最も注目したいキーワードは、「オーガニゼーション」である。生物の本質は、その組織化、すなわちオーガニゼーションにあるという。自発的組織化、自己調整、自己修復、さらに自己実現、自己啓発といった特性は、オーガニゼーションにかっかているというわけだ。
自己浄化できない組織に未来はない。それは、あらゆる組織に言えること。今、ベルタランフィが提示する人間像は、自己組織化によってもたらされるもの... と勝手に解している。これこそ生命の偉大さであろう...

「ベルタランフィの新しい人間像は、あらゆる面で人間精神の開放を宣言するものだ。生物としての人間と一人一人に与えられた固有の創造性を科学的に確認する試みである。新しい人間像はまた、人間自身が負うべき責任の確認でもある。それまでの人間性を否定するような、自分の将来を脅かすようなねじ曲げられた自我像を乗り越える責任である。」

2025-11-02

"人間とロボット - 現代世界での心理学" Ludwig von Bertalanffy 著

「一般システム理論」を提唱したルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィ。彼の著作「生命」では、有機体論の観点から生命体は開放系にあり、しかも定常状態システムであることが告げられた(前記事)。ここでは、その枠組みで、人間という生命体に焦点を当てる。
今日、精巧な機械システムが乱立する中で、人間は存在する...
技術革新の勢いが増し、AI の出現とともに機械が人間化し、人間の定義が曖昧になっていく。伝統的な人間像に思いを馳せては精神を破綻させ、新たな人間像の模索に迫られる。それで人間が非人間化していくのでは、世話ない。機械技術の発達は、精神技術の発達で補えるだろうか...
尚、長野敬訳版(みすず科学ライブラリー)を手に取る。

本書は、「シンボル」「システム」という二つの視点を提示する...
なにより人間の認識アルゴリズムが、シンボリズム的だという。確かに、人間が育んできた文化がシンボリズム的であり、人生の指針には格言や名言を引き、コミュニケーションには合言葉のような共通言語を編み、理性や知性では模範的な理念を掲げる。教育要項や社会的行動はパターン化し、名声や格付けが社会で幅を利かせ、大衆はブランドに群がり、政治家や経営者には模範的な行動を期待する。これらすべてシンボリズム的といえば、そうかもしれない。

人間が何かを認識する時、その対象を模倣したり、類似性を見い出したりして、差異を感じ取ろうとする。価値観にしても、世界観にしても、ある象徴的な存在との比較のうちに形作られ、イデオロギーも、ニヒリズムも、疎外も、社会の象徴となる何かへの反発心から生じる。そして、生や死にも象徴的な意味が与えられ、人間像そのものがシンボリズムに席巻されている、と言えそうな...

では、シンボリズム的な認識アルゴリズムを形成する生命システムとは...
科学では、人間像を機械論的に捉える傾向がある。閉鎖系ではエントロピー増大の法則が成り立ち、確率の高い状態へ向かう。
しかしながら、生命システムでは、無数の不可逆過程が起きているにもかかわらず、確率の低い状態が保たれる。高い自由エネルギーと負のエントロピーが相殺するかのように...
生命システムに組み込まれる能動性や自発性、あるいは自己調整や自己実現といった特性は、どこから生じるのであろう。開放系のポテンシャルエネルギーは計り知れず、これぞ生命の偉大さと言うべきか...

「構成をたえず交換しながら維持されていくのが、生きたシステムの一基本特性である。このことは、細胞内での化学成分の交換、多細胞生物内での細胞の交換、個体群内での個体の交換等々、すべてのレベルにはっきり現われている。生物体の構造はそれ自体、秩序だてられた過程の現われであって、それらはこの過程のなかで、またそれによってのみ維持される。それゆえ生物体の諸過程の第一次の秩序は、既成の構造のうちでなしに過程そのもののうちにさがし求めなくてはならない。」

ここで注目したいのは、人間と機械ロボット、そして、サイバネティクスという三方面からもたらされる秩序を論じている点である。機械ロボットは突き詰めれば、産業、軍事、政治体制が定めた筋書き通りに反応する自動人形。人間もまたそうした存在やもしれん。企業や組織に従い、社会制度に媚びる自動人形的な...

一方、サイバネティックスの基本概念は、フィードバックと情報にあるという。外界の刺激を入力とし、受容器を通した反応を出力する仕掛けに、フィードバック機能を付加して自己調整する機構であると...
こうしたシステムでは、情報を定義する方程式は負のエントロピーを持っていて、サイバネティックス・モデルは、生物学的な調節機能にも広い範囲で適用できるという。例えば、体温、血中の糖、イオン、ホルモンといった調節機能に...

物理学的な過程の多くは、直接的な因果性を持ち込む。例えば、原因 A が結果 B を生じさせる... といった具合に。
対して、サイバネティクス・モデルでは循環的因果性を持ち込み、システムの自己調節、目標指向性、恒常性維持といったものにも適応させるという。
しかしながら、生命となると動的な相互作用が鍵になる。サイバネティクス・モデルは、情報との関係においては開放系であるが、環境との間では閉鎖系にあるという。生体システムでは、情報に対して学習するだけでは不十分ということか。システムが外界との関係において生息するためには、循環的調整よりも動的調整の方が有利なのかもしれない...

動的調整を自発的調整と捉えるなら、人間には自我の暴走を抑制する理性という機能がある。人類にはホモ・サピエンスという呼び名もあり、賢い動物と形容される。
しかしそれは、本当だろうか。技術革新は、効率的な大量破壊兵器や非人道的な化学兵器を編み出した。最後の審判は、いつ下されるか。この手の予言を、あちこちで散見する。
古くプラトンは、哲学者が王となるか、あるいは王が哲学者になりさえすれば、国家は正しく機能すると唱えた。だが、人類の血生ぐさい歩みを辿れば、そのような理想像の無力さ痛感するであろう。
ベーコンは、知識は力であると言った。だが、知識に支えられる科学技術の歩みを辿れば、それだけでは不十分だということを痛感するであろう。
人間は、自分自身を惨めにすることにかけては、名人と見える。人間ってやつは、本当に理性的な動物なのか。一度疑ってみる価値はありそうだ...

2025-10-26

"生命 - 有機体論の考察" Ludwig von Bertalanffy 著

科学界には、「大統一理論」という壮大な夢がある。それは、自然界に存在する四つの力を統一した力学法則で記述しよういうもの。四つの力とは、重力、電磁気力、クォークの結合や原子核を形成する強い力、中性子のベータ崩壊などを引き起こす弱い力で、これらを一つの宇宙法則で説明することが物理学者の使命とされる。
生物学者ルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィは、この「統一」という用語に対して「一般」という用語を当て、物理学を超越した学際的な立場を表明する。「一般システム理論」がそれだ。生物や無生物の垣根を取り払い、精神現象や社会現象をも取り込んだ一般理論を構築しようというのだから、大々統一理論とでも言おうか...

生物の生息や形態、系統的な発生や進化に留まらず、合目的性や人間の存在意義までも論じようとすれば、心理学、精神医学、社会学、哲学など、さらには形而上学の領域にまで踏み込むことになる。デカルト流儀の物質と霊魂という二元論を乗り越えて...
ただし、ここでは生物体を一つのシステムと見なす点において、やはり生物学の書ということになろう。
尚、長野敬、飯島衛共訳版(みすず書房)を手に取る。

「そこで、問題は誰もまだ見ぬ物事を見たりすることよりも、むしろ誰もが見ていながら、誰もまだ考えぬ物事を考えるという点にこそある。」
... ショウペンハウエル

一つのシステムは、全体性を示す。この特性は、生存競争において個よりも優位ならしめる。人間社会では、集団性がそれだ。
全体は、連携、協調、相殺、排他といった相互作用によって、一つの有機体を成す。それは、細胞レベル、生命体レベル、統一体レベルで階層構造をなし、なんらかの秩序めいたものをもたらす。自己生長、自己再生、自己調整、自己分割、自己複製といった運動をともなって...

しかしながら、生長には腐敗がつきもの。全体性には、やがて分解作用が働く。それを機械論で説明するには限界があろう。なんらかの意思が働いているようにも見える。科学法則ってやつは、本質的に統計的な性格を持ち、結局は確率論を持ち込むことになるのだろうか。エントロピーが介在する限り...

なぜ電子が存在するのか?物理学者は答えてくれない。
なぜ生命が生じるのか?生物学者は答えてくれない。
ベルタランフィは、ただ生物体が開放系にあり、しかも定常状態システムであるとだけ告げる...

「閉鎖系の現象はエントロピー増大によって規定されるが、開放系中の不可逆過程をエントロピーその他の熱力学ポテンシャルで特性づけることはできない。システムのむかう定常状態はむしろエントロピーの最小生産ということによって定義される。このことから革命的な見解がでてくる。開放系が定常状態に移行するさいにはエントロピーが減少し、異質性と複雑さとかより高い状態に自発的に移ってゆけるということである。」

 たった一つの掟に 世は結ばれる。
 うつろうものの つらなりと共に
 千千(ちぢ)にかわって 見分けがたくとも
 力づよく流れる規矩(のり)はかわらぬ。
  ...
 この世は 矛盾で織りなされ
 経(たて)と緯(よこ)とは 相容れない。
  ...
 然りと 否とは 相結び高く翔(か)け
 そこに 真実は生みいだされる。
 相容れぬものこそ 生命だ。
 やわらかな憩い それは永遠(とわ)の眠り... 死。
 かくして 神の姿すらも
 矛盾のうちにこそ 生きている。
  ...
 相容れぬもの 矛盾。
 これこそは豊かな流れの 源をなし、
 すべてのものは ここに始まる。
  ...
... 「詩と反歌」より抜粋。

2025-10-19

"いかにして問題をとくか" George Pólya 著

これは、数学の書である。しかし、数学だけに留めておくのはもったいない。数学者ジョージ・ポリアは、問題解決のための一つの道筋を示してくれる。
尚、柿内賢信訳版(丸善出版)を手に取る。 

  • 第一に、問題を理解せよ!
  • 第二に、データと未知のものとの関連を見つけ、関連がすぐに分からなければ補助問題を考え、そうして計画せよ!
  • 第三に、計画を実行せよ!
  • 第四に、得られた答えを検討せよ!

個人的には、四つ目を注視したい。振り返ることに...
人間が思考する上で言語の役割は大きい。さらに突っ込んで記述のやり方に注目すれば、数学的な表記法が鍵となる。数学は、それだけで一つの言語体系を持っている。

「方程式をたてるということは、言葉であらわされている条件を数学的記号をつかってかき表すことである。それは日常の言葉から数式という言葉に翻訳することである。方程式をたてるときに感ずる困難はこの翻訳のむずかしさである。」

数学という学問は、客観性において他を寄せ付けない。その特徴の一つに、記号や数式を用いて表記する技術があり、直観的でありながら形式的なアプローチを強固なものにする。その過程で演繹的な思考や帰納的な思考を巡らせ、仮説を導入しながら試行錯誤を繰り返す。
本来、帰納法は個々の事例から共通の法則を見出そうとする論理的推論である。だが、数学的帰納法となると、むしろ演繹的となる。逆向きの演繹法とでも言おうか。演繹法をトップダウンとするなら、数学的帰納法はボトムアップといったところ。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...

「帰納とは観察や特殊な事例の組合せから一般的な法則を発見する手続きである。それはあらゆる科学において用いられ、数学においてさえ極めて有効である。数学的帰納法は数学においてだけ使われ、ある種の定理を証明するのに役に立つ。この二つのものの間の関連は非常に浅いのであるから、似た名前がついていることはむしろ不幸なことである。じっさいにはこれら二つを併用することがあるから、もちろんそういう意味で全く無縁のものではない。」

データ社会では、分析という言葉が乱用される。人間は、好奇心をそそるような事物に遭遇すると、それを調べずにはいられない。対象が複雑であれば、その全体像を把握するために、分解と結合を繰り返す。理解できなければ、それをバラバラにして構成要素へ還元してみな!ってな具合に...

また、事物の検証では、解析という言葉がよく用いられる。ある結論に達すれば、そのプロセスを紐解かずにはいられない。こうした視点は、結果から原因へ辿るような逆向きの仕事をやる時に都合がいい。

さらに、検証に行き詰まると、一旦否定を仮定して、この仮定を否定するという形で矛盾に活路を見いだす。帰謬法がそれだ。直接的な推論で行き詰まると、今度は間接証明を試み、推論の手続きを分解しては帰謬的思考を絡めて手続きを並び替えてみる。事物そのものにしても、検証プロセスにしても、あらゆる場面で分解と結合を試みるわけだ。
これに類似性と抽象的な視点を交え、仮説を立て、問題を違う角度から見直す。そして、問題を変形し、データや条件を変形し、問題を言い換えることができるかを問う。
こうした変形プロセスに、数学的な記号操作が有効というわけだ。人間の思考には、どこか還元主義的な性質があるようである...

「問題をとくということは人間の基本的な活動の一つである。われわれの意識的な思考の多くは何かある問題に関連したものである。ただ戯れや夢想をしているのでない限り、われわれの思考は必ずある目的にむけられている。われわれは手段をもとめ、問題を解こうとするのである。」

2025-10-12

"数学と算数の遠近法" 瀬山士郎 著

数学者瀬山士郎氏には、「数学にとって証明とはなにか」と題し、あの呪われた ε-δ 論法をほぐしていただいた(前記事)。
ここでは「数学と算数の遠近法」と題し、ちょいと風変わりな風景を物語ってくれる。その主旨は、「算数を通して数学を眺め、数学の広い高台から算数を眺めることで、抽象的な高等数学・現代数学と素朴な算数が地続きであると実感できる。」とさ...

本書で用いられる道具は二つ、「食塩水の濃度」「方眼紙」。どちらも小学校で馴染んだものだ。微分積分学を食塩水の濃度の延長上で、線形代数を方眼紙の延長上で眺めるという趣向(酒肴)である。
濃度という量は、長さや重さ、面積などとは、ちと違う性質を持っている。それは、全体量に対する割合や比で表される量。その意味では、速度も時間に対する距離という比で表されるので、扱いが似通っている。この比に極限という概念が加わると、そのまま微分積分学になるという寸法よ。
また、方眼紙を用いたお絵描きで、ユークリッド空間にベクトル量を適用すると、そのままアフィン幾何学を体現できる。小学生の頃に見た図形の風景を、幾何学の風景に写像するって寸法よ。
こうした視点は童心に帰る思い、脂ぎった天の邪鬼な心を少しばかり救ってくれる。

内包量こそが、微分積分学の先祖...
長さ、重さ、面積といった加算することに意味のある外延量を時間の関数に適用すれば、加算しても意味のない内包量に変貌させる。加法が成り立つということが、様々な局面でいかに役立つか。線形代数では欠かせない視点である。
内包量という概念は、高度な記号化と形式化された演算システムによって実数体での四則演算を可能ならしめ、さらには複素数体での四則演算へと拡張させる。
ちなみに、sin を微分すると、cos に、 cos を微分すると -sin に... これだけでフーリエ変換の偉大さを感じる。本書にはフーリエ変換という用語は登場しないけど...

あの呪われた ε-δ 論法を方眼紙を通して眺めれば...
正方形でパッキングして近似していくプロセスから、フィボナッチ数列を通して黄金比を見るような風景が見えてくる。
ちなみに、正方形を平行四辺形にすれば、そのままアフィン幾何学となる。すべての三角形はアフィン合同というわけか...

「一次変換という名の正比例」を論じれば...
正比例という概念が、正比例関数に拡張され、さらに多次元の正比例関数に昇華した時、固有値問題が匂い立つ。
ちなみに、本書には固有値や固有ベクトルという用語は登場しないけど...

  y = ax
  → y = Ax
  → Ax = λx

「平方完成という名のテーラー展開」を論じれば...
二次関数に平方完成を適用すると、2乗比例から座標変換系が得られる。解析学では欠かせない視点だ。

  y = a + bx + cx2
  → y + (b2 - 4ac) / 4c = c(x + b/2c)2

これを 2乗比例の形で捉えると、

  Y = y + (b2 - 4ac) / 4c,  X = x + b/2c
  → Y = cX2

まさに、xy 軸から XY 軸への座標変換を示している。
すべては、小学校で学んだ正比例からの地続きであったとさ...

そういえば、小学校の問題に「植木算」ってやつがあった。木を同じ間隔で植える時、必要な木の数やその間隔の長さを求めるってヤツだ。これを多面体に持ち込んで、頂点の数を p、辺の数を q、面の数を r、切断の数を s とすると、「オイラー・ポアンカレの定理」が見えてくる。

  p - q + r = 2 - s

これを曲面で眺めれば、トポロジーへの道筋が見えてくる。すべては、小学校で学んだ植木算からの地続きであったとさ...

2025-10-05

"数学にとって証明とはなにか" 瀬山士郎 著

おいらは数学の落ちこぼれ。その張本が、大学初等教育でいきなり出くわした ε-δ 論法だ!
本書の副題にも「ピタゴラスの定理からイプシロン・デルタ論法まで」とあり、この用語に引き寄せられる。怖いもの見たさか、ブルーバックスというのもあろう。それは一般向けの科学・理工学シリーズで、子供から大人まで楽しめるという趣向(酒肴)。学生時代、おいらはブルーバックス教の信者であった。やはり数学をやるのは楽しい。童心に返る思い...

「絵を描けなくても、名画を鑑賞することで、何が名画なのかを心の中に刻むことができる。作曲ができなくても、一流の音楽を鑑賞することで、音楽に対する感性が養われる...」

本書は、数学の肝である証明に焦点を当て、絵画や音楽のように鑑賞しようという趣向。基本となる論理構造に、演繹、帰納、仮説の三つを挙げ、論ずる技術に、数学的帰納法、背理法などを巡り、円周角不変の定理、ピタゴラスの定理、プトレマイオスの定理、デデキントの切断などを外観させてくれる。
そして、中間値の定理や区間縮小法の原理が登場すると、いよいよ ε-δ 論法が匂い立つ。

それは、論理学から、幾何学、解析学、代数学へと辿る巡礼の旅!
論理学の最も単純なやり方は三段論法、これを日常会話に持ち込めば、たちまち屁理屈屋に...
一方、幾何学の証明は純粋にワクワクさせてくれる。ちょいと補助線を加えるだけで物理構造を可視化し、新たな空間イメージが沸き立つ。
解析学は、微分積分学が発展した形で連続や無限の概念へと導く。無限を相手取れば、循環論法に陥るは必定。代数学でも無限が問題となるが、n 乗根の演算を相手取れば、別の世界へいざなう...

ところで、証明とはなんであろう...
本書には、「証明とは、だれもが正しいと認める事実から出発して、新しい事実へと論理をつないでいくこと。」とある。
だが、その用い方は人それぞれ。相手を説得する手段、自分自身を納得させる手段、議論を高尚せしめる手段、あるいは論争で相手を貶めたり、論理で武装して煙に巻く手段... と。
いずれにせよ、ある事実が正しいことを確認する手続き、とすることはできよう。有無を言わさず正しさを強要しちまうので、自由を心棒する者には威圧的ですらある。M にはたまらんが...
証明のプロセスを味わうことは文章の読解力にも寄与する。論理思考のやり方においても参考になり、一つの命題に対して証明法がいくつもあれば、それだけ思考法が広がる。

しかしながら、証明の最も難しいのは存在証明であろう...
解の存在、中間値の存在、極限の存在を求め、手続きが行き詰まれば、存在の否定を仮定して、それを否定するという形を模索する。こうした試行錯誤が懐疑心を焚き付け、自己の存在、魂の存在を問い、神の存在証明に挑む羽目に。
となれば、直感を信じて、そのまま受け入れる方が幸せやもしれん。パスカルのように。まぁ、神が存在する方に賭けたところで失うものはあるまい。
数学の記号操作が記述を厳密にするが、その意味するものとなると、様々な解釈を呼ぶ...

「数学記号はこの世界をよく知るために人が考え出した言葉の一つです。これほどうまく作られた人工言語はない、と言ってもいいかもしれません。言葉には意味があります。その意味を追いかけることが証明の本質的な部分だと私は考えます。」

ついでに、あの忌々しいヤツにも触れておこう...
ε-δ 論法なんて、ギリシア文字で表記するから大層なものに見えちまう。だが、意味することは単純だ。xy 座標系において、連続関数の x の範囲を狭めていくと、y の範囲も狭まり、その極限が解、あるいは近似値となる。なんて当たり前なことを。あとは ε が y に δ が x に相当するたけのこと。連続していれば、必ず二等分できる、と言っているのと同じレベル!
連続性が保証されるからこそ大小関係が成り立ち、適当なところで切断でき、中間値も得られる。おぼろげな対象へのアプローチは、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方は実に単純だ。こうしたアプローチが重要視されるのは、微分方程式の多くが解けないという背景がある。
言うなれば、連続性の世界における万能な論法というわけだ。しかし、物事は単純で純粋なものほど、証明するのが難しい。そして、落ちこぼれは、数学を暗記科目にしちまったとさ...

2025-09-28

"生物のかたち" D'Arcy Wentworth Thompson 著

原題 "On Growth and Form"... 生物の成長のかたちは、数学に看取られているのだろうか...
ここに、モナリザや北斎画、ウィトルウィウス的人体図に見て取れる黄金比やフィボナッチ数列といった用語は見当たらない。それでも、蜂の巣が形作る幾何学構造や、オーム貝、有孔虫、放散虫が形作る球形や等角螺旋形に魅せられれば、自然が織りなす芸術品に物理学を感じずにはいられない。それは、重力の仕業であろうか。地球上に存在する生命体の大きさ、重さ、動きの速さ、そして形には、おそらく最適化の原理が働いているのだろう。これこそ自然淘汰というものか...
尚、柳田友道、遠藤勲、吉沢健彦、松山久義、高木隆司訳版(東京大学出版会 UP選書)を手に取る。

「数学を自然科学にもち込んだのは数学者ではなく、自然そのものである。」
... カント

それにしても、これは生物学の書であろうか。生物界のニュートン力学とでも言おうか。ダーシー・トムソンという人が生物学者であることは確かなようだが、文学の才にも長け、古典学、数学、博物学を調和させたような学者であったとか。ここでは、生物の成長を大きさと方向を持つベクトル量として捉え、時間の関数を適合させて魅せる。

一般的に相似関係にある二つの物体は、表面積は長さの平方に比例し、体積は立法に比例する。質量が大きくなるほど慣性力が増し、重力の影響も大きい。大きな生物ほど相応の水分や栄養を必要とし、生存競争で生き残ることも、環境の変化に適応することも難しくなる。ヒトの大きさ、昆虫の大きさ、バクテリアの大きさ等々、それぞれの世界に物理法則が働く...

また、細胞を取り巻くエネルギー帯の考察は興味深い...
細胞には多種多様なエネルギーが関与するが、中でも表面張力との関係に注目して曲率との関係を論じて魅せる。細胞が群らがると表面張力の総体となって複雑化し、平衡状態が不安定となるは必定。

「平衡状態はボルツマンがいったように確率の言葉で表現できる。すなわち、ある系で高い確率で最も存在しやすい状態、あるいは最も完全に維持できる状態というのが、まさしく平衡状態と呼ばれる状態なのである。」

さらに、生物界に生じる非対称性の考察も見逃せない...
例えば、生物から取り出したブドウ糖やリンゴ酸の分子構造は、偏光面が一方向に旋回するという。植物の代謝によって左旋性の L-リンゴ酸や右旋性の D-グルコースは生じるが、D-リンゴ酸や L-グルコースは生じないとか...

「片方の対称性をもつ物質を両方の対称性をもつ物質の混合から選び出すことは生命現象の特徴であり、生物のみがこれを成しうる。すなわち、非対称性をもつものだけが非対称な物質を合成できる。」

2025-09-21

"動物のことば" Nikolaas Tinbergen 著

原題 "Social Behaviour in Animals - With Special Reference to Vertebrates."
これに「動物のことば」との邦題を与えた翻訳センスはなかなか...
尚、渡辺宗孝、日高敏隆、宇野弘之訳版(みすず書房)を手に取る。

動物の社会的行動は、なんらかのシグナルを発する。シグナルは受け手と送り手が互いに反応しあうことで成立し、人間社会では、ことばが重要な役割を担う。
生物学の一分野に「動物行動学」というのがある。本来の生物学的な生理的、生態的な行動から少しばかり距離を置き、社会科学的な観点から集団行動に着目する。いわば、動物のコミュニケーションに。動物にとってのことばとは...

ところで、こいつは本当に動物を物語ったものであろうか...
社会構造の発達において、様々な協同形態を外観しながら、「機能、仕組み、進化」という三点から考察を加えていく。その過程で孤立性と社会性が入り乱れ、捕食者に対して防衛姿勢や威嚇行動が生じ、同種間で求愛行動や調節作用が生じる。昆虫社会に高度化した隷属国家を見、動物社会に社交化した大衆国家を見、まるで人間社会!

但し、人間社会の場合、敵は捕食者ではなく、むしろ同種!
知能の発達に伴い、縄張り意識が強まり、所有の概念を巧妙化させ、なにかと衝突が生じる。そればかりか、考え方や生き方の違いをより意識させ、同種といえども差別せずにはいられない。様々な人が入り乱れれば、それだけ敵も増えるというわけだ。
ことばを解せないということが、いかに平和であるか。どうりで、文句を垂れないペットに愛着を深めていく。動物と人間の違いとは、敵と同種の区別の仕方、その意識の違い、それだけのことやもしれん...

社会的とは、互いに反応しあって、何らかの秩序が保たれる状態を言うらしい。一番単純な協同は同じことをすること。餌を漁るのも、移動するのも、眠るのも... 動物にも社会構成がある証拠は、いくらでも見つかる。短時間の性的つながり以上に発達していない動物もいれば、社交場に群れては統率者が現れたり、長ったらしい儀式めいたものが生じたり、説き伏せや甘えといった行動まで見て取れる。
そして、昆虫国家に高度に統制された分業社会を見る。

「分業はミツバチの社会こそその極致であろう。卵を生むのは女王ばかり、また雄は処女の女王に授精する他に役目はない。その他のすべての仕事は働蜂、すなわち不妊症の雌がひきうける。働蜂には巣室を作るもの、幼虫の世話をするもの、また巣を守り侵入者を追い払うもの、飛び出して蜜や花粉を集めるもの、その他さまざまなものがいる。云々... 雄の求愛行為が刺激となって雌も協同動作をなし、雌雄は交尾器の合致ばかりでなく、実際の交尾動作においてもよく合致する。いろいろな動物においてこの協同がなされるその方法たるや、まさに無数...」

多くの動物は、リリーサーの機能を持っているという。色合い、鳴き声、匂い、仕草のパターンといったものが触発要因となる。他種の動物を誘い込む動物もいれば、逆に誘いを回避する動物もいる。姿形をカムフラージュすれば、まるで兵士戦術。
一方、人間はというと、化け物に扮す。お化粧もその類いか...

求愛行動にも、大きな役割がある。まず雄雌一匹ずつが出会い、両者の間で時間的な調整が行われ、互いに身体に触れても嫌がることなく、さまざまな共有が生まれる。そして何よりも、種間の交雑を防ぐことが重要となる。配偶行動にしても、交尾だけでなく、先立つ長い予備行動が含まれている。
そして、多くの動物は家族よりも大きな群れをつくる。集団でいると何かと御利益があり、一番の利点は捕食者からの防衛であろう。個体間の合図による信号系は、集団間においても機能する。
競争や闘争にも、それなりに役割があるらしい。個体間だけでなく集団間においても適当に距離を置き、有害な密集を防ぐといった、種族にとって大きな効用をもたらす。

また、動物の行動パターンに「つつきの順位」というものがあるそうな。それは、直線的で直接的な順位付けをいうらしい。本能的な意識とも言えそうだが、こうしたものが闘争の機会を減らす要因になるという。例えば、自分より優位にある個体を避けることを早く学習することが長生きの秘訣というわけだ。
人間の意識にも様々な順位が見て取れ、優劣関係と絡む。家柄や出生の優劣、経済的優劣、能力の優劣、男女の優劣など。こうした優劣の間で階級闘争が生じる。生殖闘争は自由や平等といった感覚を遠ざけるようだ...

「つつきの順位を決める行動にはかなり興味深い面がある。ローレンツはコクマルガラスで次のようなことを見出した。すなわち、下位にある雌がずっと上位の雄と婚約すると、この雌はすぐ雄と同列にまで昇進し、この雄よりも下位にある個体はすべて、たとえ以前この雌よりも上位にあった個体でも、この雌を避ける。」

2025-09-14

"文学とは何か" Jean-Paul Sartre 著

書くとはどういうことか... 何ゆえ書くのか... 誰のために... 誰しも理由があろう。ある者は逃避のために... ある者は征服のために... それでいったい何から逃避しようというのか、何を征服しようというのか。サルトルは、素朴な問い掛けによって彼自身が悶々とする世界に読者を引きずり込む。文学とは、牢獄への道連れか...
尚、加藤周一、白井健三郎、海老坂武訳版(人文書院)を手に取る。

「われわれは瞞着の時代に生きている。社会構造に帰因する根本的瞞着があり、二次的な瞞着がある。社会秩序はこんにち、無秩序がそうであるのと同じように、もろもろの意識の瞞着の上にやすらっている。」

ある登山家は言った。そこに山があるから... と。そこに筆があるから、そこに紙があるから、あるいは、読者がいるから、希望を求めて、単なる独り善がり.. と、いくらでも理由はつけられる。しかも、作家は一人では作品を完成しえない。作家には読者が必要なのだ。作家の主観性を読者の客観性で補い、双方とも高みに登ろうと、まるで登山家気取り。そして、書く芸術を偏見なしに観賞することの難しさを思い知る。

「私は自由から生れ、自由を目的とする感情を高邁とよぶ。かくして読書とは、高邁な心の行使である。作者が読者から要求するものは、抽象的な自由の適用ではなく、読者の全人格をそっくり贈与することである。その情念、その偏見、その共感、その性的欲望、その価値の尺度を贈与することである。ただその人格は高邁な心でおのれを与え、自由はこの人格のあらゆる部分に浸透して、その感受性のもっとも暗いかたまりさえも変形する。活動性はよりよく対象をつくりだすために受動的となるので、受動性は逆に行為となる。読書をする人間は、そうして、自己を最高のところまでたかめる。」

文才は、退屈な日常までも物語にしちまう。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。不幸の自覚もなさそうだ。自分の不運を愛し、自分の不遇に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえに書かずにはいられないのか。我が道を狂信的なまでに追求せずにはいられないのか。だから幸せだというのか...
書くということは、啖呵にすぎないのやもしれん。具現化した文体と抽象化した思考の狭間で、現実社会と個人的ヴィジョンを対峙させ、自己の中で直感と論理がせめぎ合う。その過程で人間の限界をつきつけられ、時には理性を崩壊させ、時には狂気にすがり、死に救われることも。作家とは、病める人間を言うのか。読者を巻き添えに...

読者は読者でより大きな刺激を求め、この退屈病は如何ともし難い。喜劇よりも悲劇に感動を求め、楽観よりも苦悩を欲し、仕舞には人類を救え!とふっかける。
作家の理性に限界を知るや、批判の態度に活路を見いだす。だが、批判自体は肯定的な解決をもたらさない。そればかりか、くだらぬ非難の応酬に、誹謗中傷を喰らわす。
芸術には抽象化によって高尚さを装う技術があるが、作家もまた批判から逃れるために対象を曖昧にし、自己を曖昧にする技法を旺盛にしていく。かくして作家は、イデオロギーに蝕まれ、ドグマに毒され、偏狭に埋もれる読者を救えるだろうか...

「純粋の文学とは、かくのごときものである。即ち客観性の形をとって胸中を打ち明ける主観性、奇妙なしかけで沈黙と同じ意味をもつ言説、自分自身に意義を唱える思想、狂気の仮面にすぎない理性、おのれは歴史の一契機でしかないということをほのめかしている永遠、内幕を曝け出すことによって突如永遠の人間を指し示す歴史の一契機、たえざる教育、だが教える人々の明白な意志に反しておこなわれる教育...」

2025-09-07

"第三身分とは何か" Emmanuel-Joseph Sieyès 著

フランス革命前夜、エマニュエル=ジョゼフ・シィエスは聖職者や貴族が保持する特権身分を批判し、国民議会の設立を唱える。歴史を動かした書というものがあるが、本書もその一つに数えられるそうな...
尚、稲本洋之助、伊藤洋一、川出良枝、松本英実訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書の構想は単純なもので、三つの論考によって組み立てられる。
  • 第三身分とは何か... 全てである。
  • 第三身分は、これまで何であったか... 無であった。
  • 第三身分は何を要求しているのか... 何がしかのものになることを。

フランスには、もともと三部会というものがあり、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。王権と教皇権の争いのさなか、国王が国民の支持を得て優位に立とうと開催したものだが、絶対王政の時代ともに廃れていった。ルソーの社会契約論は知識人に広く知られていたものの、当時はまだ国民相互間の契約ではなく、支配者との服従契約という意味合いが強かったようである。
シィエスは、こうした世情に苦言を呈し、モンテスキュー風に法の下での平等を強調する。そして、国民主権、代議制、憲法制定議会と通常議会の区別といった概念を論じる。彼が提唱するものは、現在では民主主義の基本原理として自明とされるものだが、これらを実践するとなると、未だ...

「モラルに関しては、簡素で自然な手段に代わりうるものはない。しかし、人は無益な試みに時間を費やせば費やすほど、やり直すという考えを恐れるようになる。もう一度はじめからやり直しやりとげるよりも、時にはことのなりゆきに任せ浅薄な策を弄する方がよいとでも言うかのように。このようなやり方をいくら繰り返しても、一向に進歩はない!」

本書は、革命前夜のパンフレットらしく、急進的な発言が目につく。第三身分こそ国民であるべき、いや、国民ならば第三身分であるべき。したがって、特権身分は国民ではない。聖職者特権であぐらをかく輩と、国王にへつらって租税を免れる貴族どもは、もはや有害!奴らを国民議会から排除せよ!と...
21世紀の現在でも、よく耳にするのが、政治家は庶民生活がわかっていない... というもの。それを言うなら、庶民だって政治家という人種をわかっちゃいない。わかりたいとも思わんが。既得権益に守られた輩が蔓延る世情もまた、あまり代わり映えしない。民主主義への道はまだまだ遠いということか。いや、人類が背負うには重過ぎるのやもしれん...

「人間は、一般に、自分より上位にある者全てを自分と平等にしようと強く願う。そこでは、人は、学者として振る舞う。ところが、同じ原理が彼らより下位にある者によって主張されるのに気づくや、この平等という言葉は、彼らにとって忌まわしいものとなる。」

国民の側にしても、何か要求したいのだが、何を要求すべきかが分からない。そもそも、国民がどうあるべきを分かっていない。それは、経済活動における消費者心理にも見受けられる。新商品は企業が提案するもので、これに満足するか、難癖をつけるか、多くの消費者はオススメと評判に動かされる。こうした構図は、政治とて同じ。どんな政策を望むかより、提案された政策に賛同するか、拒否するか、そういう形でしか自分の意思が確認できない。
そう、「何がしかのものになることを...」望むのである。あえて言うなら、最低限の人権ということになろうか。第三身分、すなわち、真の国民がこれまで無であったのなら、これを有に変えるには、かなりの意識改革が必要なようである...

「上位二身分にも、第三身分の権利回復が、利益となることは確かである。公の自由の保障は真の力が存するところにしか存在しえないということに、目をつぶってはならない。われわれは、人民とともに、かつ、人民によってでなければ、自由たりえないのである。」

2025-08-31

"破壊(上/下) - 人間性の解剖" Erich Seligmann Fromm 著

かつて、アインシュタインはフロイトに問うた。「ヒトはなぜ戦争をするのか?」と...
それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡るもので、そこに物理学者と精神科医の対決を見た。一つの答えは、人間はもともと獣であったというもの。他の動物も、自己防衛のために攻撃的になるし、相手を敵と見なす意識は本能的に備わっている。
しかし、だ。空腹でもないのに快楽のためだけで殺すような動物が、他にいるだろうか。しかも、同じ種を。生物学的に同じ種でも、人間の意識は違う。とはいえ、人間は生まれつき殺し屋というわけでもあるまい。
では、何が人間をそうさせるのか。社会の集団性が、そうさせるのか。高度な文明が、そんな意識を覚醒させちまったのか。人間はパンドラの箱らしきものを次々に開けちまっているのか。人類は、破壊の種子なのか...

エーリッヒ・フロムは、精神解剖の過程で人間の本性に根ざした残酷性と攻撃性を論じて魅せる。彼は、過酷なナチスの時代を生きた。ユダヤ系ということもあり、思うところがあったのであろう。
本書は、悪性の情熱から、ナルシシズム、サディズム、マゾヒズムなどの性癖を探り、ネクロフィリアにまで至る。ネクロフィリアとは、死体に性愛感情を抱くこと。そして、人間の存在条件とは何か... 人間を人間たらしめるものとは何か... を問う。
尚、作田啓一、佐野哲郎訳版(紀伊国屋書店)を手の取る。

「人間の情熱は、人間を単なる物から英雄に、恐るべき不利な条件にもかかわらず人生の意味を悟ろうと努める存在に変貌させる。自らの創造者となって、自分の未完成の現状をある目的を持った状態に変貌させ、自らある程度の統合を獲得しうることを望む。」

人間が自らの主人であることは難しい。恐怖から逃れるためなら、人はなんでもやる。ドラッグ、性的興奮、集団化... そして、恐怖を襲撃に転化させ、攻撃は自由と結びつく。知能が高くなるにつれ、物事を柔軟に捉え、反射的な反応や本能的な考えが薄れていく。好奇心、模倣、記憶、想像力を合理的に利用し、環境により適合しようとする。自意識を強め、過去と未来、生と死について考え、精神的な抽象作用を働かせ、言葉を操って、道徳、倫理を考える。
人間を動機づける情熱は、愛、優しさ、連帯感、自由など、そして真理を求める努力に多くを傾ける。だが同時に、支配欲、破壊欲、自己愛、貪欲、野望などに心が奪われる。妄想ばかりか、宗教、神話、芸術を材料に...
個人の在り方を問うと耐え難い退屈感が襲い、集団の在り方を問うと耐え難い無力感が襲う。そして、疎外感に見舞われ、仕舞いには自己破壊へ。それは、認識能力を高めていく知的生命体の宿命であろうか...

人間は奴隷を求める。自分の思い通りになる存在を求め、自分の身代わりを求めてやまない。その対象が、人間であろうが、ペットであろうが、ロボットであろうが、それは文明人の特性か。
文明は階級をつくる。そこに秩序が生まれ、安定性が生まれる。これが社会の特性。同時に、階級は腐敗の温床となり、生まれ、家柄、言語、能力、名声、肩書、専門性など様々な優劣関係で不平等契約を強いる。これが社会の現実。
人間は、人の犠牲を強いてまで幸福を求める。都合が悪くなると人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにする。一旦、攻撃性を露わにすると、批評は批判へ、批判は誹謗中傷へ。連中は理性の皮をかぶり、知性を装って論争を仕掛ける。追い打ちをかけるようにマスメディアが餌をばらまき、これに大衆が喰いつく。
情報過剰や人口密集がもたらすストレスは計り知れない。理性も正義もストレス解消の手段に成り下がる。その反動かは知らんが、人間だけがいい加減な動機に誘われて破壊に快感を覚える。コロッセウムでは血臭い演出がなされ、グラディエーターも命がけ。闘犬や闘牛では物足りぬと見える。もはや古代ローマ方式の「目には目を...」という掟を破り、倍返しという理屈で過剰防衛に出ては、攻撃は最大の防御という理屈で無差別攻撃までも正当化する。

「献身の対象への要求には、神や愛や真理への献身によって... あるいは破壊的偶像の崇拝によって... 答えることができる。結びつきへの要求は愛とやさしさによって... あるいは依存、サディズム、マゾヒズム、破壊性によって... 答えることができる。統一と根を下ろすことへの要求には、連帯、同胞愛、愛、神秘的体験によって...、あるいは酔っぱらったり、麻薬にふけったり、人格を喪失することによって... 答えることができる。有能であろうとする要求には、愛や生産的な仕事によって... あるいはサディズムや破壊性によって... 答えることができる。刺激と興奮への要求はには、人間、自然、芸術、思想への生産的な関心によって... あるいは常に変化する快楽を貪欲に追求することによって... 答えることができる。」

権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を抹殺にかかる。この場合の愛し方は命令して従わせることで、権力欲や支配欲との結びつきが極めて強い。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特別に愛されることを望み、自ら思いのままになろうとする。そのために自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが極めて強い。

どんな残虐行為も、劣等人種、あるいは人間以下と見做さない限り、やれるものではあるまい。差別好きな人間は、必要な人間と不要な人間とで線引きする。古代都市国家スパルタでは、未熟児や奇形児が廃棄された。優生学との境界も微妙で、他族を劣等種族とみなすカルト教団もあれば、民族優越説を唱えて最終的解決に手を染めた国家もある。連中は歪曲した正義に取り憑かれ、異教徒や異民族の破壊を義務とし、使命を果たす。これは人間特有の性癖であろうか...
おいらだって子供の頃戦争ごっこをやったし、半世紀以上生きた今でも戦争映画を観ては過激な戦闘シーンにリアリズムを求める。人間は飽きっぽい。もっと刺激を求めてやまない。こんな性癖に絶対的な権力が結びつけば、ヒトラーやスターリンのようになっちまうのやもしれん。
となれば、悪の根源は、人間の集団性と権力の在り方ということになろうか。いや、まだ何か足りぬ...

「楽観主義とは疎外された形の信念であり、悲観主義とは疎外された形の絶望である。もし人間とその将来に対してほんとうに反応するなら、すなわち関心と責任を持って反応するなら、信念あるいは絶望によってしか反応できないはずである。合理的信念は合理的絶望と同様に、人間の生存に関連したあらゆる要因についての、最も完全で批判的な知識に基づいている。人間に対する合理的な信念の根拠は、救済の現実的可能性の存在である。合理的な絶望の根拠は、このような可能性が見られないという知識であろう。」

2025-08-24

"悲劇の死" George Steiner 著

悲劇の死... それはまさに悲劇!
作家たちは、なにゆえ悲劇を書くのか。自分の不幸を愛し、絶望感に浸る自我に酔い、自分の傷口を舐めるように書く。心の叫びを聞いてくれ!と。ただの寂しがり屋か。そんな芸当のできる人間は、あまり幸福ではあるまい。そもそも幸福な人間が、小説や戯曲などというものを書けはしまい。ものを書く人は、好意的な批評を前にした時でも、反抗的な態度をとりがちだという...
尚、喜志哲雄、蜂谷昭雄訳版(筑摩書房)を手に取る。

「文芸批評は厳格さだの証明だのとは無縁だと私は信じている。正直な文芸批評とは、強烈な個人的体験によって他人を納得させようとすることである。」

ジョージ・スタイナーは、オーストラリア系ユダヤ人の家に生まれ、あの過酷なナチスの時代を生きた。彼は、自らの体験から現代における三つの傾向を指摘する。
第一に、悲劇は本当に死んでしまったということ。
第二に、技術的形式の変化はあっても、悲劇の基本的な伝統は生き残っているということ。
第三に、悲劇は生き返るかもしれないということ...

「言語については、骨格のこわばりが明らかに見てとれると、私は思う。われわれの文化における言語的習慣の多くは、もはや現実に対する新鮮な反応や創造的な反応ではなく、様式化されたしぐさにすぎない。人間の知性は今なおそれを能率的にやってのけるが、それによって得られる新しい洞察や新しい感情という報酬は逓減する一方である。われわれの用いる言葉はすり切れて手垢のついたものに感じられるのだ。それはもはやもとの無垢さや啓示力を内に秘めていない。そしてわれわれの言葉は倦み疲れているから、ダンテやモンテーニュやシェイクスピアやルターがかつて言葉に担わせた新しい意味と複雑さという重荷に、もはやたえられそうもない。」

そもそも悲劇とは、なんであろう。こいつの定義となると、なかなか手ごわい。痛ましい結末や惨めな結末で締めくくれば、それだけで悲劇と言えるだろうか。涙を誘えば悲劇、笑いを誘えば喜劇といった単純化にも抵抗がある。理不尽な運命を強いられ、なんで?なんで?と無意味に問い続けるしかないとすれば、実に哀れだが、主人公が間抜けなだけという解釈もできよう。非業な死というのもあるが、運命論に身を委ねるのもどうであろう。裏切り、奸策、騙し討ち、裏工作などが繰り広げられれば、まさに滑稽芸!そんな中で苦悩し、絶望し、様々な人間模様を曝け出せば、まさに人間喜劇!拡大解釈すれば、ロマンスにも悲劇の要素がある。
こうして、悲劇は喜劇に上書きされていくのか。悲劇の概念が曖昧になると、喜劇の概念までも曖昧になる。悲劇の死は喜劇の死をも意味するのであろうか。いや、二項対立で捉えることもあるまい。悲劇的な要素と喜劇的な要素は十分に共存できるし、なにより人間性に根ざしている。そして作家たちは、そんな枠組みに囚われず、リアリズムへと傾倒していく...

「芸術作品があらゆる私的ヴィジョンをとり囲んでいる柵を越えることができるのは... 芸術作品が詩人の鏡を一つの窓となしうるのは... 芸術家が何らかの信仰や仕来たりの枠組を作品の受容者と共有している場合だけである。それは、私が神話と呼んで来たものが生きた力をもっている場合にだけ可能なのだ。」

悲劇を中世風に定義すると、「大いに栄えながら、高位より没落して逆境に入り、悲惨な最期を遂げる物語」となるらしい。ダンテは、「悲劇と喜劇は逆方向に進む。」としたとか。その理屈からすると、あの「神曲」を喜劇とした意図も頷ける。地獄から煉獄を経て天国へと昇天していくのだから。ダンテは皮肉屋か!
では、シェイクスピアはどうであろう。ハムレットの復讐劇に、マクベスの野望劇に、オセローの嫉妬劇に、リア王の狂乱劇とくれば、これらは本当に悲劇なのか。四大悲劇と呼ばれながら、その魅力はなんといっても道化が登場するところ。真理の語りは、この世から距離を置くものの言葉に重みがある。人間に語らせれば、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。

悲劇と呼ばれる偉大な作品は、悲しみと喜び、堕落していく悲哀と、そこから這い上がってくる歓喜とが、その結末において溶け合う。そのおかげで、鑑賞者は救われる。人間は老いてゆく運命にあり、実人生もまた悲劇に満ちている。
ならば、自ら滑稽に振る舞い、道化でも演じていないと、やってられんよ。苦難をも笑いにする奥義を会得できれば... こうして悲劇が克服できるとしたら、まさに悲劇の死!

2025-08-17

"脱領域の知性 - 文学言語革命論集" George Steiner 著

脱領域とは何か。どんな領域から脱しようというのか...
人間性からの脱皮か。理性からの逃避か。実存主義からの脱却か。価値や実体は仮想空間に追いやられ、存在の何もかもが曖昧になっていく。精神の存在ですら実感できずにいるのだ。
それでも人間は、自我との対決を強いられる。もっとも手強い相手に真っ向から立ち向かわねばならぬ。だが、人間にそんな度量はない。こんな無防備な状態で、頼れるものと言えばなんであろう。やはり言葉か...
今、コンピュータ科学の洗練度に反比例するかのように、人間の定義が曖昧になっていく。多くの人は、何かから脱したいと、おぼろげに考えているようだ。それは現代社会が、なんとなく息苦しいからか。ストレス社会で現代人を蝕むもの、その正体も見えず、ただもがく...

かの言語学者チョムスキーによれば、言語現象は人間独自のものらしい。それどころか、人間を規定するものとする言語学者も少なくない。文学や詩学に限らず、芸術、音楽、数学、科学、技術など、あらゆる学や術が言語や記号によって成り立っている。そして、その記述法は時代とともに変化していく。
今日、AI で持てはやされる「生成文法」の概念は、もともとチョムスキーに発する。ア・プリオリな能力として。つまり人間は、「言葉によって生成する」動物というわけである。
ジョージ・スタイナーは、チョムスキーの唱える言語能力の視点から、人間というものを問い直す。彼はチョムスキーに同意しておきながら、その言語学の束縛からも脱しようと...
尚、由良君美ほか訳版(河出書房新社)を手に取る。

言語現象は、文化や環境と深く結びつく。英語で思考すれば、そのプロセスは英語的となり、日本語で思考すれば、そのプロセスは日本語的となる。こうした思考プロセスに、第二言語や第三言語に触れる意義が生まれる。
確かに、人間は言語を用いて思考する。が、言語を超えた領域にも知がある。言語の限界で思考を試みる達人たちは、新たな造語を次々と編み出す。まったく人騒がせな。おいらは、ア・プリオリやらエントロピーやらといった用語をなんとなく感覚で捉えていても、自分の言葉でうまく説明できないでいる。言語現象で人間を規定できるというなら、言語運動のみで理性を保つことができそうなものだが、それも叶うまい...

印刷技術の発明が、人々の目線を移す。作者から書物へ。古代の歴史は写本の写本で受け継がれ、ルネサンス時代の芸術は模倣の模倣によって磨かれた。やがてラジオやテレビが影響力を持ち、さらにソーシャルメディアが猛威を振るう。そして、模倣から猿真似へ、猿真似から拡散へ。巷には、非人間的なメッセージに溢れ、広告の嵐が吹き荒れる。
かのマルクスは「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」と語った。コピーのコピーもまた冷笑たる喜劇か...

「いまや、われわれは深刻な変化の過程のなかにいる。時間と個のアイデンティティーの不安定な過渡的状態、自我と肉体的死亡の不安定な過渡的状態は、言語の権威と範囲とに影響を与えるだろう。もしもこれらの歴史的普遍概念が変化し、知覚の統語論的基礎が修正されるなら、伝達の諸構造もまた変化することになろう。変形のこのレベルから眺めるならば、議論百出の的であった電子メディアの役割云々など、ただの前駆症状であり先駆にすぎなかったものになるだろう。」

本書はまず、四つの作家論を通して、脱するに足る領域を見定める。それは、ウラジーミル・ナボコフ論に見る母国語からの脱却、サミュエル・ベケット論に見る荒涼たるモノローグに彩られたヴィジョンからの脱皮、ホルヘ・ルイス・ボルヘス論に見る鏡に映し出された自己閉塞感からの逃避、ルイ=フェルディナン・セリーヌ論に見る人種主義や民族主義からの解放、といったところ。
美化された母国語にしても、偏狭な世界観や価値観にしても、過剰な自己認識にしても、愛国心に憑かれた優越主義にしても、人間を屈折させるに充分。脱領域の精神は、多種多様な他の領域との接触に始まる。

次に、脱領域のための重要な知的活動に、音楽、数学、チェスの三つを挙げている。音楽は音素を操り、数学は記号を操り、チェスは論理を操り、これらの調和とハーモニーをもって知を高めるという。そして、バッハの風景に染まった対位法に、オイラーの純粋な多面体方程式に、チェス盤(個人的には将棋盤)の正方形に幽閉された世界に癒やされる。

また、人間というものを言語機能から紐解こうとすれば、文学論を避けるわけにはいくまい。アリストテレス風に詩学と文節の調和を論じ、プラトン風にメタファーの効能を語り、言語とアイデンティティの深い結びつきを探求し...
文学作品は思考の材料を与えてくれる。この新たな思考体験は文法と語彙に制約されるが、達人の言葉使いに刺激され、そこに名言や格言が生まれる。
だが、その逆もしかり。集団的暴力は言葉によって操られる。人が嘘をつくことができるのも、言語能力のおかげ。他の動物に嘘や偽りといった概念があるかは知らん。獲物を獲得するために周囲に身を隠す術も偽りの行為と言えば、そうかもしれんが...

さらに、言語革命を科学革命になぞらえる。ついに、科学によって言語学の領域から脱するか。しかしながら、科学は万能ではない。構造的な分析にしても、還元主義の堂々巡り。学問の越境が革命の突破口となるだろうか...

「科学革命とは、いわば移行運動を行なうようなものだ。甲という主要な知覚の扉・高い窓をあとにして、乙という扉や窓に、精神が向ってゆく。すると風景はまったくあらたな視界のなかに見え、いままでとは異なる光や影のもとで、あたらしい等高線と短縮法のなかに見えてくる。これまで顕著だった様相が、いまや第二義的なものに見えてくるというか、あるいは、いっそう包括的な形のなかの、ただの要素として認識されてくる。これまでは見落されてきたり、たまたまひとつに括られていた細部が、支配的な焦点をおびてくる。世界のグリッドが一変するわけなのだ...」

2025-08-10

"文芸批評論" T. S. Eliot 著

今宵、T.S.エリオットのアンソロジーに、してやられる...
批評論はありがたい。批評対象となる作品群が、そのまま目録となる。批評する価値もなければ、取り上げはしまい。ただ、原作と批評の間のギャップを埋めるのは、読者自身でしかない...

尚、本書には、「伝統と個人の才能」,「完全な批評家」,「批評の機能」,「批評の実験」,「批評の限界」,「宗教と文学」.「形而上詩人」,「アーノルドとペイター」,「パスカルの『パンセ』」,「ボドレール」の十篇が収録され、矢本貞幹訳版(岩波文庫)を手の取る。

エリオットは、どんな詩人も、どんな芸術家も、その人だけで完結した意義を持つ者はいないと主張する。過去の芸術家との間で対照し比較することは、ただ歴史的批評というだけでなく、美学的批評の原理であると...
偉大な芸術作品は、それだけで理想的な体系を整えているかに見える。だが、その完成度の高さにもかかわらず、解釈となると時代とともに変化していく。過去に批判された作品が現在では賞賛されることもあれば、その逆も...
偉大な芸術家たちは気の毒だ。ソーシャルメディアが旺盛となり、自己主張を強める現代人が優勢となるは必定。そして、いつまでも欠席裁判を強いられる...

「ある人は言った... 現代のわれわれは過去の作家たちよりもはるかに多くのことを知っている、だから過去の作家たちはわれわれから遠く離れたところにいる... まさにそうである。しかもわれわれの知っていることというのは、その過去の作家たちのことなのである。」

現在と過去の関係を断ち切ることは難しい。それは、人間の認識能力が記憶に頼っているから。現在は過去によって導かれ、過去もまた現在によって修正されていく。それは、秩序の問題でもあろう。文芸と批評の関係も、この原理に従う。
自分の制作に没頭できる者だけが、芸術家たりうる。となれば、芸術を批評する者もまた、そうした資質の持ち主なのであろう。文学を批評するには、文学的センスを持ち合わせていなければ...

「批評には限界があって、ある方向でそれを越えると、文芸批評が文学的でなくなり、また別の方向でそれを越えると、文芸批評が批評でなくなる。」

なにゆえ、人は批評を好むのか。自己確認か、自己強調か。いずれにせよ、自己の存在意識と深く関わる行為であることは確かなようである。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を知るには、他者との比較から試みるほかはない。
ただ、もう少し正確に言えば、人は批評よりも批判を好む。論争を好む。さらに揉め事を好む。おまけに人は、他人への攻撃を外野席から観覧するのを好む。遠近法ってやつは、芸術だけでなく、批評にも必要な視点のようである...

「文芸批評で理解ということばかり重んじていると、理解から単なる説明に滑り込む危険がある。その上、そんなことはあるはずもないのに批評をまるで科学のように扱う危険もある。また享受の方を重んじすぎると、主観的、印象的傾向に陥りやすく、享受は単なる娯楽や気晴らしぐらいにしかためにならないだろう。」

巷には、批評論や試論といった類いの書が溢れている。そのために作品に直接触れず、手っ取り早く解説書に走っちまう。大作となれば、尚更。それで要点だけを掻い摘んで批評するといった悪趣味も生じる。批評の多くは、解釈することを主とする。それで誤った解釈や解釈不能といったことも生じる。批評では様々な意見が錯綜しそうなものだが、伝統的に凝り固まった批評もある。そして、詩人の批評は散文に荒らされる。
詩人エリオットの憂いが、こんなところに... 彼は、過ぎ去った時代や世代を正しく評価することはできないという。批評という行為は実験的にならざるを得ないと。これに 付け加えて、人生すべて実験としておこう...

「われわれが人間である限り、われわれのすることは善か悪かのどちらかに違いない。また善か悪かをする限り、われわれは人間である。逆説的な言い方だが、何もしないよりは悪をした方がよい、少なくともわれわれはそうして生きているのだ。人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である。政治家から窃盗にいたるまでたいていの悪人について言えるいちばん悪いことは、この悪人たちが永劫の罪をうけられるだけの人間でないということだ。」

本書は、パスカルの「パンセ」にも触れているが、これほど批評の対象とされる書も少なかろう。神の存在や永遠の沈黙をめぐる議論は、ヴァレリーも参戦していた。文才という人種は、文才に釣られて何か言いたくなるものらしい...

「科学者と誠実な人間と、神を求める熱情を持った宗教的性質とが正しく結合したから、パスカルというユニークな存在ができたのである。パスカルはデカルトが失敗したところで成功している。デカルトには幾何学的精神の要素が多過ぎるからだ。この本の中でデカルトについてのべた少しばかりの言葉を見ると、パスカルは弱点を正しく指摘している。」

ボドレール論も、やや辛辣ながらなかなか。ボドレールは「未完成のダンテ」とも呼ばれているそうな。
ダンテを愛読する人の多くは、ボドレールも愛読するとか。
ここでは、「おくれてきたゲーテと言ったらもっと真実に近いだろう」と評される。

2025-08-03

"批評の解剖" Northrop Frye 著

「批評の...」と題しているが、批評一般ではなく、文芸批評が対象である。しかし、これは本当に批評論であろうか。批評の対象が文学作品であれば、批評の在り方も文学的、アリストテレスの詩学に発する詩学論の様相を呈す。

例えば、シェイクスピア、ミルトン、シェリーの三名を挙げれば... 技法と思想の深遠さで未熟という理由でシェリーを貶す。宗教的反啓蒙性と重苦しい教義が言葉の自然な流露を損なうという理由でミルトンを貶す。思想に無関心で人生の反映に終わっているという理由でシェイクスピアを貶す... かと思えば、完全な詩的ヴィジョンのためにシェイクスピアを褒める。深遠な信仰秘義の洞察でミルトンを褒める。より直接的に近代人の心に訴えるシェリーを褒める。

詩的な嗜好は、音楽の嗜好に似ている。なにゆえ人は、リズミカルな言葉を求めるのか。人間ってやつは、概してお調子者ってことか。人は、語呂、歯切れ、耳障りのよい文句を格言や座右の銘とする。
そして、文学的構想に浸り、言葉に物語を求める。この物語性こそ説得力の源泉。この伝統芸は、古代ソフィストたちの弁論術に発し、現代プレゼン技術に受け継がれる。そりゃ、大衆が単純明快なキャッチフレーズの乱立する劇場型政治に耽るのも無理はない...
尚、海老根宏、中村健二、出淵博、山内久明訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「批評における決定論の一覧表を作ることは容易であろう。マルクス主義、トマス主義、リベラル・ヒューマニズム、新古典主義、フロイト主義、ユング主義、実存主義、それらのいずれの立場にたつ批評であれ、すべて批判的ポーズをもって批評に代えるものであり、文学の中に批評の概念を見出すのではなく、批評を文学外の雑多な枠組みの一つにはめ込もうとする。しかしながら、批評の公理と前提はそれが扱う芸術から生まれてくるべきものである。」

ノースロップ・フライは、詩における三つの世界を提示する。一つは、芸術、美、情緒、趣味の世界。二つは、社会的行動と社会的事象の世界。三つは、個人の思想と観念の世界。これらの世界に応じて、人間は意志、感情、理性を働かせ、歴史、芸術、科学および哲学を構築していくという。伝統的な聖書解釈では、リテラル(逐字的)、寓喩的、道徳的、神秘的な意味が引き出され、これらに応じて詩の象徴を相で捉えている。アリストテレス風に形相の趣を帯びて...

  • 逐字相と記述相... 動機(モチーフ)としての象徴と記号(サイン)としての象徴。
  • 形式相... 心象(イメージ)としての象徴
  • 神話相... 原型(アーキタイプ)としての象徴
  • 神秘相... 単子(モナド)としての象徴

「『理想的不眠に悩む理想の読者(フィネガンズ・ウェイクより)』とジョイスは言った。つまり批評家のことである。創造と知識、芸術と科学、神話と概念、これらの間の失われた連鎖を回復しようとする仕事こそ、私が心に描く批評の姿である。」

詩は、暗黙裡に自由の理念を掲げる。だが、その理念を定式化することはできないという。そのような社会を建設することも不可能であると。
では、詩は単に理想郷を夢想する手段に過ぎないのか。少なくとも、現実を客観的に照らすための手段は必要であろう。その限りにおいて詩は輝く。現実だって夢の中にあるのやも。だから、神話も、喜劇も、悲劇も、ロマンスも、アイロニーも、風刺も... 社会の象徴として輝く。

「教養教育は、教育を受ける精神のみならず、文化的作品そのものを解放する。人間の芸術は腐敗の只中から作り出されるし、その要素は永久に芸術の中に残るであろう。しかし芸術の想像的要素が、まるで聖人の遺体のように、腐敗にもかかわらずそれを保存する。美を論ずる時には、孤立した作品の中の形式的諸関係だけでおしまいにするわけにはゆかない。芸術作品は社会的努力の到達点、つまり完全な無階級文明の理念に参与するものであること、このこともまた、考慮されねばならぬ。倫理批評は、この完全な文明の理念を暗黙のうちに倫理的基準として、つねにこの基準に訴えるものである。」

なにゆえ人間は批評を好むのか。特に、批判を... 自己存在の確認のためか。だから、こんな記事を書いているのやもしれん。そしておいらは、シェイクスピア論にイチコロよ...

「シェイクスピアの喜劇の筋の運びが、しばしばどこか不条理な、残酷な、あるいは非合理な法律ではじまっていることに気づく。『間違いの喜劇』のなかのシラクサ人を殺す法律、『夏の夜の夢』の強制的な結婚の法律、シャイロックの契約を確認する法律、人々を正しくするために法を制定しようとするアンジェロの試みなど、喜劇が進行するに従って、人々はこれらを巧みにすり抜けたり、無効にしたりする。契約とはふうう、主人公の社会がめぐらす謀議のことであり、証言とは、会話を盗み聴いたり、特殊な情報をもっているものたちなどで、喜劇的な発見をつくり出すための、いちばんありふれた技巧である。」

2025-07-27

"パーソナル・インフルエンス" Elihu Katz & Paul F. Lazarsfeld 著

社会学者ポール・ラザースフェルドは、コミュニケーションには二段の流れがあるという。そして、集団や個人の意思決定に関与するオピニオン・リーダーの存在を唱える。
ただ、原書の刊行は、1955年とある。既にこの時代に... これは、コミュニケーション研究を方向づけた記念碑的な書だそうな...
尚、竹内郁郎訳版(培風館)を手に取る。

「いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人びとに流れることが多い。」

ソーシャルメディアが勢いづく現在、個人への注目度が増し、インフルエンサーという用語が飛び交う。その道の専門家よりも洗練された情報や知識を伝える人も少なくないが、その一方でマスコミがマスゴミ化していく。戦時中、国民は洗脳されていたという評論を耳にする。だから、特攻のような無謀な戦術がまかり通り、侵略地で残虐行為が正当化された、と...
だが、それは本当だろうか?そして現在は?大本営は厄介な存在だが、大本営の乱立は、もっとタチが悪い。一本化していれば、欺瞞から逃れやすいものを。
そもそも人間社会において、まったく洗脳されていない時代ってあるのだろうか...

二段の流れ説は、情報源であるマスコミへの批判に対して、責任回避にも利用される。すべては自己責任で... と。そして、自己責任という用語まで、お前が悪い!という意味で使われる始末。
いまや、いいね!や星の数、あるいはクチコミやフォロワーが世論を煽り、所々にカリスマ師が湧いて出る。情報拡散は発信者自身ではなく、それを後押しする同調者たちが、いや、それ以上に反論者たちが、いやいや、理性の検閲官どもが... そして、あらゆるメディアで、コメンテータ排除論がくすぶる...

オピニオン・リーダーは、権限や制度が後ろ盾になった職務上のリーダーとは違い、インフォーマルな集団で発生するという。無秩序の中に秩序をもたらすとは、これぞ真のリーダー像か。彼らは、情報源となるメディアと情報消費者の間を媒介し、情報収集に重要な役割を担う。
しかしながら、その立ち位置は微妙で、世論の扇動者にもなりうる。それは、人の姿をしているとは限らない。商品や映画であったり、新聞やテレビであったり、書籍やネットであったり、様々な形に扮して仕掛けてくる。
ヤラセやサクラといった手口は古くから散見するが、情報過多の時代では、誇大広告のみならず虚偽広告やステルスマーケティングなど、手口はますます巧妙化していく。情報発信源ばかりか、オピニオン・リーダーの存在までもステルス化してりゃ、世話ない...

なにゆえ、人は情報に群がるのか。ただ知りたいだけか。それとも、情報を共有することによって自己の居場所でも求めているのか...
オピニオン・リーダーは、自分がリーダーであることを自覚している場合もあれば、無意識に行動している場合もあり、ある時は情報の発信源となり、ある時は着想の裁定者となり、ある時は思案の伝道師となる。
情報は言語や記号に形を変えてメッセージとなり、人は言葉に惑わされ、映像に惑わされる。言葉の暴力という形容もあるが、これほど力強いものはあるまい。小集団の中では合言葉や流行語が生まれ、帰属意識を高める。所有意識と相いまって。共感できる連中の中にいると居心地がよい。自己を意識すればするほど。人はみな、孤独ってやつが大の苦手と見える。
相互依存関係をもった人々は、相互に同調を要求するという。互いに類同性を維持しようと。類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。

2025-07-20

"メディアの法則" Marshall McLuhan & Eric McLuhan 著

メディアとは、なんであろう...
巷では、マス・メディアという用語が飛び交い、もっぱら、新聞やテレビの報道の在り方、あるいは、ネット上で荒れ狂う虚偽情報との葛藤といった大衆媒体としての側面から論じられる。
だが、マクルーハン親子が論じているのは。こうしたメディア論とは一線を画す。普遍的と言うべきか、本能的と言うべきか。アリストテレスの伝統に倣い、メディア詩学とするべきか...
尚、高山宏監修、中沢豊訳版(NTT出版)を手に取る。

「次の世代のための科学と芸術と教育の目標は、遺伝子コードの解読ではなく、知覚コードの解読でなければならない。グローバルな情報環境においては、『答えを見つける』式の古い教育パターンでは何の役にも立たない。人間は、電子のスピードで動き変化する答え、それも数百万という答えに囲まれている。生き残れるか、コントロールできるかは、正しい所にあって正しい方法で探査(プローブ)できるか、問いを発することができるかにかかっている。環境を構成する情報が絶え間なく流動しているのを前に必要なのは、固定した概念ではなく、かの書物『自然という書物』を読みとる古(いにしえ)よりの技(スキル)、未だ海図のない、海図が存在し得ない魔域行く航海術である。」

メディアの法則は、四つの素朴な質問で構成される。
  • それは何を強化し、強調するのか?
  • それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
  • それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
  • それは極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?

本書は、この四つの問い掛けにテトラッド・アナリシス(Tetrad Analysis)を仕掛ける。良き質問は良き思考へ導く... と言わんばかりに。
テトラッドとは、生物学で言う四分染色体のことで、四要素の相同組換えをしながら解析していく。つまり、遺伝子解析の手法を文体構造の解析に応用しようという試み。ここでは二次元平面上に、上下に「強化」対「回復」、左右に「反転」対「衰退」を配置し、上下左右の関連性を考察していく。
例えば、アリストテレスの因果性では、目的因、質料因、形相因、動力因を配置。他にも、絵画の遠近法、記号論、動的空間、冷蔵庫、ドラッグ、群衆... さらには、マズローの法則、キュビズム、コペルニクス的転回、ニュートンの運動法則、アインシュタインの時空相対性など数十以上もの事例が紹介される。

「コールリッジが、すべての人間はプラトン主義者かアリストテレス主義者のどちらかに生まれると言ったとき、彼はすべての人間は感覚の偏向において、聴覚的か視覚的かのどちらかであるということを言おうとしていたのである。」

「メディアはメッセージ」であるという...
あらゆる人工物が何らかのメッセージを発するとすれば、そこには必然的に言語構造が見て取れ、その構造やパターンを通して世界を観てゆく。人類は、メッセージを伝えるための多彩な技術を編み出してきた。詩も一つの技術。心に響くように修辞技法を乱用し、回りくどい隠喩を用いた日にゃ... 結局は言葉遊びか。その言葉遊びこそが人の意識を高める。ルイス・キャロル風に言語遊戯に励み、ライプニッツ風に普遍記号に狂い...

一方で、真剣な物言いが人を追い詰める。他人ばかりか自分自身をも...
言葉の暴力という形容もある。集団社会では言葉の伝染が猛威をふるう。ネット検索は能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思い込みがち。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同調している状態ほど都合のよいものはない。言語の発明が、人間をこんな風にしちまうのか。人類は本当に進化しているのか。人類は自然法則に反する存在になっちまったのか。神になろうとする野心家は、その反動で悪魔になっちまう...

「言語は、経験を蓄積するのみならず、経験をひとつの様式から別の様式に翻訳するという意味で隠喩である。通貨は技能と労働を蓄積するとともに、ひとつの技能を別な技能に翻訳するという意味で隠喩である。しかし、交換と翻訳の原理あるいは隠喩は、われわれの感覚のどれかを別な感覚へと翻訳する理性の力がこれを管掌するが、われわれはこれを一生のあらゆる瞬間にやっているのである。アルファベットであれ車輪であれコンピュータであれ、特別な技術的拡張物にともなう代償があって、それはこうした大規模な感覚拡張物は閉鎖系になるということである。」

2025-07-13

"グーテンベルクの銀河系" Marshall McLuhanl 著

グーテンベルクの銀河系... それは、活版印刷に始まったとさ。
発明者の名は、ヨハネス・グーテンベルク。著者マーシャル・マクルーハンは、この発明を境界に社会の大変革を物語る。活字人間の出現に、コピー世界の膨張に、そして、ルネサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学革命へと...
尚、森常治訳版(みすず書房)を手に取る。

歴史とは、言葉で編まれた閉じられた系とすることができよう。その記述が万民に広まると集団作用が働く。言語化は論理的思考を活性化させるが、その反面、言語量が増大すると集団意識を歪め、暴走を始める。詭弁が雄弁に語り、その語りに自我が飲み込まれ、沈黙の力までも押し潰していく...

「もし感覚器官が変るとしたら、知覚の対象も変るらしい。
 もし感覚器官が閉じるとしたら、その対象もまた閉じるらしい。」
... ウィリアム・ブレイク

活字はメディアを煽り、メディアは大衆を煽る。活版印刷の活用が拡張されると、言語統制が始まり、人々の世界観は固定化されていく。画一的な国民生活、中央集権主義、そして、ナショナリズムへ。だが同時に、個人主義や反体制意識を芽生えさせる。
そして、世界は二極化へ。人間ってやつは、なにかと善と悪で分裂させる二元論がお好きと見える。精神分裂病もまた、言語使用が招いた必然であろうか...

「言語は、経験を備蓄するのみならず、経験を一つの形式から他の形式へと翻訳するという意味でメタファーであるといえよう。貨幣も、技術と労働とを備蓄するだけでなく、一つの技術を他の技術へと翻訳するという点でやはりメタファーである。」

文字を発明すれば、それを刻む媒体を求めずにはいられない。活版印刷以前は、写本によって知識が伝授された。
だが、著名な図書館は焼かれてきた歴史がある。その代表格がアレクサンドリア図書館。ハインリッヒ・ハイネの警句が頭をよぎる。「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる。」と...

写本が機械的に複写できるようになれば、たった一箇所の知の宝庫が焼かれても、人類の叡智はどこかに残る可能性がある。さらに大量生産の時代を迎えると、知識は庶民に広がり、広大な知の宇宙が形成される。おかげで、電車で移動中に本が読める幸せにも浸れる。
そして現在、知識の電子化が進むと、情報の嵐が吹き荒れ、マーク・トウェインの皮肉が聞こえてくる。「真実が靴をはく間に、嘘は地球を半周する。」と...

人間の成長過程には基本的な行為がある。幼児の学習は、大人の行為を真似ることに始まる。本能と言うべきか。大人だって、技術や知識を身につけるために熟練者や達人から学ぶ。教師となるものは、なにも人間とは限らない。ハウツー本は、いつも大盛況。恋愛レシピから幸福術、人生攻略法まで...
感受性豊かな人間ともなると、哲学者が語る曖昧な言葉までも金言にしちまう。人間の認識能力が記憶のメカニズムに頼っている以上、人間は過去から学ぶほかはない。ダ・ヴィンチも、ラファエロも、ミケランジェロも、偉大な作品を写生することによって技術ばかりか、自ら精神を磨いた。もはや純粋な独創性なんてものは、幻想なのやもしれん。ましてや情報過多の時代では、健全な懐疑心を持つのも、啓発された利己心を保つのも難しい...

「弁証法は技術の技術であり、また科学の科学である。それはカリキュラムのあらゆる主題を貫く原則へ導く道である。なぜならば弁証法のみがほかのすべての技術の諸原則についての蓋然性を論ずるのであり、かくて弁証法はまずもって学ぶべき最初の学でなければならない。」
... ペトルス・ヒスパヌス「論理学要目」より

2025-07-06

"孤独な群衆(上/下)" David Riesman 著

世間で忌み嫌われる孤独。孤独死ともなれば、最悪の結末のような言われよう。しかしながら、集団の中にこそ孤独がある。
人間の性格には誰でも、ナルシス的な側面もあれば、独善的な側面もある。結局は、自己存在に対する意識の持ちよう。こうした性格をいかに克服するか。しかも、自問の過程で...
芸術の創造性は、たった一人のひたむきな情熱によって生み出されてきた。寂しささを知らなければ、詩人にもなれまい。満たされた人間には、悲痛感慨な文体を編むこともできまい。

人間ってやつは、何かに依存し、影響し合わなければ生きてはゆけない。たいていの人は社会福祉制度にたかり、属す集団を頼みとし、集団意識に縋って生きている。
アリストテレスは、人間をポリス的な動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的というだけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含むのであろう。だが、実際は依存意識がすこぶる強い。ならば、何に依存して生きてゆくか...
ディヴィッド・リースマンは、「自律性」を強調する。うん~... これが最も厄介な代物。孤独を克服できれば、孤独死ですら理想的な死となるやもしれん...
尚、 加藤秀俊訳版(みすず書房)を手に取る。

「人間の敵たりうるのは人間だけである。人間の行為や生活の意味を奪うことのできるのは、かれじしんだけなのだ。なぜなら、その意味の存在を確認し、自由という現実の事実として、それを認識できるのは、かれだけだからである。」
... シモーヌ・ド・ボーヴォワール

リースマンは、人間の性格を大まかに「内部指向型」「他人指向型」に分類し、この二つの型に社会を特徴づける三つのタイプ「適応型、アノミー型、自律型」を絡めながら論ずる。
内部指向型の人間は、自分自身を人間以外の対象物との関係において考えるという。組織の中で、人との協力関係よりも、技術的、かつ知的なプロセスとして捉える傾向がある。
対して、他人指向型の人間は、仕事や組織を人との関係において考えるという。自我にはっきりとした核を持っていない。だから、自我からも逃避することができない。
世間体を気にする傾向が強いのは、他人指向型であろう。自律性においては、内部指向型の方が優位にも見える。だが、自己優越感は内部指向型の方が強く、客観的な視点から発する謙虚さでも優位とは言えない。

内部指向型は、農村部の伝統指向とも相性がいいらしい。頑固オヤジといった形容も当てはまりそうな。他人からの批判を恐れ、自己批判によって自己防衛する傾向もある。
他人指向型は、情報過多な大都市部に多いタイプだという。情報に敏感なのは、流行遅れを恐れてのことか。評判やカリスマ性に群がり、個人の思考が一本化して集約される傾向にある。人気投票的な消費行動を旺盛にし、ベストセラーに群がる傾向あり...

結局、自律を目指すのに、どちらの型が優位ということではなく、己を知るという問題を抱えたまま。そして、適応と自律を欠けばアノミーへ。自己を見失い、自己を破滅させるのは、型の問題ではなさそうだ...

「個人主義とは、ふたつのタイプの社会組織のあいだの過渡的な段階である。」
... W. I. タマス

また、本書に散りばめられる挑発的で皮肉じみた用語が目に付く。とりあえず、「内幕情報屋」「メッセージの卸し問屋」「まやかしの人格化」といったところを拾っておこう。
昔から蔓延る道徳屋は、内部指向型の傾向が強く、ネット社会でも理性の管理者となり、誹謗中傷で凶暴化する。
対して、内幕情報屋は、他人指向型の傾向が強いという。要人との人間関係から内部情報に詳しいだけで済む場合と、あわよくば間接的に要人を動かして社会を支配しようとする。そうした人間は、その種のサークルを作るという。記者クラブもその類いか。情報理論によると、メッセージにはノイズが交じることになっているが、現代風に「マスゴミ」という形容も当てはまる。
但し、超一流の扇動者は、けして嘘をつかない。些細なニュースを大袈裟に持ち上げ、重要なニュースをささやかに報じる。これが、世論を扇動できる報道原理か...

とはいえ、真実が必ずしも真実らしく見えるとは限らない。嘘の方が真実っぽく見えることも多々ある。現代社会では、真実っぽく見せる技術が重宝される。言葉を商品とすれば、コミュニケーション産業の小売業者となり、言葉を武器とすれば、特殊工作部隊の最前線を行く。
ネット検索ともなると能動的な活動だけに、自分の意志で考えていると思いがち。だが、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
では、マスコミを扇動しているのは誰か?広告屋か?それとも他に黒幕が?それこそ群衆自身なのやもしれん...

「現在にあっては人と同調しないこと、慣習の前にひざを屈しないことはそれ自体、ひとつの奉仕である。」
... J. S. ミル

2025-06-29

"物の体系 - 記号の消費" Jean Baudrillard 著

消費とは...
それは、物にかかわるだけの行動ではないという。豊かさを示す現象学でもないと...
では、なんであろう。ジャン・ボードリヤールは、すべてに意味作用を与える行動として定義する。人間の物への意識は、物的存在から記号的存在へ。流行や広告、あるいは社会的規範や慣習もその類い。消費への意識が記号へ向かえば、消費に限りがないことの説明もつく。
彼は、現代人の物への意識がイデオロギー的体系、あるいは、ある種の信仰として働いていることを指摘し、これにマルクス風の疎外論を絡めて論じて魅せる。そして、こう主張する。「消費される物になるためには、物は記号にならなければならない。」と...
尚、宇波彰訳版(法政大学出版局)を手に取る。

貧困層ですら日常生活にスマホが欠かせないとなれば、物は豊かさの基準とはならない。産業のすべてがサービス業化し、消費対象のすべてが、ガジェット化、アクセサリ化していく。現代社会では、物質エネルギーよりも情報エネルギーの方がはるがに強いと見える。
もはや人類は、AI に代表されるような機械の奴隷になることを恐れている場合ではあるまい。すでに物の奴隷に成り下がっていりゃ、世話ない。消費が抑えがたいのは、何かの欠如に依存していからであろうか...

「消費は今や多かれ少なかれ整合的な言説として構成されている。すべての物・メッセージの潜在的な全体である。消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。」

人間の存在意識には、雰囲気の論理や居場所の論理が働く。本来、物といえば、機能性や操作性に注目するのであろうが、それ以上に浮遊的な何かに意識が向く。仮想的実体とでも言おうか。精神や魂と呼ばれるものが浮遊霊じみた存在だから、それが自然なのやもしれん...

「もしも現代の偽善が、自然の猥褻さを隠すものではないとすれば、それは記号の無害な自然性で満足すること、もしくは満足しようと努めることである。」

物を提供する側は、クレジットによる欲望戦略を煽り、毎日が購買のお祭り騒ぎ、購入者の所有意識を麻痺させる。
物を享受する側も負けじと、シリーズものやセット販売に群がり、その理由づけは様々... 時にはナルシス的に、時にはノスタルジックに、時にはコンプレックスを刺激し、あるいは収集癖に酔いしれて、自己に言い訳をしながら生きている。
消費は、物にかかわろうとするだけでなく、集団社会とかかわろうとする積極的な活動でもある。いや、後者の方がはるかに本質的か。こうした集団行動が、文化の基礎を成していることも確か。
そして、物のあり方を通して、自己のあり方を確認する。それで、自己に価値を見い出せない時の失望感ときたら。あとは、存在論的な弁証法にでも縋るさ...

「人間はつねに自分自身に嫉妬する。人間が守り、監視しているのは自己であり、自己を享受しているのである。」

2025-06-22

"消費社会の神話と構造" Jean Baudrillard 著

産業革命によってもたらされた生産社会。これに触発されて出現した消費社会。おかげで、人々の生活は豊かになった。
だが、事の発端は古代に遡る。貨幣の発明によって生み出された交換社会。おかげで、交換の対象となるものすべてに価値が見い出され、揉め事も命の代償までも貨幣で精算されるようになった。こうした価値の合理化は、人間どもをより利便性の高い代替物へと走らせ、仮想的な価値を肥大化させていく。仮想化社会の到来である。仮想化とは、愚像化の類いか。
そもそも精神ってやつが、ふわふわした得たいの知れない存在で、同類項というわけか。そりゃ、精神に支配された知的生命体が仮想価値に群がるのも無理もない。
おまけに、人よりも所有した気分になり、優越感にも浸り、生産過剰でも、消費過剰でも、なお満たされない。それで誇大妄想を膨らませてりゃ、世話ない...

ジャン・ボードリヤールは、提言する。
人間の消費という意識が、単に物に向かうだけでなく、集団社会における能動的様式であることを。それは、文化の上に成り立つ体系的活動であり、包括的反応であることを...
尚、今村仁司、塚原史訳版(紀伊国屋書店)を手に取る。

「消費はひとつの神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、われわれの社会が自らを語る語り口、それが消費だ。」

現代社会には大量のモノと情報が氾濫し、主役を演じるは広告塔と報道屋。これを影で操る者が社会を牛耳る。影とは誰か。集団的な意志がそう仕向けているのか。つまり、意志なき意志が...
集団性が悪魔じみているのは、悪魔が実際に存在することではなく、そう信じ込ませることにある。消費社会での主な消費は、必然的な消費ではなく、ステータスとしての消費。かつて貴族階級の特権だった見栄や外聞の類いが大衆化すると、人々は流行に乗り遅れまいと強迫観念に取り憑かれる。貧困で喘いでいる人々ですらスマホなどの電子機器が必需品とされ、人とのつながりを強制された挙げ句に息苦しくなる。自由意志なんてものは、もはや幻想か...

無論ジャーナリストや広告業者ばかりを悪者にはできない。誰の言葉だったか、大衆は欺瞞することが容易なのではなく、騙されることを喜ぶ!ってのは本当らしい。お茶の間という安全地帯で、ジャーナリズムが悲壮感を煽る殺人、戦争、細菌感染などの不幸事を映画のように鑑賞する。これが人間の性(さが)か...

豊かな社会と言いながら、なにゆえ自殺が減らない。幸福であることが当たり前!いや、幸福でなければならない!そう思い込むことで自己を追い詰める。多くのモノは場違いに存在するために、その豊富さが逆に欠乏を感じさせる。消費社会の大きな代償は、消費活動そのものに蔓延する不安感ということか。これも、マルクスの言う疎外の類いか。
消費の熱狂の渦で、常に前のめりの姿勢を崩さない経済学者と理想を掲げてやまない福祉論者の狼狽ぶりは、いつの時代も教訓となろう...

「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。モノの使用はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造させる価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなる...」

2025-06-15

"les objets singuliers - 建築と哲学" Jean Baudrillard & Jean Nouvel 著

のどかな春風に誘われ、アンティークな古本屋を散歩していると、哲学者と建築家がなにやら談義を始めた様子。春風駘蕩たるとは、こういうのを言うのであろうか...

哲学とは、真理を探求する学問、いわば理想を求める世界。建築とは、現実に照らした技術、いわば妥協を生きる世界。互いに相い容れぬ世界にも見える。が、哲学のない技術は危険である。
哲学者ジャン・ボードリヤールは、建築家ジャン・ヌーヴェルに問い掛ける。「建築にとって真実は存在するだろうか...」と。それが不毛な問答であったとしても、大切なのは問い続けること。そして両者は、美学において共通項を見いだすのであった。創造の美学に、破壊の美学に、普遍の美学に、消滅の美学に...
尚、塚原史訳版(鹿島出版会)を手に取る。

「対話を無からはじめるわけにはいかない。というのも、論理的には、無とはむしろ到達点であろうから...」
... ジャン・ボードリヤール

近代化は、生産社会をはじめ、何もかもラディカルに進展させてきた。建築界も例に漏れず。この流れに反発するかのように、近代からの脱却を目指すポストモダニズムとが錯綜する。だが、真にラディカルなのは、無であるという。空白こそが...

建築は、それを彩る空間をともなって、はじめて成り立つ。いかにして空間を組織し、その空間を満たすか。数学的に言えば、充填問題とすることもできよう。真の空白から、すなわち、無から有を成す... これを考える機会に恵まれることこそが建築の醍醐味というものか。
それは、水平方向や垂直方向といった幾何学的な問題だけではない。自然空間や精神空間に及ぶ随伴の問題でもある。建築の創造物は、単独では存在できない。その意味で自由はない。建築家も、芸術家のような自由はない。建築基準法を無視するわけにはいかないし、様々な様式に制約されるのだから...

実際、そこにポツリと出現しては、景観を損なうオブジェが乱立する。不整合でアンバランスな存在として。歴史的な街並みや伝統的な様式から外れ、それ自体は肯定も否定もせず、ただそこに立ち並び、もはや異物!
その有り様を本書は「特異性」と表現する。それは、芸術的な独創性とは違うという。では、数学的な特異点のようなものか。生物学的な突然変異のようなものか...

大衆化の危険は、建築ばかりか、広範な文化に及ぶ。誰でも出来の悪い文章は書ける。この点でテキスト化は危険な行為となる。建築家だって大袈裟な装飾を施しては、自らの幻想に耽っているケースも少なくない。それは、自己陶酔ってやつか。
この幻想はバーチャルとは違うらしい。バーチャルは、むしろハイバーリアリティで、心理空間の可視化だという。物質的なフォルムに位置づけるだけでなく、非物質的なものを介して感知できるような空間認識を呼び覚ますことこそ、建築の真髄というものか...

「解放は、自由とはおなじものではあり得ない。... 解放されて、実現された自由を生きていると信じたとき、それは罠にすぎない。目の前には、可能性の実現という幻想があるだけだ...」

一方で、特異性に反発するかのような現象がある。オブジェはオリジナル性を失い、複製に次ぐ複製のオンパレード。モデルハウスも、その類い。建築ばかりか、あらゆる文化が記号化され、高度なデータ処理によってクローン化されていく。もはや、幻想を見いだすことすらできない。建築家が意図するオブジェが、自らを成り立たせる空間だけでなく、周辺をも巻き沿いにしていく...

「運命の皮肉だろうか、あなたの喜ぶ表現によれば、宿命的なもののアイロニーだろうか、私は東京湾の対岸数キロの海面だけによって隔てられた場所に、向かい合うようにして、非物質化された巨大タワーを建設することになった。このビルから、私は地平線に私の格子の配置と、数学的で人為的な私の日没を観るだろう!」
... ジャン・ヌーヴェル

2025-06-08

"バッハ - 神はわが王なり" Paul du Bouchet 著

バッハに目覚める...
そう思えるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたりであろうか。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ... 目覚めも悪くなる。
ルター派教義のエヴァンゲリストが音符で福音を刻めば、聖トマス教会の高くて広々とした天井空間が威光を放ち、臨場感あふれる音響効果を演出する。卓越した知性が、神との対話の場を求めるのか。対位法とは、神との対話術であったか...
尚、高野優訳、樋口隆一監修版(創元社)を手に取る。

「神の言葉を除けば、ただ音楽だけが称賛されるに値する。... 悲しみに沈む者を慰める時、喜びに溢れる者を恐れさせる時、絶望した人々に勇気を与え、高慢な人々を打ち砕く時、恋人たちの気持ちを静め、憎みあう者たちの心をやわらげる時... 音楽以上に効果を発揮するものがあろうか...」
... マルティン・ルター「音楽礼賛」より

宗教音楽といえば、通常、教会で定められた規則に従い、典礼で演奏される音楽のことを言うのであろう。しかし、バッハの宗教音楽は違う。そんな枠組みを超越した何かがある。神と語り合うのに、神聖も世俗もあるまい。
但し、神の声を聞くには、資格がいるらしい...

「聖と俗の飽くなき共存。バッハの音楽の魅力の根源は、まさにこの矛盾にあるのかも知れない。」
... 樋口隆一

時は、西洋音楽界がイタリアオペラを中心とした時代、ルネサンス音楽からバロック音楽へ...
バロックといえば、建築や彫刻の世界で、複雑で矛盾に満ちた人間の情念を総合的に表現しようとして生まれた様式。建築物では曲線を多用し、過剰とも思える装飾を施す。
こうした傾向が音楽の世界にも波及し、当時、音楽後進国だったドイツにおいて、情熱的なイタリア様式と合理的なフランス様式とを統合する形で花開く。
バッハは、この潮流に乗って、ポリフォニーの伝統を集大成した。しかしながら、当時の聴衆は、かなり困惑した様子。カルチャーショックか!
飾りっ気が多く、複雑な構造に、技巧過剰、主声部がどこにあるのかも分からない... といった批判に晒される。
バッハの性格は、宗教書を読み耽る深い精神の中にあり、人々と温和に接するも、こと音楽となると妥協を許さず、あたり構わず怒りを爆発させる側面があったという。斬新な手法を見せつければ、音楽家の中にも敵が多い。
だとしても、演奏家には珍しく、教育家としても優れた資質を持ち、鍵盤楽器の運指法を伝授する。21世紀ともなれば、YouTube などで実演が観覧できるものの、理想的な指運びが困難を克服できるかという問題は、いつの時代にもまとわりつく。
そして、バッハに還れ!と標語めいたものが、未だに語り継がれる。

「ベートヴェンのソナタは新約聖書である。そして、バッハの平均律クラヴィーア曲集は旧約聖書である。」
... 指揮者ハンス・フォン・ビューロー

バッハが綴る音符配列に、数学の法則を見る...
協和音と不協和音の融合に多声部が複雑に絡み合うという、一見矛盾した構造が調和に満ちたポリフォニーを奏でる。作品には長調と短調が入り乱れ、進行形と反行形が共存しながら、ときおり鏡像のごとく回転し、音符列を長く拡大するかと思えば、音符列を短く縮小して魅せ... まるでユークリッド幾何学。こうした図形操作に、カノンからフーガに至る流れを観る。
そして、シェーンベルクが体系化した十二音技法を巧みに操り、独創的な平均律を編み出す。平均律クラヴィーア曲集には、バッハ自身がこのような表題を付したという...

「平均律クラヴィーア曲集。すなわち、長 3 度(ド、レ、ミ)と短 3 度(レ、ミ、ファ)をともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ。学習を望むすべての若い音楽家に、そしてすでに熟練した技術を持つ音楽家の楽しみのために...」

2025-06-01

"マタイ受難曲" 礒山雅 著

クラシック音楽に目覚めたのは、小学生の頃であったか。ドヴォルザークに始まり、ベートーヴェンに、チャイコフスキーに、モーツァルトに、ショパンに嵌った記憶がかすかに蘇る。
しかしながら、バッハとなると、ずっと敬遠してきたところがある。宗教色があまりに強く、そればかりか、ラブシーンまがいの台詞を延々と聴かされた日にゃ...
ヤツは、ルター派教義のエヴァンゲリストか。音符で綴る福音主義者か。説教臭が漂ってやがる。
それでも、バッハに癒やされるようになったのは、三十代半ばを過ぎたあたり。巨匠が奏でる音空間には、音楽を超えた何かがある。信仰を超越した何かがある。卓越した知性が神との対話へと誘ない、救済を超えた何かが...
本書は、マタイ福音書の受難物語を通して、バッハが思い描いたであろう情景を物語ってくれる。

「深沈とした管楽曲の前奏。17小節目から満を持したように湧き上がる悲痛な合唱... マタイ受難曲といえば誰でも、このすばらしい開曲のことを想起せずにはいられないだろう。この冒頭がわれわれのマタイに対するイメージを規定しているのも、理由のないことではない。なぜならマタイ受難曲の開曲は、それまでの受難曲にほとんど前例のないほど大胆なものだから...」

大合唱が終わると、福音書記者が口を開く...
時は、ユダヤ教の大祭、過越祭の二日前、イエスは受難を預言する。信仰厚い女が香油を注ぐ。香油は涙となり、受難曲は懺悔と悔悛へと流れゆく。人間は、罪を背負う定めにあるのか...
十二人の弟子の中に裏切り者が...
ユダの密告。過越の聖なる食事が、最後の晩餐に。パンとぶどう酒は、キリストの身体と血に還元される。晩餐の後の讃美歌、続いてオリーブ山での弟子たちとの語りをコラールで綴る。ゲッセマネの園では、受難を前にしたイエスの深い人間的苦悩を歌う。苦悩の原因はわれわれ自身の中に...

「第10番目のヘ短調は、温和で落ち着いていると同時に、深く重苦しく、なにかしら絶望と関係があるような死ぬほどの心の不安をあらわすように思える。加えてこの調には、並外れて人の心を動かす力がある。ヘ短調は、暗く救いようのないメランコリーをみごとに表現し、ときおり、聴き手に恐怖心や戦慄を感じさせる...」

ついにナザレのイエス、群衆に捕らわる。ユダよ!あなたは接吻で人を裏切るのか...
大祭司邸での審問では、沈黙するイエスにツバを吐きかけ、顔面を殴り。おまけに、ペトロの否認!イエス?そんな人は知らぬ。だが、主を否認したことを悔いる。涙は傷ついた心の血!
そして、イエスの死刑宣告。ペトロの嘆きに憐れみのアリアを歌い、ユダの自殺に憐れみのアリアが続く...
悔い改め、懺悔すれば、すべてチャラ!これがキリスト教の教えか。そして、復活を見据えずにはいられない。

イエスはというと...
他人を助けて自分自身が救えないとなれば、その無力さが死に値するというのか。いや、穢れた人間社会から解放され、自由の身になれたのやもしれぬ。血まみれた十字架を前に、己の愚かさを思い知る人間ども。日蝕まがいの闇があたりを覆う。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです...

「主の怒りは燃え上がり、大地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。... 本当にこの方は、神の子だったのだ。」

愛とはなにか。周知のものでありながら、疑いなく実感できるものでありながら、その真なるものを知らぬ。自己を愛せぬ者に他人を愛せるのか。他人を愛せぬ者に自己を愛せるのか。自己を知らねば、盲目であり続けるほかはない。永遠に...
人間ってやつは、己の身体を墓とし、己の心で墓標を刻む、そんな存在なのやもしれん。ここに、INRI を掲げた十字架像とともに受難曲の完成を見る...

"IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM"
(ナザレのイエス、ユダヤ人の王)

2025-05-25

"統辞構造論" Noam Chomsky 著

言語学の革命と称される生成文法理論の誕生は、「統辞構造論」という一冊の小冊子によって告げられたという。それは、当時流行していた二つの理論の限界を示しつつ、これらに論理構造という視点を加味する形で展開されるとか...
尚、本書には「言語理論の論理構造 序論」も併録され、福井直樹、辻子美保子訳版(岩波文庫)を手に取る。

二つの理論とは、初歩的な生成文法としての形態音素論と、有限状態マルコフ過程に基づく形式文法である。そこには、「変換」という概念からのアプローチが披露され、語句の置換や代入、挿入や削除といった操作は、まるで代数学!
ノーム・チョムスキーの視点は、ソシュールの構造主義を踏襲しているのだろうか。言語システムを一つの集合体として捉え、それが有機体のごとくうごめくような。言語の運用と能力、そしてなによりも、その慣習に人間の姿を投射して魅せる。
あるいは、句構造のツリー分解、再帰的特性や巡回、語彙羅列や文脈依存、同義性と多義性、音素的弁別性と意味特性の結びつきなどの考察は、哲学と数理論理学の融合を思わせる。言語学は、いや、あらゆる学は、自然科学であるべし!と告げるかのように...

おそらく、自然言語には普遍法則なるものが存在するのだろう。文法構造には、完全に規定できる変換法則なるものがあるのだろうか。例外を認めれば、それに近いものはあるだろう。生得的に学習できる何かがが。帰納的に組み込まれた何かが...
言語には、数学で言うところの不完全性の問題を孕んでいるものの、各国語の文法は、VO型、SOV型、VSO型などで規定され、英語で言うところの WH 疑問文のような雛形もある。
そして、意味を与えることなく文法を与えることはできるのか、という疑問がわく...

元々、言語システムには変化の余地が組み込まれている。
語句や文体の使われ方は時代とともに変化し、誤用の方が庶民の圧倒的支持を得れば、それが主流となる。文法の正当性を組織化することは、国語辞典や文法事典などでは心もとない。この変化の余地は、言語が精神の投射装置として機能している以上、避けられまい。そもそも精神ってやつの実体が完全に解明できない限り、言語もまた完全な体系として説明することはできまい。そして、それは人類にとっての永遠のテーマの一つとなろう。己を知るというテーマとして...
こうした状況を尻目に、小説家たちは新たな表現様式を次々と編み出してくる。言語の競争原理としての表現のテクニックや派生のおかげで、言葉が豊かになるのも確か。これこそが言語の本質やもしれん...

そして、本書とは関係ないが、あるフレーズが頭に浮かぶ...

「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...

2025-05-18

WinScreeny との戯れ!ジャンクコマンドに癒やされる...

気分転換に、WinScreeny...
それは、Cygwin 版 ScreenFetch といったところ。そう、unix 系でお馴染みのアスキーアートだ。CLI 環境が手放せずにいるネアンデルタール人の憩いの場!
人生とは、無駄をいかに楽しむか!ということであろうか。それで、無駄も無駄ではなくなるような...

さて、こいつの良いところは、なんといっても bash で書かれていること。おかげで、いかようにもカスタマイズできる。つまり、Cygwin である必要もないのだ。これぞ自由感!
我が環境では、二つほど warning が出力されるが、コードを見れば一目瞭然!勉強にもなって、ありがたや!ありがたや!
尚、GitHub からダウンロードできる。


 1. 出力は、こんな感じ...
● WinScreeny for Cygwin

#! /bin/bash
screeny
figlet -w 110 -f slant -c "CYGWIN x64"



● ScreenFetch for Roccky Linux(参考まで)

#! /bin/bash
screenfetch-dev
figlet -w 110 -f slant -c "Rock Linux 9"



2. 押さえておきたいワザは、二つ...
● 一つは、変数 "display" で宣言した項目数でループをかけて、detect*() 関数をアクティブ化。

  ...
#display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font )
display=( Host Cpu OS Arch Shell Motherboard HDD Memory Uptime Resolution DE WM WMTheme Font GPU Kernel )
  ...

detectHost () { ... }
detectCpu () { ... }
  ...
detectGPU () { ... }
detectKernel () { ... }
  ...

# Loops :>
for i in "${display[@]}"; do
  [[ "${display[*]}" =~ "$i" ]] && detect${i}
done
  ...
尚、GPU と Kernel を追加してカスタマイズ。

● 二つは、文字色と背景色をエスケープシーケンスのカラーコードで抽象化。

  ...
f=3 b=4
for j in f b; do
  for i in {0..7}; do
    printf -v $j$i %b "\e[${!j}${i}m"
  done
done
  ...

cat << EOF
    ...
  ${f1}OS: ${f3}${os} ${arch}
  ${f1}CPU: ${f3}${cpu}
    ...
EOF

# ---- 文字色変数 $f* ----
# $f0 =>  "\e[30m  :Black
# $f1 =>  "\e[31m  :Red
# $f2 =>  "\e[32m  :Green
# $f3 =>  "\e[33m  :Yellow
# $f4 =>  "\e[34m  :Blue
# $f5 =>  "\e[35m  :Magenta
# $f6 =>  "\e[36m  :Cyan
# $f7 =>  "\e[37m  :White

# ---- 背景色変数 $b* ----
# $b0 =>  "\e[40m  :Black
# $b1 =>  "\e[41m  :Red
# $b2 =>  "\e[42m  :Green
# $b3 =>  "\e[43m  :Yellow
# $b4 =>  "\e[44m  :Blue
# $b5 =>  "\e[45m  :Magenta
# $b6 =>  "\e[46m  :Cyan
# $b7 =>  "\e[47m  :White
尚、printf 文は、-v オプションで変数に直接代入できるんだぁ...

2025-05-11

xdotool との戯れ!Window ID の取得で、ちと悩むものの...

起動位置やウィンドウサイズを記憶してくれないアプリケーションがある。
gnome-terminal のように、--geometry オプションが使えるとありがたいが、できないアプリケーションもある。すべてのウィンドウ配置をコマンドラインで制御したいというのは、いまだ awk や sed が手放せずにいるネアンデルタール人の感覚か... 

ちなみに、nautilus や mutter では、痒いところに手が届かない。
ウィンドウのサイズは、nautilus から...
$ dconf-editor
org/gnome/nautilus/window-state に "initial-size" があり、自動で変化する模様。
ウィンドウの起動位置は、mutter から...
$ dconf-editor
org/gnome/mutter に "center-new-windows" の on/off しか見当たらない。

0. てなわけで、xdotool を試す...

$ sudo dnf install xdotool

尚、環境は...
OS: Rock Linux 9.5 (Blue Onyx)
Kernel: 5.14.0-503.38.1.el9_5.x86_64
Gnome Version: 40.4.0
Gnome 環境: スタンダード(X11ディスプレイサーバー)

1. 手順は、こんな感じ...
  1. Window ID を取得: xdotool search --name(or --class) "ウィンドウ名"
  2. Window ID を指定して移動: xdotool windowmove "Window ID" X Y
Window ID さえ取得できれば、なんとかなりそう...

2. 例えば、chrome では、素直にうまくいく。
$ xdotool search --neme chrome
39845892
$ xdotool windowmove 39845892 100 200

3. しかし例えば、baobab「ディスク使用量アナライザ」では、うまくいかない。
尚、baobab は、ウィンドウサイズは記憶してくれるが、起動位置は記憶してくれない。
$ xdotool search --name baobab
33554433
$ xdotool windowmove 33554433 100 200
これで反応なし!
xwininfo で確認すると、Window ID の取得に問題あり...

そして、こうやると、うまく取得できる。
$ xdotool selectwindow
=> 対象ウィンドウをクリック!
33554680
これは、xwininfo の取得値(16 進表記)と同じ。

さらに、こうやると、二つの値が得られる。
$ xdotool search --class baobab
33554433
33554680
欲しいのは、下の ID...

そして、こうやると、ビンゴ!
$ xdotool search --onlyvisible --class baobab
33554680
尚、"--class" を "--classname" としても結果は同じだが、違いは微妙か...

4. 結果、コードはこんな感じ... とりあえず、めでたし!めでたし!
#! /bin/bash
baobab /home/username &
sleep 1s
window_id=$(xdotool search --onlyvisible --class baobab)
xdotool windowmove $window_id 100 200

2025-05-04

セントからロッキーへ鞍替え!いや、本家回帰か...

ショッキングな CentOS 終了宣告で CentOS Stream 9 に乗り換え、一年が過ぎた。安定感はまあまあ...
騒ぐほどのことでもなかったかなぁ... と同じ感覚で Stream 10 へアップデートすると、なんじゃこりゃ!GUI の不安定感は、Fedora 並み!?
リモートで使う分には問題なさそう。いや、怪しいかも?せっかくのマルチモニタ環境が... サーバ系とは、そういうものなのかなぁ... メジャーバージョンのアップデートがトラウマになりそう!
うん~、こんなことで愚痴ってるようでは... 

ここは思い切って、Rocky Linux 9.5 へ鞍替え!コミュニティにはお世話になってきたし...
今、Fedora から CentOS へ鞍替えした頃の感覚が蘇る。CentOS の名に不安定感は似合わない。やはり、こちらが本家か!
うん~、こんなことが精神安定剤になろうとは...

ネアンデルタール人は、時代の流れに翻弄されるばかり...
人生とは、寄り道、脇き道、回り道... いずれも奥深い道!などと自らに言い訳しながら生きる道。この道を楽しめぬようでは、まだまだ...

2025-04-27

"最適性理論" Alan Prince & Paul Smolensky 著

「最適性理論」とは、1993年、アラン・プリンスとポール・スモレンスキーによって提唱された言語学の理論だそうな。それは、「人間言語の普遍性をすべての言語に共通の制約の集合によってとらえ、言語間の差異を制約の優先順位の違いとして説明する理論」だという。
本書は、この理論の創始者による著作で、言語システムに集合論的な視点を与えてくれる。そして、もっぱら音韻論と形態論に関心を向け、人間の発する音素の配列から音節の合理性を探求し、人間言語の普遍性なるものを解き明かそうとする。
尚、深澤はるか訳板(岩波書店)を手に取る。

カントールやラッセルらによって構築された集合論は、等号 "=" の概念を抽象化してきた。伝統的な等式の定義は、両辺を同じ数学的対象とし、相互に変換可能とすることで、純粋数学の根幹である証明の原理を支えている。
一方、集合論は要素の順序を問わない。そればかりか要素自体の値を問わず、同型写像として見なすこともでき、対応関係が成立すれば、なんでもあり!
等号の概念が曖昧になっていくと、コンピュータによる証明も曖昧になっていく。もともと数学的な構造を持つコンピュータが、数学を根本的に特徴づける抽象性をどこまで許容できるか...

副題には「生成文法における制約相互作用」とあり、生成 AI にも通ずるものがある。音調やリズムをともなって依存関係を強める音素もあれば、意味や構文をともなって依存関係を強める語句もある。この依存性が、制約相互作用というものであろうか。
音空間は精神空間に大きな影響を与える。詩も、音楽も、ソノリティの在り方に発する。普遍言語なるものが存在するとしたら、そこには音律をともなうらしい。
語り手と聞き手の間に暗黙のルールのようなものがなければ、情報伝達は成立しない。情報工学で言うところのプロトコルが、それだ。自然言語の世界では、そのようなルールはどういう形で生じるのであろうか。それは、人間の DNA に組み込まれているのであろうか。母音と子音の配列に、DNA 配列を見る思い。

人間が話す言葉を、音素の順列や配列として捉えれば、数学的に関数で記述することもできる。例えば、最適性理論における文法構造を、このような形式で記述して見せる。

  (a) Gen(Ink) → {Out1, Out2, ...}
  (b) H-eval(Outi, 1 ≤ i ≤ ∞) → Outreal
  
Gen 関数は、普遍文法の固定部分で生成源を表す。ここに原子的要素と、要素間の関係性が記述される。
H-eval 関数は、要素の相対的な調和度を評価し、これら要素に優先順序をつける。
要するに、原初的な人間原則から発する要素を抽出し、これら要素間の調和性を分析することになろうか。言語の原子的な要素群を、一つの集合体、いや、一つの有機体と見なし、この群を数学的に最適化するような... 最適性理論をある種の群論とするのは、ちと大袈裟であろうか...

まず、人間の発する周波数は、口腔の物理構造に制約される。これに口の動きの自然さ、発音の流れのしやすさなどが加わり、さらに聴覚に与える音調の優しさ、親しみやすさといった感覚までも加わる。
それで、音素の組合せや順序が規定できるのかは知らんが、少なくとも、不快な音列は詩には使えない。
しかも、人間の聴覚は進化し、時代によって音の感じ方も変化していく。こうした音調、音韻、音律に、感情や意味が結びつき、文法を形成していく。あるいは逆に、文法から音律が生じることも。言語システムを論じる上での記法は、アルファベットや五十音のような文字記号よりも、本書でも多用される発音記号の方が重要なのやもしれん...

さらに、CV 理論の考察から一つの理想像を提示し、これに多様性を加味して普遍則なるものを見い出そうとする。CV 理論は、音節の周縁となる子音(C)と音節の頂点となる母音(V)という二項型に分類していく解析法で、音節の合理性を問う鍵となるようだ。
そして、子音と母音との間、あるいは、頭子音と末子音との間の規則的な現象や例外的な現象を概観していく。
ただ、どんな規則にも、例外はつきもの。音節に限らず、ある語が接辞とセットになっているパターンも多く、複合語や合成語、あるいは慣用句や格言といった形で制約されることもある。例外にも、普遍則のようなものがあるのだろうか。いや、言語現象に限らず人間が携わるあらゆる現象には、常にイレギュラーなパターンが生じる。となれば、例外こそが普遍則であろうか。これを多様性というのかは知らんが...
ちなみに、プログラミング言語には、常に例外処理がつきまとう...

2025-04-20

"生成文法" 渡辺明 著

言語学といえば、意味や構文、音声や語彙といったものの特徴や性質を探求する学問。一般的には国語や文学の類型とされるのであろう。
だが、ここでは科学する眼を要請してくる。人文科学という用語もあるが、人間が人間自身を知るには欠かせない視点。言語とは、本来そうしたものやもしれん...

人間の言語能力は計り知れない。生まれ出た赤ん坊が環境に応じて徐々に母国語を会得しく様は、生得的な能力であろうか。DNA には、そのようなプロセスが初めから組み込まれているのだろうか。カントは、時間と空間のみをア・プリオリな認識能力とした。言語能力にもそれに匹敵するような原始的なものを感じる。
しかし、そんな純真な能力も、立派な大人になると、第二言語、第三言語... と学ぶのが難しくなっていく。高収入を得るため、社会的地位を得るため、あるいは、見栄えをよくするため、などと欲望が脂ぎってくると、そうなっちまうのか...

さて、本書は言語学の研究動向を、「原理とパラメータ」のアプローチから「統語演算」のメカニズムを通して、初学者向けに物語ってくれる。そして、「生成文法」の成り行きを眺めていると、句集合が有機体のごとくうごめいて見える。生成 AI にも通ずるような...

1. 生成文法とは、なんぞや...
それは、文法的な構造理論とでもしておこうか。チョムスキーに発するこの学術的動向は、人類共通の普遍文法の解明を目標にするという。
人間の言語能力を、言語の形式的特性を扱う能力と定義し、その形式的特性を司るのか文法ってやつ。文法は、意味と音声を結びつけるシステムとして機能し、音声も、意味も、単独で形式的特性を有し、それぞれ文法の一部を成す。この両者をつなぐ中核の部分を「統合演算」と言うそうな。
統合演算は、意味解釈を与える単語の並べ方、すなわち、どうすれば文法的な表現、あるいは非文法的な表現となるかを決定するシステムとして機能するという。要するに、語彙の順列、組合せの問題か。論理演算風に... 

2. 原理とパラメータとは、なんぞや...
原理は、人類共通の言語能力を土台とした法則的なもの。パラメータは、語彙や音韻など選択できる知識や経験値といったもの。こうした視点は、コンピュータのプログラミング構造を彷彿させる。
プログラム言語の文法は、順次処理、条件分岐、反復処理でだいたい説明がつく。そこで重要となる要素は、これらの処理にひっかけるデータだ。データという概念も抽象的でなかなか手ごわいのだけど...
原理とパラメータの関係は、このようなプログラムの処理とデータの関係にも類似している。組合せに用いるパラメータは、基本的には二者択一の形をとり、パラメータが n 個あれば、可能な文法システムは 2n パターン存在することに。こうした見方は、シャノンが提示した 2 を底とする対数で記述される情報理論の定理に通ずるものがある。

3. 統語演算とは、なんぞや...
それは、主として「句構造(phrase structure)」「変形(transformation)」のメカニズムから成り立つという。
句構造は、名詞句、動詞句、形容詞句などの集合体として存在し、これをツリー構造で図式化する様は、まるでデータの階層構造。
変形は、例えば、英語の疑問文では語順を入れ替えればいいし、日本語では、文の頭から疑問を思わせたり、否定を匂わせる構造がある。例えば、「誰も返事をしなかった」という表現は、「誰も返事をした」とは言わない。それでも、「誰もが返事をした」というように、「が」が挿入されるだけで事情は変わってくる。句構造は、こうした変形を通じて、語の間に支配関係や依存関係が生じる。
さらに、名詞句の代わりに文を埋め込めば、入れ子構造となり、無限の再帰構造にもできる。ネストが深くなれば、人間にとって分かりにくく複雑な文となるが、人工知能が理解する分には問題あるまい。

4. C-Command 条件とは、なんぞや...
一般的には、文の構造上の関係を「C-Command 条件」というもので定義できるという。その事例を、否定極性表現の認可条件といった形で紹介してくれる。データベースのスキーマ風に。
C-Command 条件は、代名詞が何を指しているかといった場合に効力を発揮するという。例えば、「太郎は自分自身を責めた」というような再帰代名詞で。
また、ツリー構造の中に、名詞、動詞、形容詞、前置詞などをひっくるめて横棒で図式化する事例を紹介してくれる。こうした句構造の一般化を「Xバー理論」というそうな...

2025-04-13

"音声科学原論" 藤村靖 著

言語学には、言語の主な形は音声で、テキストは副次的な現象とする見方があるらしい。だが、過去は言い伝えだけでなく、記述で多くが語られてきた。歴史は、記述で刻まれてこそ碑文となる。
一方で、アリストテレスは、人間をポリス的動物と定義した。ポリス的とは、単に社会的という意味だけでなく、互いに善く生きるための共同体といった意味を含む。共同体を成すには、コミュニケーションとしての話し手と聞き手の関係が自然に営まれる。音声を介して...

記述と音声は、対照的な物理現象を成す。記述は言語記号の配列として離散的に存在し、音声は音波現象として連続的に存在する。とはいえ、その境界は微妙。記述は、発声をともなってリズムを奏で、楽譜のような役割を担うことも。
さらに音声は、口と喉の物理構造に依存し、唇や舌の調音運動を通して、声道という管楽器を演じる。双方の物理現象では、無にも意味を与える。口は災いの元と言うが、静かな物言いが説得力を発揮し、沈黙でさえも何かを語る。あのナザレの御仁が示してくれたように...
記述では、空白さえも何かを物語り、行間が読めなければ、書き手の意図も汲み取れない。多種多様な表現上のテクニックを尻目に、無にこそ無限の意味を与え、無限の解釈や無限の意図へといざなう...

さて、本書は音響工学の視点から、振幅と位相、音波の多重性と重ね合わせ、共鳴といった物理現象を通して、音声というものを物語ってくれる。
まず、発話者の心理的、生理的な性質から、音韻情報に含まれる、疑問、怒り、賞賛といった感情との結びつきに触れる。
次に、空気を動力とするアクチュエータを模した機械学的な観点から、母音と子音のスペクトル、フーリエの定理、フォルマント構造、インパルス応答、シラブル三角形といった電気工学的な見方を提示する。
音波の周波数スペクトルを追えば、フーリエ解析やフォルマント周波数といった観点が重要となる。インパルス応答は、線形システムでは有用な概念で、スピーカやデジタルフィルタの設計に欠かせない。シラブルは、自然に発音できる最小単位を言うらしい。

「音声の本質は単に静的な状態の連結という、いわゆる区分的な形で充分に捉えられるものではなく、動き、あるいは時間的変化が重要である。特に子音の性質を論ずるためには、動的な現象を充分に理解する必要がある。オェーマンは 1967 年に発表した論文で、母音の流れに乗った子音動作の局所的な擾乱という考え方を提唱して、観測された調音運動を定量的に説明することを試みた。後述の C/D モデルも、この流れを汲む考え方で、母音と子音とを基本的に別種の特性として記述するところにその特徴の一つがある。」

そして、C/D モデル(変換/分配モデル: Converter/Distributer model)という音声の実装モデルを紹介してくれる。それは、ある種の計算機モデルの様相を呈す。音声はコミュニケーション手段として大きな役割を担うが、情報理論の観点から伝達の効率性というものがある。言葉の交換を論じれば、できるだけ冗長性を省こうとする。
ただ、人間にとっての合理性には、物理的合理性と精神的合理性がある。舌、唇、口蓋、下顎をニュートン力学で論じれば、調音運動を動的な時間関数として記述できるが、音韻の波長や強度は、ストレスや高揚といった精神状態にも大きく左右される。精神の安住に配慮すれば、音声にもある程度のノイズが必要なのやもしれん。人生にも無駄ってやつが...

2025-04-06

"アブダクション" 米盛裕二 著

論理的思考の様式には、一般的に演繹法と帰納法の二つがある。
論理学者で科学哲学者のチャールズ・パースは、これに続く第三の思考法が存在することを提唱した。それが、"Abduction" ってやつだ。
邦訳では「仮説形成法」や「仮説的推論」といった語が当てられるそうだが、今では、そのまま「アブダクション」という用語が定着している。
また、パースは、しばしば "Retroduction" という用語を併用したという。邦訳すると「遡及推論」。つまり、「リトロダクション」とは、結果から原因へ遡及する推論を意味する。

こうした思考法は、記号学に基づいているらしい。記号とは何であろう。とりあえず、なんらかの意味合いを表す表現体とでもしておこうか。
人間の論理思考は、本質的に記号処理過程に発するという。それは、複雑で多様な世界を認識するためのプロセスであり、言語記号の優れた特性は、曖昧かつ不明瞭なものまでも把握でき、不明確で不確実な状況に応じて判断を下すために機能する。曖昧だからこそ思考は広がる。不明確だからこそ熟慮しようとする。

本書は、推論法を分析的推論と拡張的推論に分類し、演繹を前者に、帰納とアブダクションを後者に位置づけている。拡張性において、アブダクションを帰納より上としながら。アブダクションは、科学的発見や創造的思考において最も重要な役割を果たすという。仮説的推論法こそ、真理に近づく第一歩というわけか。かのニュートン卿は仮説を嫌ったと伝えられるが、仮説そのものを嫌ったというより、仮説を表明することを嫌ったのであろう...

「現実の人間の思考においては、諸概念の意味は類比やモデルやメタファーなどによって絶えず修正され拡張されているのであり、前提から結論にいたる合理的ステップは通常は非論証的で、つまり帰納的、仮説的、類推的思惟によって行われている。」

論理的思考の王道といえば、おそらく演繹法であろう。それは三段論法といったシンプルな手続きに見て取れる。だが、演繹的思考は問題そのものを生まない。いや、行き詰まった時に問題が生まれると言うべきか。
対して、帰納的思考は問題から始まる。それ故、より現実に沿った思考が展開できる。なにしろ現実世界は、問題だらけなのだから。しかも未解決のまま...

アブダクションは、さらに抽象度を深め、まったく無関係と思われる領域にまで視野を広げる。帰納の正当性は、自己修正的な思惟において示される。すべての思考が演繹できれば、人類の進化も覚束なかったであろう。
哲学の鬼門は、なんといっても矛盾である。これを無理やり解決して魅せるのが、弁証法ってやつだ。いや、解決した気分にさせてくれる。精神を獲得しちまった人間にとった気分は重要だ。存在意識を安定させ、自我を安泰せしめるのだから...

推論には、厳密な推論もあれば、厳密でない推論もある。論理学者は前者を相手取るが、人間精神は後者に意味を与えようとする。心理的にも、生理的にも。
そして、論理的思考は、心との調和を求めながら、矛盾との折り合いにおいて発展してきた。それは、妥協でもある。自己修正こそ進化の指針となろう...

「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す... 帰納は規則を推論する。さて、規則の信念は習慣である。習慣がわれわれのうちに作用している規則であることは明らかである。したがって帰納は習慣形式の生理学的過程を表す論理式である... 仮説は心を統一し開放する情態的性質を生み出し、帰納は規則や習慣を形成する過程を表す。」

2025-04-01

異次元めぐり... 俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ!

今日、四月一日、次元を巡る...
巷では、異次元... 次元が違う... といった言い回しを耳にする。甚だしくレベルが違う、あるいは、桁が違う、といった意味である。

次元とは、摩訶不思議な概念だ!
人間の認識能力は、「三次元空間 + 時間」で構成される。時間という次元が、なかなかのクセ者。この次元だけが一方向性に幽閉され、巷では「時間の矢」などと呼称される。
そして、覆水盆に返らず!、後悔、先に立たず!、さらに、喰っちまったラーメンは胃袋の中!といった格言が、いつまでも廃れずにいる。人生とは、後の祭りよ!

時間とは、まったくエントロピーな奴だ!
人間の知識は、常にエントロピーな状況にある。熱力学の第二法則は告げる。物事の乱雑さは、増大する方向にあると...
知識ってやつは、度量の範疇で身に付ける分にはすこぶる心地良い存在だが、精神次元を超えた途端に厄介な存在となる。精神次元を安定させるには、暗黙で了解することも必要だ。つまりは、気分の問題よ。幸せになりたけりゃ、分かった気になること。何事も解釈することはできても、理解することはできないと認めつつ。このことを受け入れられれば、楽になれる。

空間は次元に呪われている...
次元の増加にともない、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増える。
例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、それ以上の次元となると、すぐに行き詰まる。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたり...

安定次元を辿ると、キス数によって決まる次元数というものもある。同時に何人とキスできるか?尤も、球体が同時に何個くっつくことができるか、という幾何学の充填問題である。二次元であれば、真ん中の円に 6 個の円がくっついて、キス数は 6 となる。平面では正六角形の格子点で安定するわけだ。三次元になるとなかなか難しい。12 個まではくっつくが、13 個目となると微妙に摩り替わる。接する相手が安定することはエネルギー的には自由度を示すことになるが、気分的にはキスの相手が摩り替わるのも悪くない。相手が固定されると不自由でかなわんよ...

さらに、異次元を辿ると、次元大介だ!
早撃ち 0.3 秒のプロフェッショナル。その境界条件は、帽子がゾウアザラシのオス四歳の腹の皮製でなければならないこと。

「おまえの銃は俺の銃より軽く、口径が小さい。つまり、俺とおまえの弾がぶつかれば、弾道変化が少ないのは俺の方だ。おまえがどれだけ軽い銃を使おうが知ったこっちゃないが、俺に言わせりや、ロマンに欠けるなぁ!」
...「次元大介の墓標」より

おまけ!異次元の会話を...

「女に裏切られたことがあるの?」 
「裏切らない女がいたらお目にかかりたいなぁ...」 
「アメリカに何がある?」
「自由があるわ!」
「金のあるヤツにはなぁ...」
「ジャズ、ロック、ミュージカル、ディスコ、ファッション、アメリカにはなんでもあるわ!」
「それに、ギャング、セックス、麻薬、暴力、暗殺、核兵器、なんだってあるさ!」
... ルパン三世「国境は別れの顔」より

2025-03-23

"アナロジー思考" 細谷功 著

発想を生む原動力に、二つの要素があるという。一つは、多様な経験や知識を持つこと。二つは、それらを対象とするものに結びつけること...

一芸に秀でた者が、多芸でも秀でたところを見せつけることがある。他ではつぶしの利かない狭小な専門家、いわゆる専門バカになってしまう人を尻目に、どの領域でもうまくこなしてしまう。両者を分けるのが、二つの目要素「結びつける力」だという。
一つの道を極めれば、その領域での経験や知識は半端ではない。そればかりか、一つ一つを具体的な知識で終わらせず抽象化した形で血肉と為し、完結した一つの世界を作り上げる。雑学博士で終わるかどうかは、二つ目の要素にかかっているというわけか。
すべての動機は、自分自身の関心事にできるかどうか。まずは、肩の力を抜いて...

アナロジー思考とは、類推性に発する用語で、別の分野からアイデアを拝借して問題解決の糸口とするといった思考プロセスのこと。アリアドネの糸のごとく。
例えば、他業界で成功しているコンセプトがヒントとなって、新たな事業を生み出すことがある。そこに至るには、様々な視点から課題や仮説を設定し、思考を巡らすことに。それには複雑な事象に潜む本質的な構造を見抜き、それを応用する力を必要とする。経験や知識が対象から遠くにあればあるほど、その関連性に気づくことが難しくなり、より抽象化した洞察力が求められる。その距離感こそ、アナロジー思考の肝というわけか。

「アナロジー」の語源を辿れば、比例を意味するギリシア語の「アナロギア」に発する。ちなみに、アナログも同じ語源。比例というといまいちピンとこないが、線形的な対比や同一性と捉えれば、類推メカニズムにも通ずる。
アナロジー思考は、論理的な推論ではないという。つまり、演繹法でも、帰納法でもないと。
科学哲学者チャールズ・パースは、演繹、帰納に続く第三の推論法として、「アブダクション」という思考法の存在を認めたという。しかも、科学的な発見に最も役立つと。邦訳すると、仮説的推論や仮説的発想となる。

発想力を促すには、まず心に遊びが欲しい。そこで、物事を結びつける手段の一つとして、言葉遊びがある。メタファーや謎掛けも、その類い。詭弁も紙一重か。アナロジー思考に長けた人は、案外ダジャレ好きやもしれん。
実際、難問に直面した時、偉人たちが遺してくれた名言に救われる。抽象度が高い言葉だけに、格言や金言となって説得力を持つばかりか、心の支えとなる。その抽象度の根底にあるのが哲学だ。

さらに、抽象度の高い学問といえば、数学。数学は、あらゆる学問の道具となり、科学法則から経済現象や社会統計に至るまで、コンピュータプログラムのごとく記述して魅せる。精神空間も幾何学で記述し、音響空間の中で癒やされる。アナロジー思考を促すには、空間認識の抽象化と具現化、あるいは理論と実践の調和をもって...
ちなみに、数学は哲学である... とういのが、おいらの持論である。

「抽象には問題を解決する力があるが、問題を生む力はない。これに対し具象には数学そのものを生み出す力がある。具象は難問を創造し、しばしば自分で作り出した困難にぶつかって立ち往生することがあるが、それ自体がまた新たな創造の契機である。」
... 高瀬正仁「数学における抽象化とな何か」より

人間のあらゆる思考が、真似事に始まるのは本当だろう。それは、子供の行動を観察すれば分かる。親を真似、先生を真似、友達を真似、活字や映像を真似ながら物事を学んでいく。
芸術の世界では若き日に、一流の画家が名画の模写を繰り返し、一流の音楽家が名曲の楽譜をなぞり、一流の作家が名文の虜になり、やがて独自の世界を覚醒させていく。
学問の世界でも、違う分野からアイデアを拝借するといった事例は枚挙にいとまがない。カルノーサイクルが滝の水にヒントを得、原子モデルが惑星軌道から発想を得、電磁気学が流体力学との類似性から発展し...
そして、バネの挙動を表す運動方程式と電気回路の微分方程式の類似性を改めて示されると、なんとも愉快!

 m  d2
 dts 
 + c  dx 
 dt 
 + kx = F
 L  d2
 dts 
 + R  dQ 
 dt 
 +   Q 
 C 
 = E

 x: 変位 → Q: 電荷
 F: 外力 → E: 電圧
 k: バネ定数 → 1/C: コンデンサの容量
 m: 質量 → L: コイルのインダクタンス
 c: 減衰定数 → R: 抵抗

2025-03-16

"アイデンティティと言語学習" Bonny Norton 著

言語には、自己の縄張り意識が如実に顕れる。言葉が違えば、よそ者扱い。ちょいと訛りがあるだけで、ちょいと流行り言葉を知らないだけで...
言葉の嵐が荒れ狂うソーシャルメディアの世界では、みんなでごっこ!沈黙ですら言葉を発し、忖度ごっこ!
デジタル交流が、しばしば自発的な自己形成を阻み、乱雑する自己同一性の中で自我を埋没させていく。人間の意識には、ほかならぬ自分であるという確信が必要だ。言語は、その証明ツールとなり、しばしばアイデンティティを代弁する...
尚、中山亜紀子、福永淳、米本和弘訳版(明石書店)を手に取る。

「言語とは社会的な組織の実際の形態や可能な形態、そして、それらの社会的、政治的な帰着が定義され、異論が唱えられる場である。そのうえでまた、自分自身が誰なのか、私たちの主体性が構築される場でもある。」

ボニー・ノートンは、 ジェンダー、人権、階級、民族、移民、権力などで周縁化される社会において、第二言語学習の在り方を論じて魅せる。いまや世界言語に位置づけられる英語。これを第二言語として学ぶ必要に迫られるのは非英語圏の人々である。高い動機を持ち、恥や外聞を捨て、言語特性に内包される曖昧さを受け入れ、しかも、あまり不安を感じない人が、積極的に言語に触れる機会を見い出す。
だが、それだけだろうか。機会平等なんてものは、ただの標語か。人には、どうしても避けられない境遇や、逆らえない運命めいたものがある。コミュニケーションするために言語を学ぶと同時に、言語を学ぶためにコミュニケーションする。この矛盾が、人間特有の差別社会で起きており、自由であるはずの学問さえも不平等を強いられる。

言語を習得するとは、その言語圏の文化を学び、世界観を学ぶこと。外国に行けば、その国の言語が簡単に会得できるわけでもない。学習者は物事を母国語のスキーマで捉えがちで、特に日本人は英語の習得が深刻な問題となる。英語圏の人々とは価値観も、宗教も、民族的な多様性とも相い反するところがあり、思考回路も真逆なことが多い。

おもてなし!が日本人特有の文化としながら、本音ではよそ者に冷いところもある。
例えば、介護の現場では、人手不足にもかかわらず外国からの人々を拒絶。日本語が上手くできないと資格すら与えない。痴呆症の老人相手に流暢な日本語が本当に必要なのか...
訪問介護の見学ルートにもなっていた我が家は、フィリピンやマレーシアからやって来た研修生たちに救われたものだ。日本語が口から出ない時は英語なり、母国語なり、独り言でも、愚痴でも遠慮なく発してください!と、こちらも片言英語で応える。駅前留学までしておきながら、日常会話の相手がいなければ元の木阿弥。何語であろうと、介護の場では片言の言葉が笑いを誘う...

母語の発話者は、言葉が相手に聞き取りやすいように配慮する。言葉のハンディを意識して。だからといって人間性でハンディを背負っているわけではない。第二言語を学ぶことで、海外の人々と接することで、アイデンティティが再構築されていく...

「言語はコミュニケーションの一形態、もしくは、ルール、語彙、意味からなるシステム以上のものである。言語は、人々が、他者との対話や関係の中で、意味を構築し、定義し、それをめぐって闘う社会的実践の能動的媒体である。言語はより大きな構造的文脈の中に存在するため、この実践は、部分的には、個人と個人の間に存在する継続的な力関係の中に位置づけられ、形づくられる。」

言語の習得には、教師がいて、生徒がいる、といった関係を超えたシステムが必要であろう。口は災いの元というが、沈黙が隠れ蓑となることも。精神とやらを獲得した知的生命体には、なんらかの防御シールドが必要だ。
本書で紹介されるダイアリースタディの体験談はなかなか。書くことは、自己分析にも役立つ。但し、書くことは、反抗心を助長したり、服従心を植え付けたりもする。御用心!

「書くことは、発言をとらえ、捕まえて、離さないでおく一つの方法です。だから私は、会話の断片をひとつひとつ書き留めました。触りすぎて破れてしまった安い日記帳に思いを打ち明けて、私の哀しみの激しさ、発言の苦悩を表現して。それは、私が、いつも間違ったことを言ってしまったり、間違った質問をしてしまったから。私は自分の発言を本当に必要なことや私の人生で大切なことだけにとどめておくことはできなかったのです。」

言語の習得は、なにも人とのコミュニケーションのためだけではない。語彙を広げるのは自分を知るため、より的確に自己を語りたいがため。だから自己投資する。
言語学習に人間を相手にする必要はない。今では、AI が... 大昔から、人間はそうやって生きてきた。いつも代替物を追い求め、奴隷やペットがその役割を担ってきた。この寂しがり屋め!

人間ってやつは、どこかのグループに属していないと不安でしょうがない。家族、組織、共同体、国家...
なんでも繋がろうとする社会では、孤独に救われることが多い。理想的な死は、むしろ孤独死にあるのやもしれん。無縁墓の方が賑やかそうだし。孤独愛好家が増殖する社会では、孤独も一つの帰属グループとなり、独学には必要な要素やもしれん...

「多言語環境での社会的行為者は、コミュニケーション能力以上のものを作動させており、それがお互いの正確で、効果的で、適切な意思疎通を可能にしている。また、社会的行為者は、さまざまな言語コードやこれら言語コードの多様な空間的、時間的な共振を使いこなすのに、特に鋭敏な能力を発揮しているようだ。私たちはこの能力を『象徴的能力』と呼ぶ。」

2025-03-09

"美術史の基礎概念" Heinrich Wölfflin 著

「美術史の基礎概念」と題しておきながら、16 世紀の盛期ルネサンスと 17 世紀のバロックに対象が絞られる。この時代を注視すれば、近代美術の様式基盤がだいたい網羅できるというわけか...
尚、海津忠雄訳版(慶応義塾大学出版会)を手に取る。

美術の様式は個人の裁量にとどまらず、流派、地域、民族、時代など様々な角度から見て取れる。人間ってやつは、それだけ環境に影響されやすい動物だということだ。独自性や自立性を主張したところで詮無きこと。
ハインリヒ・ヴェルフリンは、美術様式の発展過程を五つの対概念で定式化して魅せる。線的から絵画的へ、平面的から深奥的へ、閉じられた形式から開かれた形式へ(構築的から非構築的へ)、多数的統一性から単一統一性へ、絶対的明瞭性から相対的明瞭性へ(無条件の明瞭性から条件付き明瞭性へ)... と。
いずれの概念も、従来様式の殻を破るかのように発展してきた様子が伺える。美術とは、まさに自由精神の体現!美術史に人間の情念遷移図を見る想い。芸術論とは、普遍的な人間学に属すのものなのであろう...

「人は常に自分が見たいように見ているのだとしても、このことはあらゆる変遷の中で一つの法則が作用している可能性を排除しない。この法則を認識することが、科学的美術史の主要問題であり根本問題である。」

人間は、刺激に貪欲である。斬新な手法に目を奪われるのは、いつの時代も同じ。芸術家は一層エゴイズムを旺盛にし、鑑賞者も負けじと新たな感動を求めてやまない。双方で高みに登っていこうというのか。いや、退屈病が苦手なだけよ。

芸術家たちは様々な手法を駆使して作品に息を吹き込む。あらゆる制約から解き放たれた瞬間、静的な芸術作品が動的な存在へ。ユークリッド空間で崇められる線や円の概念から脱皮して新たな空間感覚を刺激し... 陰影によって遠近法を際立たせたり、曲線に絶妙な歪を持たせてエキゾチックに演出したり、縁取りで存在感を強調していた主題を、境界線を曖昧にすることによって背景と同化させたり、主題の立ち位置が曖昧になれば、主役と脇役が逆転することも...
比例の概念までも歪ませれば、黄金比という数学の美へ導かれるのか。ダ・ヴィンチや北斎のように...
主題が自己主張を弱めると、逆に全体としての臨場感が増す。美術とは美の術と書くが、本物の自然物よりも、自然を模した人工物に感動しちまうとは。芸術美とは、激昂と静寂の調和のもとでなされる衝動と意企の駆け引き... とでもしておこうか。

そして、作品が雄弁に物語る術を会得すれば、もはや作者の手を離れ、作品自身が独り歩きを始める。コンピュータ工学には、マシンは意思を持ちうるか、という問い掛けがあるが、芸術作品にもそんな問い掛けが聞こえてきそうな。偉大な芸術作品とは、歴史の中で自ら独立墓碑を刻むものらしい...

「それぞれの芸術作品は一個の形成物であり、一個の有機体である。それの最も本質的な表象は、何も変更されたり、ずらされたりできず、すべてのものが在るがままでなければならない、という必然性の性質である。」

2025-03-02

"THE MASTER ALGORITHM" Pedro Domingos 著

マスターアルゴリズムとは...
それは、過去、現在、未来に渡るすべての知識を獲得できる万能学習器のこと。中でも重要なのは、未来に関する知識だ。人間の認識能力は時間の矢に幽閉されているのだから。いや、機械学習の次元では、そんなものに束縛されないのやもしれん...

かつて計算機に仕事をさせるには、まず目的に適ったアルゴリズムを書き下ろし、それを計算機に喰わせるというのが定番であった。機械学習は、これとは違う方針をとる。それは、データに基づいて計算機自身が推論し、自らアルゴリズムを編み出すことにある。さらにデータが不十分と見れば、その収集、分析までもやってのける。
万能チューリングマシンが演繹的であるのに対し、マスターアルゴリズムは極めて帰納的だ。経験値を積めば積むほど、人間の仕事はどんどん奪われていきそうな...

叙事詩人ヘシオドスは、こんなことを詠った。誠実な労働生活こそが人間のあるべき姿... と。仕事を失った人間は、どうなるのだろう。生き甲斐までも失っちまうのか。いや、仕事の定義も変わっていくだろう。究極の機械学習が編み出されれば、逆に人間が機械に問われるやもしれん。人間足るとはどういうことか?と。それで機械に説教されてりゃ、世話ない...

機械学習の根本には、ヒュームの帰納問題が内包されている。それは、「すでに見たものを汎化して、まだ見たことがないものにも適用することを常に正当化できるか。」という問いである。それが正当化されないとしても、そこに人間は答えを出す。誤っていようとも。失敗を重ねながらも。そもそも学習とは、そうしたものであろうし、現在を生きるとは、そういうことであろう。
つまり、思考アルゴリズムには、ある程度の無駄も必要ということになる。何事にも遊びがなければ、心に余裕が生まれない。機械学習に心が芽生えるかは知らんが、そうした余裕のようなものが機械学習にも必要なのやもしれん。それが、帰納法的思考の本質なのやもしれん。
合理主義か経験主義か、理想論か現実論か、はたまた演繹法か帰納法か... こうした概念の狭間で人間の思考は揺れる。そして、機械学習の思考アルゴリズムもまた...

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして...
本書は、機械学習の学派を大まかに五つに区分する。記号主義者、コネクショニスト、進化主義者、ベイズ主義者、類推主義者と。ペドロ・ドミンゴスは、この五つの学派を統合する視点から、より強力なアルゴリズムの構築を試みる。言うなれば、いいとこ取り...
尚、神嶌敏弘訳版(講談社)を手に取る。

それぞれの学術的立場は...
「記号主義者」は、すべての知識は記号化、言語化できるという信念のもとで人間の知能をモデリングする。それは、コンピュータの構造が数学的であることを最も忠実に再現しようとする立場と言えよう。
「コネクショニスト」は、ニューラルネットワークによる神経細胞の結合の強さなどを調整して、人間の脳をモデリングする。
「進化主義者」は、学習原理を自然淘汰に求め、人間が長い年月をかけて獲得してきた経験値から認識メカニズムを構築する。
「ベイズ主義者」は、すべての関心事を不確実性に絡め、事前確率をもとに確率的推論を組み立てる。ベイスの定理は、この不確実性と事前確率の関係を記述する。
「類推主義者」は、事象間の類似性を解析し、一つの類似点を見つければ、他にも類似している点があると仮定しながら知能モデルの幅を広げていく。

それぞれの最適化アルゴリズムは...
記号主義者は、論理を信条とした逆演繹法。
コネクショニストは、ニューラルネットを基軸とする誤差逆伝搬法や勾配降下法。
進化主義者は、適合度探索による遺伝的プログラム。
ベイズ主義者は、重み付き論理式を実装した確率伝搬法やマルコフ連鎖モンテカルロ法。
類推主義者は、最近謗法やサポートベクトルマシンを用いた制約付き最適化。

こうして各学派を渡り歩いていく中で、過学習、ノーフリーランチ定理、次元の呪い、バイアス - バリアンス分解、探索と活用のジレンマといった機械学習でよく見かける問題を紹介してくれる。

「過学習」とは、特定のデータパターンをあまりに多く覚え込んでしまったために、例外や未知のデータへの応用が利かなくなり、柔軟性を失うといった現象。
「ノーフリーランチ定理」とは、学習器がどれくらいうまく予測できるかについての制限を示すもので、「いかなる学習器も、無作為な推測よりよい予測はできない」と告げる。学習アルゴリズムには必ず偏向が見られ、あらゆる問題を汎用的に解決することは理論的に不可能であると。
「次元の呪い」とは、空間次元の増加に伴い、目的を特定するのに必要な訓練量が指数関数的に増えるというもの。例えば、最も簡潔かつ高速な学習アルゴリズムとされる最近謗法は、二次元や三次元ではうまくいっても、ちょいと次元が増えるだけで行き詰まったり。高次元では、サポートベクトルマシンが重み付きの k 近傍法に見えたりと。
「バイアス - バリアンス分解」とは、それぞれ「偏り」と「分散」に当たる語で、予測結果に対する調整の指標とされる。そして、判断材料とされるデータに、どれだけノイズが含まれるかが問われる。例えば、学習器が同じ誤りを繰り返すなら、バイアス傾向にあり、より柔軟性のある方向に調整する。あるいは、誤りに一定の傾向が見られなければ、バリアンス傾向にあり、より柔軟性を抑えた方向に調整する。
「探索と活用のジレンマ」とは、探索と活用のタイミングを問う問題で、例えば、うまくいった方法を一度見つけ、それをずっと続ければ、もっとよい方法に出会う機会を失う.... あるいは、他にもっと良い方法があるはずだと躍起になるあまり、過去に出会った最適な方法を見過ごしてしまう... といったこと。

こうした機械学習が抱える問題は、そのまま人間の認識に当てはまる。知識が多すぎるために、判断を誤ったり、行動を躊躇したり。学問の専門化が進めば、逆に視野が狭くなって全体像が見えなくなったり。調査活動に夢中になるあまり肝心な行動が鈍ったり、行動を急ぐあまり調査が不十分であったり。理想の人との出会いを求めるあまり、最良の人との出会いを不意にしたり...
パターン化と柔軟性、調査と行動、専門性と汎用性といったものには、少なからずトレードオフの関係にある。そして、情報量が増えれば、ムーアの法則のごとく指数関数的に選択肢も増え、混乱も増える。

「生命を計算機と捉えて考えると、多くのことが明らかになる。計算機にとっての先天性とは、その上で実行するプログラムであり、後天性とは、計算機が取得するデータである。どちらが重要かという疑問は滑稽である。プログラムとデータの両方がなければ出力結果は得られないし、出力結果の 60% がプログラムによるもので、40% がデータによるものという類いのものでもない。これは、線形モデルに囚われた思考の一種であり、機械学習に慣れ親しめば克服できる。」

しかしながら、これら五つの学派をもってしても、共通した欠陥があるという。それは、正しい答えを教えてくれる教師が必要だということ。人間とて、先生に教わらずして学ぶことは難しい。
その証拠に、手っ取り早く学ぶためにノウハウセミナーはいつも活況で、ハウツー本はいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで。多忙とは、威厳をまとった怠惰に他ならない... とは誰の言葉であったか。
大量のデータにもめげず、自己分析を地道にやり、真に独学を実践するという点では、人間よりも機械学習の方が得意であろう。そして、真に自立型アルゴリズムへの道は... 一つの方程式が石碑に刻まれる。過去を振り返るな!と...

  P = ew・n / Z

左辺は、確率 P。右辺は、重みベクトル w とその個数 n の内積に指数関数を適用して、全ての積の総和 Z で割る。マルコフ過程に基づいた言語認識プログラムは、方程式を並べ立てればモデル化できそうな予感。ここには、一つの呪文が透けてくる。すべての機械学習器が自己無矛盾である必要があるのか?と...

「さあ我等が治める地を一つにせん。そなたは我が規則に重みを加えられよ。さすれば、この地の果てまでも新たな表現が満ちるであろう。... そして、我等が世継ぎは、マルコフ論理ネットワークとならん!」

2025-02-23

"ポスト・ヒューマン誕生" Ray Kurzweil 著

Google 社の AI 開発で陣頭に立つレイ・カーツワイル...
彼は、指数関数的に成長を続けるテクノロジーは、いずれ「シンギュラリティ」に至ると予見する。それは、人間であることの意味を拡張させ、遺伝という生物の枷を取り払い、知性が高みに登りつめることを意味するらしい。この指数関数的な進化を「収穫加速の法則」と命名。しかも、その時期は近い!と...
それは理想郷でもなければ、地獄でもない。では、信仰の問題か。いや、理解の問題だ。コンピュータ科学は、もはやコンピュータを研究する分野にとどまらない。おそらく、あらゆる学問がそうなのであろう。つまり、学問する主体自身を理解しようという。そして、人間には人間自身を理解する能力があるのか、が問われる。シンギュラリティは近い。だが、人類には、ちと早すぎる...

シンギュラリティを邦訳すると「技術的特異点」となる...
特異点といえば、数学的なアトラクターや物理学的なブラックホールを想起させる。例えば、周期的に安定状態にあるシステムが、微妙なズレやゆらぎのために周期性を徐々に失っていき、突如、ある種の不動点に嵌ってしまうことがある。そうした状態に一度でも嵌まると、抜け出すことはほぼ不可能。市場価値の歪みから生じる金融危機などは、その典型パターンと言えよう。
しかし、ここでの特異点は、ちと明るい未来を想像させてくれる。人類に明るい未来が相応しいのかは知らんが...
尚、井上健監訳、小野木明恵、野中香方子、福田実共訳版(NHK出版)を手に取る。

人工知能やロボットが人間の能力を超えると、社会のあり方が問われるようになる。そんな状況を想定することは難しくない。現実に、将棋界や囲碁界でそうした事態を目の当たりにする。
しかし、マシンが知性や理性までも人間を超越するとなれば、それはどんな社会であろう。人間足るとは、どういうことか?などと逆にマシンに問い詰められ、憂鬱感を蔓延させた社会となるか、あるいは、マシンが統治者となることを従順に受け入れ、それこそ人類が夢見てきた真の平等社会となるか。いずれにせよ、明るい未来は見通せそうにない。

だがそれは、人間とマシンが別物だと思い込んでいるからそう思うのであって、人間とマシンが融合したハイブリッド型生命体として進化していくとすれば、どうであろう。人間が自ら造り出したテクノロジーと合体する臨界点では、どんな生命体が形成されるだろうか。コンピュータが得意とする記憶量、正確さ、高速性といったものを人間が身にまとえば、最強の生命体となろう。それでも、人間性だけは見失わずにいたい。
ご都合主義の人間のことだ。サヴァン症候群のような天才的な能力のみを寄せ集め、欠点は徹底的に排除にかかる。愛などという微妙な属性を崇め、都合の良い性癖だけは手放せず。人間が思い描く合理性が宇宙の合理性に適っているかは知らんが...

「まず、われわれが道具を作り、次は道具がわれわれを作る。」
... マーシャル・マクルーハン

科学は人間の地位を蹴落としてきた。人間の棲家である地球中心説を放棄させ、人間中心説を放棄させるに至れば、知性や理性なんぞ、人間だけに与えられた特別な性質などとは言ってられまい。
人間には意思がある。少なくとも、そう思っている。マシンには意思がない。少なくとも、そう思ってきた。だが構造的には、人間も、マシンも、同じ原子の集合体。突き詰めれば、宇宙に存在する物体すべてが同じ構成要素で形成され、運動する物体のすべてはエネルギーの燃焼と放出を繰り返す熱機関として君臨する。はたして精神や魂は、人間固有のものなのか?
知的生命体の進化の過程が宇宙の進化そのものだとすると、宇宙空間に充満する原子の集合体が、一つの意思を持っていても不思議はない。カーツワイルは、進化の過程で鍵となる三つのテクノロジーを挙げている。それは、G(遺伝子工学)、N(ナノテクノロジー)、R(ロボット工学)で、GNR 革命と称す...

「シンギュラリティは最終的に宇宙を魂で満たす、と言うこともできるのだ。」

では、シンギュラリティに達した精神は、普遍性に則したものとなろうか...
人類は技術力をムーアの法則に従って進化させてきた。それにともなって精神を進化させてきたと言えるだろうか。いまだソクラテス時代の哲学が輝きを失わずにいる。仮に、マシンの部分だけが進歩し、人間性が取り残されているとすれば、あまりにバランスを欠く。
人間は、環境への適合という意味では進化しているだろう。寿命が延びていることも、その一因と思われる。身体を自己修復機能を搭載したサイボーグで再構築すれば、寿命は限りなく延びていくだろう。
ナノボット・テクノロジーが、病原体を破壊し、DNA エラーを修復し、放射能に強い皮膚をまとい、ニューロンを超高速素子に置き換え、身体を超人的にアップグレードする。血液の酸素を運ぶ効率を大幅に改善したプログラムできる人工赤血球を注入すれば、凡人がオリンピック選手の記録を上回る能力を獲得できる。そうなると、オリンピックの存在意義が問われるであろう。

手も足もいらない。そればかりか、肺は必要か、心臓は本当に必要か。老化や死を限りなく遠ざけることができれば、生の意味を与えてきた死を正当化する必要もなくなる。おそらく人間のことだ!死の概念を遠ざけ、その意識を疎かにすれば、戦争をおっぱじめる。地球最強の生命体は、宇宙戦争を引き起こす史上最悪の生命体になるやもしれん...

宇宙に目的があるかは知らんが、生命体の目的は生存にある。それは、構造やメカニズムの最適化によって成される。はたして非生物的なメカニズムが、生命のデザインを受け継ぐであろうか。やはり、宇宙は合理的にできていそうだ。複雑になり過ぎれば崩壊させられ、原子レベルに分解されちまう。アインシュタインも言っている。「できるだけ単純に、ただし単純すぎてもいけない。」と...
そして、人間の根源とは何か?と問い直さずにはいられない。それで、精神を病んでりゃ、世話ない。まったく精神ってやつは、厄介だ。いや、すべてが合理化されれば、精神も必要なし!今、脳のリバースエンジニアリングに迫られる...

「忘れてはならないのは、未来に出現する知能は、人間の文明の表れであり続けるということだ。その人間の文明が、すでに、人間と機械が融合した文明であってもだ。言い方を変えれば、未来の機械は、もはや生物学的な人間ではなくとも、一種の人間なのだ。これは、進化の次なる段階である。次に訪れる高度なパラダイム・シフトであり、知能進化の間接的な作用なのだ。文明にある知能のほとんどは、最終的には、非生物的なものになるだろう。今世紀の末には、そうした知能は、人間の知能の数兆倍の数兆倍も強力になる。しかし、だらかといって、しばしば懸念が表明されているように、生物としての知能が終わりを告げるというわけではない。たとえ、進化の頂点から追い落とされようとも。非生物的なものの形態ですら、生命の設計を受け継ぐ。文明は人間的なものであり続けるだろう。しかも、多くの点で、今日にもまして、人間的と見なされるものをより典型的に示すようになる。ただし、人間的という言葉は、本来の生物学的な意味合いを超えて使われるようになりはするが...」

2025-02-16

"力学的な微分幾何" 大森英樹 著

本書は、物理現象を数学で捉えようとする試み。それは、教科書や解説書といったものではなく、あくまでも副読本に位置づけたものだという。音楽でいえば、楽譜のようなものだとか。楽譜は演奏者に次のイメージを開かせるための補助手段に過ぎず、演奏者は読者に過ぎず... と、いささか挑発的。
とはいえ、客観性では他を寄せ付けない数学を、人間の認識、すなわち主観性の側面から物語ってくれるところが、いかにも愉快。それだけ、毒しているとも言えるのだけど...

「数学者と物理学者と哲学者とを、凝り深さという性質で序列をつけるとすれば、哲学者が一番凝り深く、数学者がそれに次ぎ、物理学者が一番凝り深くないということになると思われる。しかし、人間は人間であるかぎり根源的に哲学するものである。誰しも小中学校の頃に 1 + 1 はなぜ 2 なのか?などという素朴な疑問にとりつかれたことがあるはずだ。」

数学者とは、自然数に内包される論理性以外は真実と認めない人たちを言うそうな。
物理学者とは、空間概念のみならず、時間、質量、力、電荷量、熱量、温度、エネルギーといった概念を疑いようのない正当なものと信じる人たちを言うそうな。
となれば、物理学者は数学者よりも現実主義者と言えそうか...

物理量は、数学的には実数、ベクトル、行列、関数といったもので記述され、単位記号が付随して物語となる。その意味で、数学の記述は無味乾燥な道具に過ぎない。しかも、具体的な記述法は、最初に考案した数学者に委ねられる。純粋な定理なのに難解な記述を強いるとは、このエゴイストめ!
いや、純粋だからこそ、人間が理解できるように記述することが難しいのやもしれん。本書には、こんな文句が散りばめられる。

「神がそれを好むからではなく、人間がそれを好むからだ!」

数学を学ぶには、直感とイメージが大切である。だが、直感がついていけくなると、奇妙な圧迫感が生じる。別の直感を磨く必要に迫られるあまり、却って直感を鈍らせることに。やはり何かを学ぶには、面白くなくっちゃ!楽しくなくっちゃ!

さて、力学と微分幾何の物語は...
まず、ユークリッド空間において曲面上に幽閉された束縛運動の考察に始まる。束縛力は、接平面に垂直に働く。その支点において、接ベクトルで記述される第一基本量と、法線ベクトルで記述される第二基本量から、曲面の曲がり具合を行列で定義し、距離的に最も効率的な測地線の運動方程式を探る。こうした考察を眺めているだけで、リーマン多様体を予感させる。

ちなみに、等距離図法の不可能性についての考察は興味深い。つまり、地球上のある領域において、二点間の距離がどこでも正確な縮尺率で地図を作ることが可能か?という問題である。その不可能性をガウスが証明したとさ...

次に、微分形式ってやつが、熱力学や電磁気学といかに相性がいいかを味わわせてくれる。熱力学の第一法則と第二法則が一次元的な運動として、一次形式や線積分での記述を容易にし、電場や磁場、あるいは電磁誘導が曲面的な運動として、二次形式や面積分での記述を容易にする。
そして、ガウスの発散定理とガウスの法則で二次微分形式との相性の良さを外観し、マクスウェル方程式が二次微分形式によって簡単な記述となる... といった流れ。
ちなみに、おいらは学生時代、ガウスの法則で赤点をとっちまった!

こうした空間概念が無限次元に拡張されると、自然に多様体の世界へと導かれる。支点を記述する微分と運動を記述する積分の関係は、次元に束縛されないとさ。
しかし問題は、微分可能性にあり、それが極めて確率的に低いことにある。方程式ってやつは、記述できりゃええってもんじゃない。微分方程式が厄介なのは、そこだ。

次元数が無限へと解き放たてると、陰関数定理ってやつが役立つ。陰関数定理は、多項式を多変数の式と見なすことができ、解析学では近似的に見ることもでき、重宝される。
そして、ニュートン力学は、ラグランジュ系で再定義され、ルジャンドル変換を通してハミルトン系へと導かれる。
ただ、ニュートン力学にしても、ラグランジュ系にしても、ハミルトン系にしても、乱暴に言えば座標系が違うだけ。それは、観測者の慣性系が違えば運動の見え方も違うと告げる相対性理論の考え方にもつなり、一般相対性理論の運動方程式がハミルトン系で記述できるのも頷ける。演算を簡単にするために力学系を変換していると見るなら、やはり人間のご都合主義か...

さらに、時間を想定した時、これも慣性系に幽閉されることになる。
では、ビッグバンのような宇宙の始まりを論じようとすれば、何か基準となる時間軸が必要になりそうだが、それで絶対時間のようなものが存在することになるのだろうか。
いや、時間のみならず、標準や常識、さらには価値観や世界観、おまけに宇宙論なんてものも、記述できるものすべてが人間のご都合主義なのやもしれん。
少なくとも人間が編み出した学問は、何らかの記述ができなければ成り立たない。それで言語体系の限界に挑んでは新たな専門用語を編み出し、その定義で悩まされてりゃ、世話ない。これは、ある種の病理学か。おそらく人間の認知能力は、言葉や記号で表せない領域が思いのほか広大なのであろう。微分不可能な領域のように...

「自然法則は、『A という原因が起これば、必ず B という結果が生じる』という形の因果関係を記述するものが多い。これを『A ならば B である』という数学の命題と同義とみるためには、どうしても時間は一次元的でかつ循環せず線形的に発展するものと約束してしまわねばならない。」

2025-02-09

腕に新相棒、その名はアテッサ!人生をシンプルに刻む...

腕の相棒では、"SKAGEN SKW6106" や "KLASSE14 Volare Vintage Gold VO18VG004M" でヴィンテージ感に浸ってきた。北欧デンマーク発に南欧イタリア風味を加えて...
新たに、国産でエレガント風味を加え、庶民のささやかな贅沢感に浸る。

モノは、"CITIZEN ATTESA BY1004-17X"
ブラックチタンシリーズとの比較で悩ましいところ。ここは、ちょいと遊び心で...
このモデルは、光の当たり具合で表情が変わるのがいい。外出時は和装が多く、本体の光沢感と黒革ベルトが着物によく合う。カタログでは製品を良く見せようと、光の当て具合などで誤魔化されたりするが、実物の方がいいケースは珍しい。写真では見栄えが伝わりにくい色彩なのかも...
価格抜きで、第一感はこのモデル。YouTube で開発者の談話も参考にしたが、やはり第一感はこのモデル。気まぐれ崇拝者にとって、第一感こそ決め手だ!


*写真右は、電球色の照明下で、夜光機能がやや働く程度に光を絞ってみた。
うん~... 微妙!


こだわった機能は、エコドライブと電波時計。電池交換や時間を合わせる行為は、シンプルな人生に合わない。
重さは、59g と軽い。厚みは、10.8mm とアテッサシリーズでは比較的薄い。腕が細いので、ゴッツいのは勘弁!
発電持続時間は、約2.5年(カタログ値)と余裕あり過ぎ。
夜光機能もいい。但し、文字盤や針に蓄光塗料が施され、光を蓄える仕掛けなので、薄暗闇生活者には期待薄かも...

クロノグラフはいらない。ネアンデルタール人には故障の原因となるイメージがあるが、近年はそうでもないらしい。どうせ、最初に遊ぶぐらいなもの...
インダイヤルに日付や曜日の表示もいらないが、自動補正なら邪魔にならない。
月齢表示機能「ルナプログラム」ってやつが搭載されているが、これも自動計算なら邪魔にならない。いや、むしろエレガント感を演出してくれる。
ダイレクトフライト機能は、なくてもいいか... と思っていたが、電波時計では必須!ダブルダイレクトフライトだと、ホームと現地の時間が瞬時に切り替えられるようで尚いいが、それは贅沢というものか...

懸念事項は、革ベルト!ヘタった時の交換は?
馴染みの時計屋さんが言うには、「ベルトは純正である必要はないし、いろんなものが試せる面白味もありますよ!」と見本を見せてくれた。これで安心!
留め具の三ツ折れプッシュタイプもなかなか...

さて、これで人生も... と行きたいところだが、持ち物がエレガントだからといって人生もエレガント!というわけにはいかんよ...