2010-04-25

"多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者" Siobhan Roberts 著

本書は、古典幾何学者ドナルド・コクセター(ハロルド・スコット・マクドナルド・コクセター)の伝記小説である。ただ、専門情報が乏しいところに少々退屈してしまい、ほとんど斜め読みしてしまった。終始コクセターの著書が紹介され、そちらの方に興味を奪われるので、著作の宣伝書といった方がいい。是非!彼の古典を読んでみたいが、今では入手が難しそうだ。

20世紀初頭、数学界では代数学が台頭し、ヒルベルトで代表される形式主義が優勢であった。記号と数式、あるいは上添え字と下添え字が乱舞し、図形が圧倒的に欠乏した時代である。その極派がブルバキ派であろう。伝説によるとニコラ・ブルバキは、「ユークリッドをぶっ潰せ!三角形に死を!」などと叫んだという。視覚に囚われると、主観性と誤謬に引きずり込まれると考えるのも分からなくはない。数学者たちは、誤謬の入り込む余地をなくし、完全な理性のみで推論しようとしてきた。だが、やがて論理性や理性の限界と対峙することになる。論理性の弱点から目を背ければ、論理至上主義に陥り、逆に宗教じみた傾向を示す。
ユークリッド幾何学に限界が示されると、純粋幾何学を非論理的で退屈するものと蔑む風潮が現れた。当時の科学者の回想では、教育の場で純粋幾何学を教える機会を失ったと嘆く意見も聞く。直観や視覚的発想は幾何学で最も重要視される思考方法であるが、数学界から蔑まれた。こうした時代に、あえて逆行し古典数学に挑んだのがドナルド・コクセターだという。彼を「現代のユークリッド」と呼び、20世紀最高の古典幾何学者と讃える人も少なくないようだ。コクセターは、ユークリッドを引き継いでプラトン立体に立ち返り、正多胞体をn次元にまで拡張したという。そして、幾何学をブルバキ派からの迫害から救っただけでなく、ブルバキ派にその成果を認めさせたという。
アリストテレス曰く、「人間が心にイメージを描かずに思考することはできない。」
本書は、視覚的直観と形式的思考を調和させることの重要性を説いている。幾何学が、代数的解析と結びついて進化したのは事実である。ただ、目の前に図形がないことと、頭の中に図形がないこととは大きな違いがあろう。数式を解くことと、数式から哲学的意義を見出すことにも大きな違いがある。ドライな数式に、芸術的な感性が結びついてこそ、数学に意義を見出すことができる。数学者の発想力や想像力には、論理思考だけでは説明のできない狂人じみたものがある。
アンリ・ポアンカレ曰く、「論理は、これこれの道を行けば確実に障害物がないことを教えてくれる。だが、求める目的地に至る道を教えてはくれない。それには遠くから目的地を見通す必要がある。その方法を教えてくれるのは直観だ。直観がない幾何学者は、文法は知り尽くしているがアイデアをまったく持っていない作家のようなものだ。」

あらゆる学問が、古典を疎かにする時代を経験し、そしてまた、古典が見直されるプロセスを経験してきた。科学や技術の分野においても、ほとんどの人々は流行を追いかけるであろう。凡庸な人間ほど、いつも流行を追いかけていないと不安でしょうがないのかもしれない。新しい言語が流行れば、啓蒙運動が盛んになり、新しい技術が流行れば、そこに多くの人々が群がり雇用を創出する。自己啓発する理由のほとんどは、生活手段のためであり、ひいては自分の居場所を求めるためであろう。ただ、こうした傾向が悪いわけでもなかろう。技術分野では、それなりに流行を追いかけていなければ、視野を狭めてしまう。凡庸未満の酔っ払いは流行を追いかけるのさえ大変だ。流行にあえて逆行することは勇気のいることである。フリーマン・ダイソンは、科学の分野でクルト・ゲーデルのような流行とは無縁の人物が活躍する余地を残すべきだと主張したという。
20年ほど前、デジタル技術が流行った時には、アナログ技術は廃れると言われたものだが、今では逆に重宝されている。究極の自由を求めながら幸せになれるのは、ひたすら興味に没頭できる環境が備わった時であろうか。だが、興味だけで専門を選んでいては生計が成り立たない。才能があるからこそ、マイペースで学問ができるのだろう。そこには、名誉や評判に惑わされることなく、ひたすら自らの興味に邁進する執念や頑固さがある。
純粋数学とは不思議な世界で、そこに目的なんてものはない。ひたすら美しい理論や真理を探求するだけ。結果的に何に使われようが知ったこっちゃない!つまり、ひたすら純粋精神を探求する世界である。ただし、難問を解くことによって名声を得ようとか、賞金をものにしようといった野心もつきまとうのだが。発見された理論は、偶然にも応用分野で活躍する場が与えられる。まさか素数の発見者が、暗号アルゴリズムに使われるとは思わなかっただろう。だが、どんな優れた知識でも、薬となる場合もあれば、毒となる場合もある。多くの科学者が純粋な知識を政治的に悪用されて苦悩してきたことであろう。肩の凝る世間体に巻き込まれたり、片意地を張っていては、純粋な精神を解放することはできない。純粋な精神を探求できる場とは、凡庸な酔っ払いの憧れでもあるが、到底真似ることはできない。自由とは、天才にのみ与えられた特権なのかもしれない。
アル中ハイマー曰く、「凡庸な酔っ払いは自由が欲しいと大声で訴える。純粋な天才は静かに自由を謳歌する。」

多くの人が数学に興味を持ち始めるのは、三角形や円といった幾何学の美であろう。数学入門でユークリッド空間は欠かせない。古典幾何学には、図形を眺めるだけでシンプルでエレガントな説得力がある。三角形の五心やオイラー線などを語りだしたら話題は尽きない。モーリーの定理を眺めているだけで崇高な気分になる。
かつて、アル中ハイマーにも三角関数に憑かれた時代があった。三角関数の直交性を利用した情報圧縮は、デジタル技術の基本でもある。なんといっても、幾何学の本質は対称性と直交性の美であろう。複素平面は、そこに直交性が見出せるからこそ、解析学で強力な道具となる。
ところが、大学初頭教育でε-δ論法に出会うと、数学の興味が一気に冷める。多くの微分方程式が解けないという背景は、不等式による間接的なアプローチを編み出した。それほど難しい概念ではなく、関数の連続性を調べるには便利である。だが、なんだ!このへんてこなギリシャ文字の羅列は!そこには空間的なおもしろさもなければ、実用性もイメージできない。この殺虫効果の強い落ちこぼれスプレーを浴びると最後、数式の消化不良に陥り、奇怪な不等式のゲップを吐く。数学を暗記科目と感じるようになったら不幸だ。早々能力の限界に見切りをつけ逃避した方がよかろう。そして、現在、数学に挫折したことが仕事の幅を狭めているとは、なんとも皮肉だ。

1. コクセターの著作
コクセターの定義に、次のようなものがあるという。
「Every monotonic sequence of points has a limit.」(すべての単調な点列は極限を持っている)
「正多胞体」は当時のベストセラーで、20世紀で最も引用された幾何学の教科書だそうな。現代に書かれたユークリッドの続編という評判もあるという。これは、プラトン立体、および正多胞体の研究と分類を、n次元にまで拡張したものだそうな。そして、四次元を想像するのに、公理的方法、代数的方法、直観的方法の三つの方法を提起しているという。
「幾何学入門」は二番目の代表作だそうな。その中に次のような節があるという。
「オイラーは晩年の17年間、目が見えなかったが、当時の数学で彼が見落としたものは何もない。」
更に「射影幾何学」と「幾何学再入門」が発刊されたという。後者はS.L.グレイツァーとの共著。

2. 対称性と多胞体
人間が社会秩序や美的感覚などに自然法則を見出そうとする時、その拠り所とする概念が対称性であろう。宇宙原理の本質が矛盾性と複雑系であったとしても、対称性の原理が衰えることはない。たいていの数学の魅力には、なんらかの対称性が存在する。古典幾何学は、定理を証明することよりも、美しい幾何構造を見つけることを目的とする。コクセターは「ミスター多胞体」の異名を持つという。ちなみに、多胞体(ポリトープ)とは、2次元でいえば多角形、3次元でいえば多面体といったものの総称。多角形はポリゴン、多面体はポリヘドロン。ポリヘドロンは「多くの座席」という意味があるらしい。人が座ることのできる有名な多面体にプラトン立体がある。ユークリッドはプラトン立体が5つしか存在しないことを証明した。その基本構築には、三つの正多角形である正三角形、正方形、正五角形しか使えない。凸状の立体を形成するには、頂点の集まる多角形の角度の合計が360度未満でなければならないからである。そして、4面体、立方体、8面体、12面体、20面体を見出す。更にコクセターは、多胞体を無限次元まで拡張したという。
ちなみに、正多胞体を記述するシュレーフリ記号で知られるルートヴィヒ・シュレーフリは、四次元空間には凸の正多胞体が6つしかないことを証明したという。それは、個々の胞が4面体で各辺に三つの4面体が集まる単体つまり5胞体、8個の立方体から構成され各辺に三つの立方体が集まる8胞体つまり4次元立方体、16個の4面体から構成される16胞体、8面体から構成される24胞体、12面体から構成される120胞体、4面体から構成される600胞体だという。

3. 古典幾何学の歴史
幾何学を意味するgeometryは、ギリシャ語の地球(geo)と測定(metria)をつなげた「測地」に由来する。宇宙、銀河系、太陽系、地球、そして、分子や原子構造など、幾何学的構造が万物の根幹にある。社会構造や社会組織に幾何学を見出すこともあれば、コンピュータ構造が社会構造や人体構造をヒントに組み立てられることもある。数学は何かを発明する学問ではない。何か真理めいたものを発見する学問である。プラトン立体は、発明されたわけではなく発見されたのであって、そこから著作「国家」が誕生するという奇妙な結びつきがある。
偉大な遺跡や美術品には幾何学的構造があり、そこに威厳や壮大さを感じるのも、真理めいたものを感じるからであろう。昔々、幾何学は古代エジプト人やバビロニア人にとって実用的な道具であった。ピュタゴラス学派は、数学が霊魂を浄化し、純粋に精神と神を結びつける宗教に高めた。その思想をプラトンが引き継ぎ、「神は永遠に幾何学する」と語った。
数学者たちは、論理的厳密性と絶対的純粋性から真理を見出し、人間の絶対的理性の構築を目指した。そして、すべての表面を正多角形で構成される正多面体を崇め、元素モデルや宇宙モデルとしてきた。あらゆる自然構造にプラトン立体が発見できるはずだと信じたのである。
ユークリッドの「原論」が数学のバイブルになってから二千年以上が経つ。哲学者カントは、ユークリッドの幾何学体系をア・プリオリと語った。まさしく数学は哲学であると言えよう。ただユークリッドの原論が純粋とはいえ、平行線公理と呼ばれる第五公準は、他の公準に比べて歯切れが悪い。人類史上、最も純粋で厳密と言われる書物でさえ曖昧さを曝け出し、そのために批難の対象ともなる。だからといって、ユークリッドを蔑むことにはならない。結果的に、非ユークリッド幾何学の誕生する余地を残していたと言えなくもない。非ユークリッド幾何学の可能性を指摘し、双曲幾何学を提唱したヤノーシュ・ボヤイは、亡くなるまで世間から認知されなかったという。おそらく、あの世でボヤイているに違いない。

4. 万華鏡とコクセター図形
万華鏡を使った対称性を探求する方法は、あらゆる次元の正多胞体の研究に拡張することができるという。次元が高くなるにつれて鏡を足していけばいいわけだが、四次元以上の万華鏡を物理的につくることはできない。しかし、数学者はn次元の住人であり、無限次元までも手なずける。
コクセターは、万華鏡が無限次元に至る高次元の多胞体を生成する仕組みを一般化したという。彼が発明したコクセター図形は、群について語る時のモールス符号にも似た言語だという。確かに、図形というよりは符号である。接点と接線を強調しながら数字を埋め込んだような、ネット接続図のような。なるほど、多面体構造の重要な特徴といえば、頂点と頂点、あるいは面と面との接続情報というわけか。四次元を二次元に投影するような一種の速記法に見える。

5. 群論とコクセター群
対称性に関する研究は群論として体系づけられる。コクセター群は群論の世界を探索するための道具だという。コクセター群はコクセター図形の代数的表現のようだ。例えば、20面体の図形は、三つの鏡をもつ鏡像として、乗算表で示すがごとくx,y,zで記述する。
ちなみに、群論の四つの法則とは、こんな感じかなぁ。
(1) 単位元がある。回転や反転などの操作を一切しない状態。
(2) 結合法則が成り立つ。対称変換を順番に実行した時、適用する順番が同じであれば同じ結果が得られる。例えば、正方形はどれだけ回転しても結合法則を示す。
(3) 逆元法則が成り立つ。逆の対称性が存在する。
(4) 閉包法則が成り立つ。対称性を実行すると、その結果もまた群に含まれる対称性を示す。
こうした性質を図形に適用すると、まさしくプラトン立体や万華鏡の研究となろう。コクセター群は群論の応用というわけか。鏡の向こう側から覗いた自分を見つめ直すような、あるいは、複数の鏡を対象として繰り返し覗き込むような。鏡の中に映った鏡を覗くと、そこには鏡があって、その鏡の中にも鏡が映っていて....そして、無限に鏡に映った写像を覗いていくと、無限の正多胞体なるものが見えてくるといった感じか?対称性の中にある対称性、その中の対称性、そのまた中にある対称性...数学者の想像力は狂気じみている。
ちなみに、今!鏡の向こうの赤い顔をした住人が、気持ち良さそうに延々と語りかけてくる。彼を黙らす方法は、自分が酔い潰れるしかない。

6. フィボナッチと葉序
パイナップルは、コクセターが好んだ葉序の現象を示すという。葉序とは葉の配列である。黄金比のパターンはひまわりやヒナギクにも見られる。松笠を水につけると、つぼみが閉じて、葉序のパターンが浮き上がる。フィボナッチ数列は、レオナルド・フィボナッチ(ピサのレオナルド)にちなんで名付けられた。ちなみに、ボ・ナッチは「親切な奴」の意味で、フィ・ボ・ナッチは「親切な奴の息子」という意味があるという。フィボナッチ数列は、個々の数が前の二つの和に等しいという特徴がある。黄金比(1.618...)は、任意の数を前の数で割ることによって得られる。
ケプラーは次のように語ったという。
「なぜすべての樹木や潅木、あるいは少なくともその大半が五方向に広がるパターンに従い、五弁の花を咲かせるのか、不思議に思うことがある。リンゴや梨の木では、この花の後で実る果実も、五つの部分に分かれている。...果実の内部には種を宿した五つの区画がある...。」
コクセターは、葉序が普遍的な法則ではなく、「不思議に支配的な傾向に過ぎない」と述べたという。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

コクセターの古典は入手が難しそうだと書いたが、
ちくま学芸文庫から「幾何学入門(上/下/)」が、
2009/9に発刊されているとの指摘を受けた。
いずれ、こちらも挑戦してみたい。

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