2011-01-12

無認識論

カント曰く、「斯くの如く人間のあらゆる認識は直観をもって始まり、概念にすすみ、理念をもって終結する。」
真理は一つしかないとしたところで、おのおのが思考を始めると勝手な真理の像を描く。そんな絶望の中にあっても、カントは、ア・プリオリな認識を「時間」と「空間」のみで規定し純粋認識の統一見解を示した。アル中ハイマーは、これに「エントロピー」を加えたい。そして、くだらないエントロピーの蓄積が、認識能力に一方向性の解釈を与える。これを「ご都合主義」と呼ぶ。
...アル中ハイマー著「泥酔的認識力批判」、第五章「ご都合主義の不可逆性」より抜粋。

1. 絶対泥酔論とエントロピーの原理
あらゆる物理現象は、純粋な物理現象に観測系が加わってはじめて認識できる。すなわち、観測するとは、人間が認識することを意味する。
純粋なニュートン力学では、物体の運動を可逆性で説明する。だが、現実に観測できる物理現象のほとんどは不可逆性を示す。そこで物理学は、現実的な解として「熱力学の第二法則」と結び付けながらエントロピーの原理で説明する。
しかし、時間そのものが不可逆性である。ここに、物理現象を時間の関数で扱う原理がある。少なくとも人間は、時間を過去から未来の一方向性でしか認識できない。人間精神が介在した途端に可逆性が崩れ、真の物理現象が考察されているのかも疑わしい。人間が認識するということは、精神が主観と客観の狭間で揺れ動きながら、経験や知識を蓄積することになる。そして、人間精神そのものが発散するのだから、「エントロピー増大の法則」が成り立つのも道理というものであろう。
では一層の事、観測しなければ、認識することを放棄すれば、あらゆる物理現象は純粋な可逆性のままでいられるかもしれない。だとすると、宇宙原理において、無理やり認識したり、解釈したりする行為ほど異質で邪魔な存在はあるまい。人間は悪魔なのか?人間が相対的な価値観しか構築できない最大の原因は、認識の存在、つまりは精神の存在にあるのではないか?
そして、絶対的な価値観を構築しようとすれば、人間の存在ですら否定しようとする絶対悲観論へと近づく。いや、精神を泥酔状態にして完全に麻痺させちまう方が手っ取り早い。結局、精神の絶対泥酔論に帰着するわけか。

2. 無意識無想と自己否定
デカルトが人間の知覚を「私は存在する」とたった一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。まさしく、一切のものが空間に関係するという先験的な実存認識を表わしているのだから。実存論者は、人間は精神であると主張する。つまり、固体である肉体にはなんの意味もなさないと。
では、精神とはどんな存在なのか?様々な解釈が錯綜するうちに宗教と結び付き、精神を崇め、死を崇め、霊魂を崇め、ついには神の領域へと近づく。それは、悪魔への道しるべか?「罪を憎んで人を憎まず」と言えば、罪を固体化して罪人を概念にまで押し上げる。人間尊重の思想が人間を神の地位に据えようと企てるならば、固体のまま蔑んだままの方がいい。
自己の正体とは何か?と問い続ければ、精神は自己言及で迷走し、自己を失い、ついには精神病を患う。ならば、最初から自己の存在を否定してみてはどうか?精神の存在を無と仮定してみてはどうか?何かに集中し脳がフロー状態になった時、無我の境地とも言うべき心地良い領域へと導かれる。崇高な精神が宿った時、人間は超人的な能力を発揮することがある。時間認識を無とし、自己の存在を無とした時、そこには脂ぎった欲望の入り込む余地はない。匠の世界や洗練された世界とは、精神の高まりを求める純粋な欲望が崇高な精神へと導いた結果であろうか?
人間は無い物欲しさに駆り立てられるもので、エレガントさや美しさに憧れるのは、精神の醜さを写し出しているのかもしれない。人間が、もっとも腹を立てるのは、自尊心を傷つけられることであろうか。自分の人格を否定され、自己の存在を否定されれば、怒りもしよう。だが、無意識無想となれば、そうした雑念はすべて消え去ろう。
哲学をすれば、実存と対峙し、無意味と葛藤し、自然の偉大さに敬服し、ニヒリズムに陥る。そして、自己の醜さに嘆き、精神の悪魔性を憎み、自ら精神病へと誘なう。世の中が狂っていれば、気が狂うのも当然だ。精神病患者とは、正面から矛盾と対峙できる勇気の持ち主で、最もまともな世界を生きている人々なのかもしれない。

3. 共通認識
会話をしていて時々不思議に思うことがある。本当に互いの認識が一致しているのだろうか?そうした疑問を持ちながらでも、会話は成立しているからおもしろい。互いに妄想を膨らませながら、勝手なイメージを描いているだけかもしれないのに。
例えば、「赤い!」といっても、本当に同じ色が見えているのか?色盲という医学的欠陥は別にして、目という視覚の入力装置は同じであっても、認識するのは脳である。好きな色を青や赤と言っているのは、精神が奇妙な変換をしているだけで、実は同じ色を指している可能性はないのか?人間の認識能力は、入力情報に対して様々な変換機能が働くだけで、根底の認識は共通ということはないのか?
人間の視覚は、高周波成分に対して追従能力が低い。テレビがそれなりに見えるのも、追従性の鈍感さに頼りながら想像力で誤魔化しているに過ぎない。宇宙人が観察すると、ノイズだらけの情報に熱中する地球人が滑稽に映るだろう。これがマスコミの原理か。もしかすると、同じ映像を観て違う感想が飛び交うのは、同じ映像として認識していないのではないか?
差別問題にしても、相手を人間として扱うかどうかの抽象レベルの違いがある。どんな残虐な独裁者でも、身近な人間と認めれば優しくもなろう。独裁者はイエスマンには異常に優しい傾向がある。
となると、認識能力にはほとんど個人差はなく、入力情報が脳に到達するまでの変換機能やノイズフィルタ機能が多彩なだけかもしれない。天才たちは凡人とは脳に到達する「モノ」が違うのだろう。彼らは、よほど性能のいい認識前変換装置を具えているに違いない。これが、「心眼を開く」ということであろうか。実は、独創性なるものは幻想なのかもしれない。少なくとも、人間には昆虫どもが同じに見えるように、昆虫には人間どもが同じに見えるだろう。

4. 障害認識
イデア論では、純粋イデアから最高の理性が流出して、人間精神に授かると考える。イデアとは物の原型のようなもの。だが、人間精神は、もはや原型をとどめず、純粋な姿すら想像できない。プラトンは、もともと完全な理念を持った理想イデアなるものがあると考えた。それは、遺伝子コピーの不完全性を示唆していたのだろうか?遺伝子の継承は、ある確率の低いところで障害を創出する。というより、全ての人間はなんらかの障害を持っていると言った方がいい。純粋理性というイデアは、生物の進化の過程でだんだん悪徳を身に付けて、悪魔というイデアへと変貌を遂げのるか?
人類は科学の進化とともに客観的な理性を追い求めてきた。だが、人間社会は破壊のカオスへと邁進し、理性は主観の領域を脱することができないでいる。文明が高度化すれば大量の情報が溢れ、解析能力が追従できず認識能力が機能しないとは皮肉である。
そういえば、幼き時に失明した人が、医療技術の進歩で大人になって手術を受けて目が見えるようになった時、物は見えるのだが、それが何かはっきりと認識できないという話を聞いたことがある。目の前にある道の段差があるのは分かるのだが、具体的にどのような危険があるのかは認識できないのだそうな。なるほど、情報とは、認識能力と結びついてはじめて意味を持つわけか。
ところで、障害者の体の不自由さには寛容でいられるのに、政治屋の精神の不自由さにムカつくのはなぜか?それは、障害者が自分の欠陥をを認めているのに対して、政治屋が自分の欠陥を認めないばかりか、他人を蔑むからであろう。互いの似たような行動を罵り合うという醜態を曝け出しても平気なのだから、奇妙な神経の持ち主である。政治番組は、青少年に配慮してR-18指定するがよかろう。

5. 余計な認識力
海を眺めていると、波がうねる姿には永遠の時間を感じる。そして、子供の頃から、よく思うことがある。海の果てと空が交わる地平線は、地球が丸いからあのように見える。では、地球が永遠に平面であれば、どのように見えるのだろうか?今見える地平線よりは上に見えるだろう。では、どのくらい上に見えるのか?海面が永遠に続けば...と想像しながら、だんだん視線を上げていき、ついには空を見上げる。
だが、無限に平面が続いたとしても、幾何学的には地平線がどこに見えるか簡単に説明できる。平面上を上から眺めている視線の位置より、高いところに地平線が現れるわけがない。ただし、ユークリッド空間を前提した場合だ。
では、非ユークリッド空間ならば、どのように見えるのか?天井まで海面が拡がっているかもしれない。いや、眺めている位置そのものが、海底なのかもしれない。浦島太郎が海底都市の竜宮城に行ったというのは、実話の可能性はないのだろうか?彼は、非ユークリッド空間を認識できる能力を持っていたのではないか?そして、余計な空間認識を持っているがために、乙姫に誘惑されて自らの未来を破滅させてしまった。
認識能力が高すぎるために、おもしろい例がある。絶対音感を持った人間は、あらゆる音が音符で認識できるという。自然音と人工音が混在する街中で、音質の合わない合成音を聴きながら不快感を募らせるのだそうな。余計なものが聞こえなければ、幸せでいられるだろうに。なるほど、老人化すると耳が遠くなるというのは、余計な認識能力を放棄するという精神の到達した答えなのかもしれない。
生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ地球は消滅するだろう。それでも人類が存続を望むならば、突然変異によって感じられなかった次元を認識できるようになるかもしれない。知恵や知識を蓄積すればするほど、次の段階へと認識を高めようとする。余計な認識能力を身に付ければ悩みも増え、同時に余計な欲望も生まれる。やはり、人間は悪魔へと進化しながら自滅する運命にあるらしい。

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