ゲーテ曰く、「たやすく獲得されたものは気が向かない。無理に手に入れたものがひどく喜ばす。」
はたして、理解していないものを、所有していると言えるだろうか?恋愛は相手の心を所有していると錯覚するところから始まる。そして、愛する者が幸せになるだけでは満足できない。自分が介在できなければ不幸になることすら望む。まるで自分自身を救世主に仕立てるかのように...
「君の力になりたい!」とは、相手の心の中に入り込み精神を支配したいという強奪欲の顕れである。したがって、禁断の愛ほど燃え、成就した途端に興醒める。そして、同じことを繰り返し、いまだ学習能力を獲得できないでいる。
エゴイズムとは、人間特有の「所有の概念」と「盲目の原理」が複雑に絡むことによって成り立つ。スピノザは、「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」と語った。いや、人からも愛されることを願ってはならないのかもしれない。
では、人生で所有できるものなんてあるのだろうか?アダム以来、人間はずっーと誘惑されっぱなしだ。神の所有物である時間は、人間の労働のために売り買いされる。ルネサンスが人間性の尊重や個人の解放を目指したにもかかわらず、それが進化すると尊重や解放は金持ちの所有物となり、貧乏人はより一層厳しく管理されるようになった。
そして、もっとも有効な金の使い方とは、「愛を金で買う!」ってことさ。...作者不詳!
1. 縄張りの原理
所有の概念には、縄張り意識が深く根付いている。その顕著な例は土地の所有である。歴史を振り返れば、戦争の原因のほとんどが領地をめぐってのものであった。土地の所有を基礎とする社会では、必ず不法侵入の法律が制定される。そして、土地を所有しない者には存在する場所すらない。いや、生まれてくる場所すらない。
所有の概念は、人と人との間に隔たりを作る。権力欲の強い官僚的な社会ほど、縄張り意識が強烈で、醜い境界線を露出する。既得権益にすがり、それを誇示し、自らの居場所を堅守する。境界線の幻想が保障されないと不安でしょうがない。だから、縦割りという無意味な境界線を設けて、そこに安住を求める。
空き地で遊んでいる子供を叱った時、「地球はみんなのものなのに、なぜ?土地は人のものなの?」と素朴に問われたら、大人たちはどう説明すればいいのだろうか?資本主義社会の基本原理には、自由競争と私有財産の概念がある。しかし、その論理には、一部の者に他の者が生きていくのを妨げる権利があるということを主張している。所有する権利とは、独占する権利を意味するのだから。法律には私有財産が保証され、私的所有権では処分や担保などいかなる行為も許される権利が定められている。
だが、マイホームを持ったところで、許しがたい固定資産税の負担を強いられる。自動車を購入したところで、車検と自賠責保険がつきまとう。住宅や自動車の購入を促進すれば、経済が活性化され国庫を潤す。所有してんだが?させられてんだか?ところで自動車重量税ってなんだ?地球に対する税金か?税が枯渇すれば、そのうち体重にも税がかけられるかもしれない。
そして、ここから得られる論理的帰結は、あらゆる私有財産は国から借りているに過ぎないということになる。そぅ、生まれながら所属させられる国家という奇跡的なシステムによって...
2. 命の所有
昔々、偉大な王が死ぬと、そのあとを追う殉死という風習があったという。一人の王の命を最も尊いものとし、すでに失われた一つの命のために、多くの命が失われた。やがて人類は、民衆の命も等しく尊いものであることを学び、埴輪などの代替品を一緒に埋葬するようになり、殉死の風習は廃止された。
国々が戦争に憑かれた時代には、命よりも名誉を重んじた。民衆は国や指導者の名誉のために戦って死んだ。人物の魅力に忠誠を誓う伝統もあれば、血筋というだけで無条件に忠義を果たす伝統も現れた。
そして、ついに最も尊い所有物を獲得したかに見えた。今では、人々の命の尊さは同じという建前の下で、最も尊いものは自分の命とされる。つまり、殉死の時代と命の優先順位が逆転しただけのことだ。人類は、いまだ命を格付けする呪縛から解かれないでいる。命の価値ですら、いまだ恒久普遍の原理に到達できないでいる。
では、命よりも尊いものがあるとすれば、自分の命が危機に曝されても沈着冷静な態度がとれるだろうか?それが人間の尊厳というやつか?誇りというやつか?
3. 義務と誇り
人間には義務がある。逆に言うと義務がなければ人間は生きていけないのだろうか?すべての義務を放棄した時、そこには何が残るのだろうか?生物の究極の義務は、生きていくことである。それは、生きる上での最低限の欲望である。
では、生きる上で最低限の所有とは何か?それが「誇り」というやつか?最低限の欲望を「誇り」に変えることはできるだろうか?
「誇り」を明確に観察できるものに「地位」がある。ただ、それを見栄で武装すると単なる看板と化す。地位がある階級だけで受け継がれていくと、硬直した社会システムが構築される。いわゆる世襲制と呼ばれる現象だ。形式や慣行が、いつのまにか無条件で地位を獲得するようになり、それを永続的に繰り返さないと精神が落ち着かなくなる。ある特権階級は社会システムそのものを所有しているという幻想に憑かれ、庶民層では「生まれつき奴隷」という概念が根付く。なーんだ、アリストテレスの時代と変わらんではないか。特権階級の連中はそれが実体のないものだと知っているに違いない。だから、一度獲得した権益をけして離そうとはしない。
しかし、地位が正常に機能すると、これほど効果的に「誇り」を示すものはない。社会的地位には義務が生じるからである。義務があるところには責任が生じる。責任があれば生き甲斐を感じ、それが誇りとなって精神を支えることになろう。
では、地位に相当した義務がなされているか?これが問われる。誇りの原理を知らなければ、過去の栄光にすがって生きるしかない。地位という所有物は、実に不思議な性質を示すもので、「見栄」にも「誇り」にも作用する。
ところで、自分の命に危機が迫っても、勇敢で誇り高く行動する人たちがいる。それは、義務が誇りにまで高められた結果であろうか。彼らの例は、人間が生きる上で最低限の所有とは何かを教えてくれているような気がする。地位や財産などすべての所有が虚無であることを悟れば、真の所有がなんであるかを知ることができるだろうか?
4. 無を存在とし、存在を無とする
ブランド品を持ち、高級車を乗りまわし、豪邸に住みたいと願うのは、俗世間の酔っ払いの欲望である。これらは、他人から奪い取ることによって実現する欲望である。想像力が豊かで、自ら創造物を見出すことのできる芸術的感性を持った天才たちは、他人から奪い取る欲望が薄いかもしれない。奪い取る欲望が働く前に、自分で創造してしまうだろうから。凡人には「無い物ねだりの原理」が働く。高級志向は金で解決できるが、才能は金で解決できない。ここには、受動的な欲望と能動的な欲望がある。「飢えは最もすぐれた料理人である。」と誰が言ったかは知らん。
人間は、あらゆる分野において利便性を求める。この欲望は、社会を進化させる原動力となってきた。そして、利便性は、仮想化社会へと邁進させる。人類が貨幣という交換システムを発明した時、仮想化が始まり、あらゆる価値が貨幣で計測されるようになった。現在では、その貨幣ですら電子化が進み、ますます実体の見えないものとなった。実体が見えないだけに、「無を存在とし、存在を無とする」奇妙な価値原理が働く。人間は、社会が複雑化し疎外を感じるようになると、幻想に価値を求めるのだろうか?近代社会は、見事なまでに幻想化された価値を次々と編み出す。だが、実体のない虚無を欲すれば、欲望は無限となる。ここに金融危機の原理がある。
自己が存在するかも自信が持てないから、空虚なものに憑かれるのか?何も語らずに何かを語ろうとしたり、修行や鍛錬で無意味な苦難の道を選んだり、自己の存在に絶望したり、実体のない信頼を拠り所にしたり、確証のない安全に身を任せたり、検証できない事に自信を持ったり、愛なるものに無限の期待をかける。仮想化社会は、哲学的な実存問題をますますややこしくしやがる。人間はますます実体から離れていく。いや、そもそも実体なるものは存在しなかったのかもしれない。
5. 理性という所有物
人間は、能力を所有として扱い、無能力を欠如として扱う。ここにも一種の所有の概念がある。霊魂の宿る生命体には理性が働くと信じ、理性を所有の対象とする。だが、理性が人間の所有物なのかは疑わしい。むしろ自然に属するもので、理性を獲得しようと考える時点で獲得できないことを意味してはいないだろうか?
人間よりも劣るとされる動物は、生きる上で必要なものだけを欲する。なんと合理的か。おそらく彼らは、理性が何か?などと迷わずに自然に実践しているだけであろう。
となると、理性を持たない生命体が理性に憧れるのか?おまけに、それを所有物などと考えるのか?無意識無想こそ、もっとも尊い精神なのかもしれない。存在認識とは、人間を進化させ、同時に退化させるもののようだ。むかーし、人間は進化していた時代があったに違いない。今となっては、その時代が懐かしい。
2011-01-16
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