2011-01-19

「知識と思考」チラリズムこそ知への渇望

ゲーテ曰く、「記憶は消えてしまってもよい。現在の瞬間の判断があやまらなければ...経験したことは理解した、と思い込んでいる人がたくさんいる。」
知識とは実に脆いものである。その多くが自分自身では実証できないのだから。もし、今までの知識が否定されたならば、今の自分の思考はどこへ向かうのだろう?
孤独に生きる人間にとって不幸なことは、想像力の欠如であろうか...

知識とは、記憶である。ここで言う記憶には、頭の中に留めるものの他に、整理して即座に知識の手掛かりを追えるような、自ら経験的に編み出した検索様式も含めるとしよう。
思考とは、知識を活用する方法である。よって、まったく知識のないところに思考を働かせることは難しい。知識が思考に結びついた時、知識は認識として働く。知識を基に思考が働くこともあれば、足らない知識を模索するために思考が働くこともある。そして、問題と対峙しながら思考の経験則を組み立て、知識は知恵として蓄積される。したがって、思考は知識から知恵を得るための掛け橋となろう。
知恵から実践的な技術や理論が発明される。実用的でなければ意味がないと主張する人も少なくないが、「優れた暇つぶし」というものがあってもいい。偏った実用主義に陥れば、すべての娯楽までも否定することになり、人間の存在意義に立ち入ることになる。
人間にとって、普遍的な知識を獲得することは最も困難なことかもしれない。それは、真理が感覚的なものから、最も遠いところにあるように映るからである。慣習と本能が役に立たなくなった時、はじめて動物は知能を動員する。変化を欲しないところに、知能は生まれない。したがって、知性とは、己の無知を知ることから始まる。完全に人間社会が自然と調和し、争いのない平穏な社会が実現した時、人間はあらゆる知能を放棄し精神までも失うであろう。これを理想主義と言う。

1. 思考と無知
知識と思考を深く結びつけるものが、抽象化の概念である。それがいつから始まったかは死らんが、人類は有史以来、抽象化を行ってきたのは間違いない。経験から分類がはじまり、過去の似通った現象を引っ張り出しながら学習能力を身に付け、知識を得ることによって思考を活性化させてきた。
だが、知識が豊富だからといって、思考が働くとは限らない。外面から見ても、どれほど思考しているか測れない。物差しで測るならば、知識量を測る方が分かりやすい。だから、有識者と呼ばれる人々が尊敬される傾向にある。
しかし、知識が思考を邪魔することもある。知識を過信すれば、思考力や判断力が横暴になる。知識に囚われ過ぎて思考することを忘れてしまい、更に知識が信仰と結びつくと思考を停止させる。強い思い込みによって、目先の不幸や不愉快なものが見えなくなるとすれば、それは幸せというものか。なるほど、宗教は永遠に廃れることはないだろう。ならば、無知も捨てたもんじゃない。
ここが、知識と思考の関係のややこしいところである。知識が完璧であれば、それもよかろう。だが、知識を再検討した時に、新たな見解が見えてくる。知識は、認識と再認識の狭間でさまよい続ける。したがって、知識を得れば得るほど物事が分からなくなっていき、自信を失うのも道理というものである。
知識を得る欲望が強ければ、分からないことは気持ち悪いものとなり、自らの能力に絶望するだろう。しかし、結論が得られない可能性を覚悟できれば、むしろ分からないことは心地良いものとなる。学問は、苦悩する過程にこそ意義がある。これこそ人生の醍醐味であり、「究極の暇つぶし」というものであろう。知恵者は知識の量で競ったりはせず、知識を蓄積するよりも思考する充実感を楽しむであろう。知識を羅列したところで精神の解放はできないのだから...

2. 知識教育と思考教育
一般的に、日本型教育の弊害は、記憶至上主義に走り、思考することを忘れさせると言われる。その通りであろう。入学試験はだいたいがクイズ形式である。クイズ番組が流行るのも、そうした国民性があるからかもしれない。実際に、社会では知識を頭に詰め込んだ量が多いほど優位に立てる。
では、教育の場で思考を習慣づける方法はあるのか?集団で思考すれば思考は誘導され、本当に思考しているのかも疑わしい。思考が誘導されるのであれば、それは洗脳となる。大人の教師が発言すれば、優等生ぶる子供たちの意見はたちまち収束する。他人の意見を参考にできるのは、自らの意見をある程度確立した時であろうか。
もし、教育の場でやるとしたら、答えの見つからない議題をぶつけてみるのは有効であろう。論理的に組み立てられた意見を出し合うのは楽しいものだ。だが、討論番組では誹謗中傷といった感情論を曝け出す。三人称で一般的に語り会えばいいものを。そもそも哲学的問題とは、矛盾と対峙するもので答えが見つかるはずもない。有識者と呼ばれる人たちは、話し方が穏やかなだけに欺瞞するテクニックは抜群だ。中には感情を剥き出しに喋る人もいるが、分かりやすいだけにその方が良心的とも言える。
ところで、思考の訓練では、「フェルミ推定」がコンサルティング会社の面接試験や教育などで用いられるという話を聞く。この言葉は、フェルミ粒子で有名な物理学者エンリコ・フェルミに由来する。実際に調査の難しいとらえどころのない量を、短時間で論理的に概算して、大胆に推定するというものである。例えば、「ある都市にピアノの調教師が何人いるか?」という問題を推定するには、都市人口にピアノを持つ世帯の割合、調律は一台当たり年に一度、調律師が一日に調律する台数といった数字を大胆に仮定する。これは、正しい答えを求めるのを目的とするのではなく、論理的解決方法の瞬間能力を鍛える方法として用いられる。最初に飛びつく思考の欠片がその方向性を示し、問題解決能力の重要な鍵となるわけだ。思考の運動神経といったところか。
それはさておき、現実に、直面する事象のほとんどは答えが一つではない。答えが見つからないことを不安に感じるのではなく、楽しむ心を養いたいものである。
まず、思考は孤独の空間から始まる。思考を深めれば、下手をすると精神病との境界線をさまようことになろう。しかし、学校教育は、ひたすら集団で生きることを教え、孤独を否定する。現実に孤独は存在し、孤独を生きぬく術は自ら編み出すしかない。では、その術が見つからない時はどうすればいいのか?宗教家や友愛型人間が廃れない理由がここにある。

3. 速読法と速愛法
よく、読書のしすぎからは、実践的な知恵が得られないという意見が聞かれる。確かに、芸術作品について語られた書物を読むよりは、作品そのものに直接触れた方がいいだろう。間接的に伝わった知識には、流布や偏重したものも少なくない。とはいっても、すべてを実践から学ぶことは不可能である。理論に偏り過ぎても、実践に偏り過ぎても、合理的な思考は得られないだろう、ぐらいのことは言えるが、その按配は個々の置かれた環境とセンスに委ねられる。
ところで、愛する人と一緒にいると時間が止まってほしいなどと願うのに、愛する対象が本となると、わざわざ楽しい時間を奪うかのような速読法なるものがもてはやされるのはなぜか?冊数にとらわれる人が多いということか?まったく余計な方法を提案してくれるものだ。映画や音楽を早送りしたところで、味もそっけも無い。読書を知識を得る手段としか思えないのは、なんとも寂しい。そういえば、夜の社交場では速愛法なるものを実践している人がいると聞く。

4. 思考の制御
思考の段階で、最も理想的な精神状態はフロー状態であろうか。無我の境地とも言うべき、時空を超えた心地良さが得られる。しかし、精神を自由に制御することはできない。雑念が邪魔して、どうしても集中できない時がある。所詮、精神は気まぐれに支配されるわけだ。それでも、ある程度誘導することは可能であろう。最初から精神の誘導を諦めていては、フロー状態になる機会までも失う。
ただ、完全に精神が集中したとしても、効果的に思考が得られるとは限らない。連続して集中していると、思考が堂々巡りをはじめる。将棋の棋士は、長い持ち時間の中で意識的に空白な時間をつくるという。脳をリフレッシュさせて、新たな思考を呼び込むわけだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識がリセットの機会を妨げることがある。
また、思考する上で、優れた環境というものがありそうだ。普通に想像すれば無音状態ということになろうか。一旦集中してしまえば雑音など気にならないが、割り込みの発生する環境ではフロー状態へ誘導することは難しい。
ところで、音楽は思考の妨げになるとよく言われるが、それは本当だろうか?トム・デマルコ著「ピープルウェア」では、おもしろい実験結果を紹介していた。それは、プログラムのような論理思考は左脳が働き、音楽のような直感的なものは右脳が働くので影響がないかもしれないという実験だ。ただし、突然のヒラメキによって独創的に問題を解決することがあるので、右脳が音楽に占有されていてはその機会を失うとしている。とはいっても、音楽は気分転換に絶大な効果がある。そこで、気分を乗せることが優先か、思考することが優先かは、状況によって使い分ければよかろう。そのためには、自らの精神状態を冷静に判断するという、最も難しい問題を自ら課すことになる。思考を制御するとは、自らの思考によって行うものであり、自己言及に嵌る矛盾からは逃れられない。

5. 思考のアプローチ
人間は、複雑な対象を思考する時、どのような方法を用いるだろうか?対象の正体を暴くにしても、いきなり全体像を把握することは難しい。そこで、古くからの思考方法に、抽象化という有効な方法がある。抽象化とは、対象を段階的に、あるいは階層的に分割しながら解析していく思考のアプローチである。
かつて、技術業界ではウォーターフォール・モデルという設計思想が流行ったことがあった。ひとことで言えば、上部から順番に決定していく方法である。そこには、上流工程に間違いがないということが前提される。しかし、現実には、下部が決定できないと、上部が決定できない場合が往々にある。そこで、現在ではトップダウンとボトムアップの双方から同時にアプローチすることが有効とされる。
ボトムアップ的な思考は、読書をしている時にも現れる。一行ずつ読み続けながら、作品の全体像を模索する。技術文献などでは目次や序説で全体像をある程度見渡してから細部を読む場合もあるが、文学作品では先が見えない方が意外性があっておもしろい。映画でも、シーンの積み重ねで作品の全体像が見えてくる。
その一方で、トップダウン的な思考は、絵画を味わう時に見られる。全体像を眺めながら、細部を覗くように鑑賞する。人によっては細部から眺めるかもしれないが。
思考のアプローチには大きく分けて、読書風の眺め方と絵画風の眺め方があるように思える。いずれにせよ、立体的な視点が要求され、着眼点の按配はその人のセンスに委ねられることになろうか。いや、気まぐれか。

6. 思考過程の披露
プレゼンテーションは、思考の過程を披露する場と考えている。一般的には、トップダウンで説明する方が分かりやすいとされる。
昔、まず全体像を把握しやすいようにビジュアル的な手法を好んでいた時期があった。ボトムアップで思考した手順をわざと隠して、トップダウンでコンパクトに整理する。
ところが、世の中にはいろんな人がいるもんだ。論理思考の優れた人で、ビジュアル的で直感的な表現では逆に不明瞭というわけだ。確かに、分かりやすい表現は、詳細部の論理性や厳密性を犠牲にする。むしろ論理式の羅列の方が、隙なく全体像をつかみやすいといったタイプだ。いきなり論理レベルまで思考を深めることができるのには感服させられる。こういう人は天才型であろうし、、おそらく社会風潮などに惑わされることもないのだろう。客観的に捉えようとすると、分かりやすい説明というのは、むしろ迷惑な話なのかもしれない。
プレゼンテーションでは、論理の隙をどこまで見せるか、その按配が難しい。どんなに分かりやすく誘導しようとも、聴衆の能力に委ねるしかない。その意味で、宗教の勧誘には優れたプレゼンテーション能力が具わっている。分かりやすくインパクトのある有効な言葉を選びながら、そのまま鵜呑みにさせて思考する隙を与えない。となれば、民衆を誘導するのに体系化した手法がありそうだ。それがプレゼンテーションのハウツウものというものか。歴史的にも、独裁者の出現は優れた演説から始まる。だから、天の邪鬼は一般受けしやすい方法に反発するのだ。

7. 垣根を越えて
人間が身近な世界に閉じこめられると、ろくな思考が生まれないというのは本当かもしれない。近親で結婚すると不都合な遺伝が受け継がれるように。企業体でも重役が同族で占められると弱体化する傾向がある。世襲制で良い思考が生まれにくいのは、知識の同族化の弊害ということになろうか。官僚的な体質が蔓延るところには、知識の縦割りや構造的な縦割りといった現象が起こる。ホンダの創業者、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏は、けして身内を入社させなかったという。もっとも、その息子は息子で「無限」を設立している。こうした精神は社員たちがよく観察しているもので、企業文化に反映される。
また、どんな分野の専門家でも、素人の発想を参考にすることがあろう。数学の法則や証明は、アマチュア数学家の着想が基になったものも多い。プロとか素人の垣根を持った時に思考は偏見に陥る。改革会議で、第三者の出席を仰ぐのも、新たな発想を期待するからであろう。だが、きまって「外部者は内部事情を知らないから、そんなことが言える!」などと罵声を浴びせかける。つまり、表面的に改革を訴えながら、実際には都合の良い範疇で改正したいだけなのだ。
ブレーン・ストーミングの暗黙のルールには、「つまらない!」、「非現実的だ!」といった意見を禁止し、むしろ馬鹿にされるような笑われるくらいの意見を奨励したい。

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