2011-01-23

独創性について

川端康成は、「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代わりに、真実を失ったかもしれない。」と語った。
しかし、言葉を操ることによって新たな境地へ導かれることもある。小説は、思考を強制しながら、「ついてこれるかな?」と嘲笑うかのように多くの視点や感覚を提示する。そして、読者の自由な精神を解放してくれると同時に、表現形式の檻に閉じ込めやがる。
芸術家は、鑑賞者を束縛するのが好きなS系というわけか。泥酔したM系には、たまらんぜ!

感動する作品の前で感想を洩らそうものなら脱力感に襲われる。芸術とは鑑賞者を沈黙させるものらしい。
サルトル曰く、「詩とは負けるが勝ちである。そして真正なる詩人とは、勝つために、死ぬまで敗れることを選ぶ者である。」
絵画を観ても、視覚だけで味わっているわけではない。音楽を聴いても、聴覚だけで味わっているわけではない。そこには鳥肌が立つような何かがある。五感を総動員しながら、別の総体のようなものがうごめく何かが。これを第六感と言うのかは知らん!
それは、味わい深い酒から受ける刺激に似ている...ボトルから注がれるトクトクという音律がスイッチを入れ、氷に触れる冷たい感触が心を引き締め、酒の色、香り、味と調和する。おまけに、バーの照明が精神をグラデーションに変化させ、BGMが孤独感を演出する。葉巻の煙は、意識を煙に巻きながら朦朧とさせ、幻想の世界へと誘なう...
独創性と芸術性には、精神領域において深くかかわりがありそうだ。作者は自らの構想を具体化するために、社会風潮や自然や思想を描写するだけだ。なのに、その行為に魂が宿った時に芸術が顕わとなり、独自の小宇宙が形成される。また、快い感覚と満足する感覚とは違うようだ。大衆は前者を要求するが、芸術家は後者を要求するのだろう。
ポール・ヴァレリーは、「他の作品を養分にすること以上に独創的なものはない」と語った。偉大な芸術は、模倣されることを自然に受け入れる。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つ。それに耐えうる、それに値するからこそ真の芸術というわけか。
20世紀最高のヴァイオリニストとも言われるクライスラーは、昔の曲を自作に一部引用して新発見と銘打って披露する茶目っ気があったという。騙されて憤った評論家には「名前は変わっても、価値は同じだろう!」と答えたとか。
独創性とは、過去からの知識や感性の蓄積によって獲得できるもので、そこには「模倣の原理」というものが働くものらしい。ただし、「猿真似の原理」とまったく異質であろうことは想像に易い。

1. 独創と模倣
研ぎ澄まされた感覚は、どのように獲得されていくのだろうか?まず、子供の行動は大人の真似事からはじまる。子供は、いつも「なぜ?」と絡んでくる鬱陶しい生き物だ。しかし、その行動様式が「あらゆる思考は何かに疑問を持つことから始まる」ということを教えてくれる。「子供は最も素朴な哲学者」と言うことはできそうだ。
現代人の発想力は、先人たちの知恵や経験の上に成り立っている。あらゆる独創的なアプローチは、過去の天才たちの哲学や経験によって支えらている。それは、過去の知識にほんの少し新たな発想を加えることから始まり、その積み重ねの総体として独創性なるものが生起する。「コロンブスの卵」のように、造作もないことを最初にやる冒険心が発想力を育む。したがって、独創性の根本原理は、発想と模倣の調和を求めるだろう。そして、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったものや、感動するものに出会えるかにもかかっている。あらゆる経験は、自己と結びついて独自の解釈を加えずにはいられない。独創性とは、他人との差別化から自我の正体を知ろうとする一種の方法論なのかもしれない。神は、人間に自己を知ろうとする永遠の衝動を与えたというわけか。
ゲーテ曰く、「どんな人間にも、自分の見たものを模倣しようとする漠然とした欲望が働いている。しかし、そういう欲望があるからといって、企てるものを達成する能力が備わっている証拠にはならない。名手の演奏でもあると、きまって同じ楽器を習い始める者が現れる。そして、多くの人が道に迷う。」

2. 死者たちの言葉
あらゆる独創性と言われるものは、そのルーツを遡ると、ほとんど古代の哲学的思考から継承されていることが分かる。自分の発想が独創的だと自信を持っていても、古典を漁っているうちに似たような思考に出会って、しばしばがっかりさせられる。どこかを経由して回り回って先人たちの影響を受けているのにも気づかない。死せる世代の伝統は悪夢のように生き長らえ、生きる者の思考に亡霊となってのしかかる。
ゲーテ曰く、「たとえ君がカントの著書を読んだことがないにしても、カントは君にも影響を与えているのだ。」
精神の体系化は、人間の寿命によって妨げられる。過去の知恵や知識を学ばなければ、精神の進化は望めないだろう。したがって、自己の優位性と生まれつきの独創性を信じたければ、死者たちの言葉に耳を貸さず、余計な知識を身につけぬことだ。

3. 芸術と技術
カント曰く、「美の学があるのではなく、美の批判だけがある。また美的な学があるのではなく、美的な技術だけがある。」
機械的技術は勉強と習得から得られるが、美的技術は天才だけのものというわけか。芸術は自然と戯れるが人工的な行為であって、自由と自然を感じさせる心的技術ということはできそうだ。ただ、芸術家の才能にも限界がある。芸術の限界を覗けるのは、天才の特権ということになろうか。美の真理が天才にしか見えないとすると、凡人には芸術作品の一部しか味わえないことになる。そして、作品を批評するにしても、作品を語っているようで実は自己を語ることしかできないのだろう。批評とは、自己の気分や趣味に従って意見を述べているに過ぎないということか。
天才は、独自の価値観を一般大衆に強制しやがる。にもかかわらず、教育家や道徳家の強制とはまったく違って、快いのはなぜか?実は強制しているのではなく、「勝手に覗けば!」と鑑賞者に自由を与えているのか?
芸術の技術を習得したからといって、芸術が生み出せるとは限らない。流派があるとすれば、芸術家の数だけあるということになろうか。芸術が人を惑わせるという意味では、人を欺く行為と似ている。芸術家は詐欺師か?詐欺に会っても、心地良ければええではないか!などと言えば、宗教にも通ずるものがある。芸術的感覚とは、実に際どいところをうごめいているものだ。

4. 芸術と自然
芸術では、よく自然主義という言葉が使われる。だが、どんな芸術にも人間の恣意的操作が加わる。人間そのものが自然的な存在なので、素直に精神の感じるままに描くことができれば、それもまた自然主義ということにはなるのだろうけど。少なくとも、見えるものと描くものとは違い、芸術家にしか見えない領域がある。
ゲーテ曰く、「想像力は芸術によってのみ制御される。」
芸術家は自分の信念への素直さと頑固さの二面性を見せる。ただ、精神の解放を封印していては、いくら豊富な情報があっても想像力は働かない。芸術性は、精神を曝け出すことが鉄則であろう。そして、独創性とは、自由気ままに精神を解放することであろう。ここに、器用な職人で終わるか芸術家になれるかの分かれ目がありそうだ。しかし、精神を解放することは難しく、自由意志で制御できるものではない。芸術的思考は自然に醸し出されるものであり、独創性を意識した時点ですでに独創性は失われていることになろうか。
ところで、芸術と自然には、なんとも不思議な関係がある。魂を注ぎ込まれた作品に感動しても、描写対象の自然にはあまり注意を払わない。些細な日常を文豪が描写すると、たちまち芸術に変わる。
パスカル曰く、「絵画とは、なんと虚しいものだろう。原物には感心しないのに、それに似ているといって感心されるとは。」
ここで、ある映画のシーンを思い出す。映画「小説家を見つけたら」で、ショーンコネリーがタイプライタをリズミカルに叩きながら吐く台詞である。
「とにかく書くんだ。考えるな!考えるのは後だ!ハートで書く。単調なタイプのリズムでページからページへと。自分の言葉が浮かび始めたらタイプする。」
おいらは、この数分ぐらいのシーンが好きだ。芸術的精神とは、自然に現れることを願い、待つしかないのだろう。そして、酒の愉悦感に浸りながら精神の高まりをひたすら待ち続け、いつのまにか意識を失い、気がついたら朝だった。アル中ハイマーには縁のない精神というわけか。

5. 発明家と特許権
真の知識は、純粋な知への渇望から育まれてきた。知識が社会で実践されると、そこには脂ぎった欲望が結びつく。金儲けをしたければ、発想力よりも生産力の方が近道なのだ。そして、発想と模倣の協調性のバランスが崩れると、猿真似に憑かれる。
したがって、偉大な発明家や芸術家が伝統的に貧乏であったことは、なにも驚くことではない。死後に功績が認められるケースですら珍しくない。彼らは特許権を放棄してきた。古代哲学を特許の対象とするならば、ギリシャの経済危機は一気に解決して国庫を潤すであろう。
特許権は本当に主張されるべきところでなされているのか?生産でうまく利用した者が、特許権を主張しているに過ぎないのではないか?人類の遺産を残してきた多くの偉人たちが貧乏に喘いだ。にもかかわらず、現代社会では経済的な成功者が賢人とされる。人間社会には、概して「死人に口無しの原理」が働く。

6. 都合のよい個性
時々、若者に個性がないとか、発想力がないと嘆く大人を見かける。そういう環境を提供しているのかも疑問だが。個人の理念は、個々の生活環境や生きてきた経験によって形成されるものであろう。となると、そこまで人間社会は画一的なのか?と疑いたくなる。そもそも、個性がないなんてありうるのか?個性が目立つか目立たないかといった特徴はあるだろうけど。
個性のない集団ならば、コントロールしやすくてええではないか。ちなみに、おいらの周りは個性的な奴らで鬱陶しい!個性を発揮できる人は、互いの個性を発見しながら相乗効果を生むであろう。となれば、嘆いている大人たちが自分に個性がないと宣言していることにならないか?大人たちが求める個性とは、自分の想像する行動規範に収まりながら、自ら考えなくても提案を都合よく出してくれる人材を求めているに過ぎない。

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