2011-01-30

もしも、アル中ハイマーが禁断の金融体験をしたら...

もしものコーナー...だめだこりゃ!

勝負事には、絶対的な鉄則がある。それは「精神の風上に立つ!」ということだ。そこには、虚実の駆け引きが生まれる。己の虚を実と装い、実によって敵の虚を衝く。これが、孫子風の「主導性の原理」である。それを実践するために、古くから諜報活動が重視されてきた。
市場がゼロサムゲームであるからには、ここにも情報による「主導性の原理」が働く。だが、高度な情報化社会では、偽情報が溢れ、情報の持つ意味は不可解となり、群衆の感情エネルギーが巨大な虚としてうごめく。複雑化した金融商品の価値は欺瞞され、もはや市場原理は客観的価値の計測という機能を果たしていない。おまけに、市場は国際機関ですら手に負えないほど巨大化してしまった。相対的価値観が虚無に向かえば、欲望は無限となる。消費は青天井となり、政府の打ち出す経済政策は消費量を煽る一辺倒という始末。宇宙の膨張とともに人間の欲望も膨らむというのか?では、宇宙が収縮に転じれば、人間にも理性が獲得できるだろうか?
...「虚実の理、および主導性の一般理論」、詠み人知らず...より抜粋。

1. 禁断の金融十か条
フラクタル幾何学の父ベノワ・マンデルブロ氏が亡くなったと大々的に報じられたのは、昨年の秋ごろだろうか(2010.10)。彼は、自ら経済学者と名乗り、金融工学の科学的未熟さを指摘した。そぅ、偉大な数学者が経済学に殴り込みをかけたのだ。そういえば、数学者ハーディは、著書「ある数学者の生涯と弁明」の中で、あのケインズを友人と呼び、彼もまた数学者から出発していると語っていた。
マンデルブロは、著書「禁断の市場」の中で「禁断の金融十か条」を掲げる。
  1. 市場価格とは乱高下するものである。
  2. 市場とは、きわめてリスクが高いものである。既存の金融理論ではけっして起こるはずのないリスクが現実には起こる。
  3. 市場のタイミングはきわめて重要である。巨額の利益と損失は短期間に集中して起こる。
  4. 価格はしばしば不連続にジャンプする。そして、それがリスクを高くする。
  5. 市場での時間は、人によって進み方が違う。
  6. いつでもどこでも市場は同じように振る舞う(各業種や各市場で連動性がある)。
  7. 市場は本来不確実であり、バブルは避けることができない。
  8. 市場は人を騙す。
  9. 価格の予想は無理と思え。しかし、ボラティリティなら予測可能だ。
  10. 市場における価値は、限定された価値である。
実際に市場を体験すれば、大方このような結論に落ち着くだろう。経済学に触れれば、いかに流行り廃れの激しい学問であるかが見えてくる。金融工学が金儲けのツールとしてあまり役に立たないことは、市場原理が証明してきた。しかし、ちょっと視点を変えてリスク管理ツールとして眺めれば、そこそこ活用できることも確かである。人間の持つ合理性は、防衛本能の中にヒントがあるような気がする。
そもそも宇宙原理において、人間の能力でランダムウォークを完全に予測することは可能なのか?数学上の未解決問題「リーマン予想」でも証明できれば、あるいは可能かもしれない。ちなみに、リーマンとは、あのリーマンショックとはまったく関係ない。いや、金融危機までも予測していたのかも?それは、素数分布の振る舞いと純粋ランダム性の法則性を解く可能性を秘めた仮説である。もし、純粋ランダム性が科学的に説明できれば、あらゆる複雑系の正体が解明できるかもしれない。なんとも夢のような話だ。しかし、この仮説はいまだ証明されていない。ならば、金融アナリストたちが占い師の域を脱しえないのも仕方があるまい。

2. 禁断の金融体験
マンデルブロが経済学の勉強を始めたのが30歳頃だそうな。おいらは30代前半であった。独立して事業を行うには経済学の勉強は必要だと考えた。最も嫌いな分野だけど...
会社形態を模索するならば、株式市場を体験するのが手っ取り早いと考え、10年以上前から実践している。経済学の勉強よりも金儲けに目を奪われ、投資術にも嵌った。ソロスやバフェットといった大投資家の書籍を漁り、バリュー投資の父と呼ばれるベンジャミン・グレアムに嵌ったこともあった。当初、市場原理が「価値の重力物理学」に従うと信じてファンダメンタルズ分析が有効なはずだと考えたが、すぐにそれだけでは不十分なことに気づきテクニカル分析も組み合わせる。夜な夜なポートフォリオを構築し、ベキ乗則やブラック=ショールズのような確率微分方程式と睨めっこしながらテクニカル分析に励む...夜のテクニシャンと呼んでくれ!そして、「経済とは何か?」という哲学的問題に差しかかると、過去の偉大な経済学者の書籍にも触れるべきだと考えた。大きな損失を出したこともあるが、未だに続けているということはトータルで実績を上げているからである。
その裏では、いつも「チャート分析になんの意味があるのか?」と問い続けている。「はたして市場を完全に理解するということが、どれほど現実味を帯びているというのか?」と疑問を持ちつつも、そこにはバブルのような分かりやすいトレンドが現れるのを虎視眈々と待つ自分がいる。
人間の欲望とは、そういうものだということも分かってきたような気がする。人間は、何かにすがらなければ生きてはいけない。その何かの正体とは、欲望なのか。ならば、脂ぎった欲望をいかに知への渇望へと変えていくか、そして、いかに世間に惑わされないように生きていくか、ということになろうか...と言ってはみたものの、俗世間の酔っ払いにできるはずもない。ちなみに、先日、夜の社交場で30代前半ですか?と聞かれて舞い上がってしまった。平成生まれのお嬢さんに...所詮、ホットな言葉に惑わされながら生きるしかない。それでも、その愚かさを嘆くことはない。俗世間で精神が惰眠したままでも、麻薬漬けのままでもええんでないかい。精神の安住の地は、認識できない領域にあるのだから...

3. 金融自爆テロ
この世で金融屋が生き長らえるには、安定経済を望んではいられないというのが原理的にある。というより、自らその仕組みを築きながら自己矛盾に喘いでいる。人間は、自らが善だと信じて考案したシステムによって自爆テロを繰り返す。人間社会とは、ある程度の客観的な分析が必要でも、肝心な時には経験や直観、そして勘がものをいう世界である。
近年、世論調査で景気対策が一番に挙げられ、政治問題の中枢に経済問題が位置付けられる。しかし、社会の安定に貢献するはずの政治や経済が、ここまでギャンブル性が強いものか。もっと本質的なもので動いていると思いきや、こんなにも目先の現象に囚われ過ぎるものか。他の学問をしている人々には、これほど幻滅することはないだろう。おまけに「増すゴミ(世間ではマスコミと呼ぶらしい)の原理」が追い撃ちをかける。その市場ゲームに政治屋や金融屋が御執心となれば、政治経済ニュースが冷めて見える。金融危機が訪れても、多くの倒産企業の瓦礫を残したままで、金融機関だけはさっさと業績を回復する。この理不尽さはなんなんだ?まさしくウォール害だ!人間ができることと言えば、確率論に救いを求めながら禍いを避けようとすることぐらいであろうか。

4. 市場と博奕の原理
エコノミストたちは、勝ち組と負け組で差別化するのがお好き!それにしても、勝負事とはおもしろいものである。勝ちの気配はなかなか見えてこないが、負けの気配となるとすぐに臭ってくる。それがギャンブルというものか。それが人生というものか...
成功する投資家には独特の才能がある。天才的なスポーツ選手が直感的なプレーをするような。スポーツ理論を熟知したところで、選手として活躍することはできない。投資スタイルには、陸上競技で短距離走から長距離走まで細かく種別されるように、短期戦略から長期戦略まで個人の資質に合致したものがある。
また、プロとアマチュアの精神的優位性の違いは大きい。高度なネット社会では、個人がプロ並みのトレーディングルームを自宅に構築することはそれほど難しくない。情報格差においては、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの心理である。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。市場のトレンドにまったく関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢が混沌とする中で、常に儲かるように仕組むことは至難の業だ。だから逆ポジションなどのテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が大きいほどリスクは指数関数的に拡大する。一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなり、制御不能に陥る。ノーベル賞級のドリームチームですら、大規模な破綻は避けられなかった。
逆に言えば、自分の資金のみで運用するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っている。奇妙なデリバティブに手を出さなければ、自分の財布にだけ言い訳していればいい。台風が来ているのに船出をするのは自殺行為だ。トレンドが見えない局面では、酒でも飲んで静観するのが一番。十年に一度の絶好期に市場に参加すればええ!ぐらいの気持ちでやれば気楽なものだ。この精神原理は、あらゆるあぶく銭を稼ぐための博奕の心理構造に適用される。

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