「シャバを恐れてる。50年もムショ暮らしだ。ここしか知らない。ここでなら彼は有名人だが、外では違う。ただの老いた元服役囚だ。白い目で見られる。あの塀を見ろよ!最初は憎み、しだいに慣れ、長い月日の間に頼るようになる。施設慣れさ!終身刑は人を廃人にする刑罰だ。陰湿な方法で...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...
1. 時間囚人説
人間は、過去と未来の狭間でもがき続ける。時間の不可逆性は、人間が生まれて死ぬだけの存在でしかないことを強烈に印象づけやがる。もはや、時間という刑務所で囚人として生きるしかあるまい。
「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
これは、信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の一節である。人生とは、夢の中で50年の刑期を勤めるようなものか。
人間の時間認識は、数学のように離散と連続を使い分けながら、大まかに過去、現在、未来で抽象化する。できることと言えば、今を精一杯生きることぐらいなもの。にもかかわらず、過去と未来を区別するのはなぜか?昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、双方に大した違いは認められない。昨日はもう来ない、明日は来るかも分からない、そのちょっとした意識の違いが、過去に絶望し未来に根拠のない希望を抱かせる。そして、希望は過剰な期待によって絶望へと変わる。過去は片時も休まずに未来を抹殺し続けやがる。
生きる勇気を養うということは、死までの時間を覚悟することである。一つを究めるのに、一人の生涯ではあまりにも短い。「芸術は長く、人生は短し」とは誰の言った言葉かは知らんが、その源泉はヒポクラテスあたりか?
人間は、人生のあらゆるパターンを経験することはできない。一つの時間軸において実験的に一つの人生を試すことぐらいしかできない。にもかかわらず、人生経験のプロであるかのように、多くの助言をしたがる人々がいる。彼らは、世間では宗教家や友愛型人間と呼ばれる。そして、自らの理念が最高だと信じ、最も理性の高い人間だと思い込み、幸せの形を具体的に提示する。信じるのは自由だけど...
では、精神を会得するには何世代の生涯を費やせばいいのか?神は人間の生涯を永遠に弄ぶ。カントはア・プリオリな認識を時間と空間だけで規定した。つまり、実存とは時間に幽閉された空間認識に他ならない。神は、人間精神を支配するために、先験的認識を創出する必要があったのかもしれない。閉じられた空間を前提しなければ、精神そのものが成り立たないのかもしれない。
2. 時間からの脱獄
人間は過去も未来も自由にはできない。現在の瞬間ですら自由にできるのか疑わしい。時間は無常にも過ぎていき、ただ無力感を残していくだけ。ついでに、あらゆる苦痛を時間が持ち去ってくれればいいのに、苦痛だけを置き去りにしやがる。時間を自由にできない限り、人間は永遠に自由を獲得することはできないだろう。
ところで、物事に集中していると、精神が突然フロー状態になり心地良い気分になることがある。無我の境地とでも言おうか、時間感覚が消え去った時に訪れる幸せな瞬間がある。もしかしたら、時間を意識しない領域へ精神を導けば、あらゆる不安から解放されるかもしれない。
癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるという。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じないという。精神病の多くは、精神の内にある時間の連続性が失われることが原因だという。こうした精神がテレポートするかのような現象は、時間からの解放という欲求から生じるのかもしれない。
また、初めて行った旅先で、昔の懐かしい風景と重なるような不思議な感覚に見舞われることがある。初体験にもかかわらず、懐かしい行動を繰り返すような錯覚に陥ったりする。脳が疲れたりして混乱すると、ノスタルジーに浸るような偽りの体験を見せてくれる。これがデジャヴってやつか。これは、本能的に精神の安住を求めている現象なのかもしれない。
一般的には、夢と現実では、夢の方を偽りの体験とされる。だが、実は逆ということはないのだろうか?いや!どちらも現実の可能性は?少なくとも夢と現実は別空間にあるような気がする。これがパラレルワールドの正体か?パラレルワールドが存在すれば、都合のいい方を選択しながら生きることができそうだが、現実は都合の悪い方ばかりを選択しているような気がする。夢というやつは、必ずいいところで目が覚める。せっかくホットなお姉さんといいとこだったのに。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡しやがる。おまけに、遅刻だ!これは、夢喰い獏(バク)の仕業に違いない。
3. 予知能力
人間は他の動物と違って未来に対して敏感である。未来に備える能力を持つことで、他の動物よりも優位性を持つ。予知能力が、生存競争の過程で一種の防衛本能から育まれてきたのは確かであろう。となると、時間認識とは、下等動物を見下すために編み出した概念なのか?
一般的には、予知能力が高いほど高度な生物ということになっている。だが、それは本当だろうか?予知能力とは、単なる欲望の強さとも言える。科学の進歩は、宇宙を次々と解明しながら、地球の未来像を明らかにしてきた。そして、より遠い未来予測を可能にする。文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさにそうした精神から発達してきた。
しかし、純粋な知への渇望は、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体というわけか。人間の文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然の原理からすると、人間の欲望は必要以上を求めない下等動物よりも劣るのかもしれない。
いずれにせよ、高等か下等かなどは、人間が勝手に格付けした価値観に過ぎない。おそらく予言者の知能は高いのだろう。なぜか?占い師は詐欺師にしか映らないが...
4. 先験的認識
先験的認識とは、どこから生じる思考なのか?既に宇宙が誕生した頃から獲得しうる能力なのか?宇宙の起源と同時に誕生した素粒子を構成要素とする生命体が、普遍的に獲得する本能なのか?そして、遺伝子として受け継がれるのか?
アインシュタインは、時間と空間を混在させた時空という物理量を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るのと等価である。そして、科学者は宇宙の起源を求めて素粒子の解明を試みる。こうした試みは、人間精神の解明に通ずるものを感じる。多くの偉大な科学者が、神学に憑かれるのもうなずけるわけだ。
その一方で、心理学的に人間精神に迫ろうとする試みがある。なんとなく精神は、生前から存在し、死後も存在し続けるような予感がする。この不思議な感覚が、神の存在という仮説を生み出し宗教思想を盛り上げ、無意識に宇宙の時系列を精神の寿命と重ねる。
キェルケゴールは「人間とは精神である。精神とは自己である。」と語った。実存論者たちは、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。言い換えれば、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。幽体離脱した霊魂こそ純粋生命体というわけか。そして、精神をあまりにも崇高な地位へと押し上げた挙句、宇宙の創造主たる神と同列に扱うところに、人間のご都合主義が現れる。成功すれば自分の努力の賜物とし、失敗すれば偶然のせいにするのも道理というものか。
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