2011-01-26

対称性について

宇宙には、様々な特性や形態が閉じ込められている。この不規則極まりない中で規則性を見出すとすれば、対称性の原理ではなかろうか。...などと考えるのは、相対的な価値観しか持てない証しであろうか。絶対的な価値観を持っていれば、なにも対称関係を見出す必要はなく、直接的に認識すればいいはず。
認識を表現する手段は言語能力にあり、言語がいかに精神との結びつきが強いかが分かる。つまり、あらゆる言語的表現は、別の対象に対してなんらかの差異から生じるということである。あらゆる事物に名前が付けられるのは、別の対象から区別するためであって、相対的な認識能力によって実践された結果とも言えよう。もし、人間が絶対的な価値観を獲得できたならば、言葉を必要とせず、静かな世の中が実現できるかもしれない。だとすると、騒がしいジャーナリズムほど、了見が狭く抽象度の低い認識力に見舞われているというわけか。こうして感情的にブログを書いているのも、社会の害でしかないのかもしれん!

地上にあるすべてのものが、天上の物語をなぞりながら、互いに相手を包み込み二重の螺旋を形作る。数学には有限と無限、実数と虚数、連続性と離散性の性質が現れ、天体には点対称性が、人体には左右対称性が現れる。人間社会では現実と仮想が対抗し、社会システムは創造と破壊の原理を繰り返す。DNAの二重螺旋構造、自由と平等、主観と客観...あらゆるものが表裏一体となって存在する。ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質を引力と斥力の二つの要素のみで情熱的に語った。なにやら対称性には、宇宙の真理が内包されているようだ。
真理は事実として認めるしかないのであって、人間精神にとってこれ以上受動的にさせるものはない。だが、真理への探究という純粋な欲望が生じれば、精神は能動的になりうる。そこには脂ぎった欲望の入り込む余地はない。人間は自らの欲望と認識によって、精神の受動性と能動性を複雑に絡めながら矛盾の概念へと邁進している。
相対的な価値観しか持てないのなら、多様性に向かうしかあるまい。そうでなければ認識力は発揮できないはず。悪を知るから善を知ることができる。幸せしか知らなければ、この世は退屈でしょうがないだろう。美しいものだけを見続ければ苦痛となろう。様々な多様性が認識できれば選択肢が広がる。だからといって最適な判断ができるかは別だが、たった一つのグローバルな規定では偏重した価値観に陥りやすい。人間が絶対的な価値観に到達できない以上、世界が多様化することになんの問題があろうか。
世界の公用語として英語に優位性があり、誰もがそこに群がる。しかし、英語が完璧な言語システムというわけでもなければ、最も優れた言語体系というわけでもない。歴史的な偶然性から、そうなっただけだ。ならば、人間精神の成長には、一つの言語で束縛するよりも、言語の多様化という現象は良い(酔い)ことではないだろうか。

1. 神と魔王
宇宙の原因性とは何か?神は何のために生命体を創造したのか?遺伝子の進化によって抗菌能力を発揮し、あらゆる有害ウィルスを凌駕した時、恐るべき生命力を獲得した生物が誕生するかもしれない。そして、生物的進化によって生じる究極の知的生命体の正体とは?
対称性が宇宙原理だとすれば、絶対的な創造主に対して、破壊の魔王を登場させないと説明がつかない。人間は魔王になろうとしているのか?法律や宗教の戒律といった道徳規制は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。言い換えれば、法律の進化は、人間の悪徳の進化に比例するということができよう。印刷技術や記録装置の発明は、悪徳の記憶を残す手段として機能する。知恵や知識の蓄積とは、魔王への道しるべなのか?
人類は、いまだ宇宙論的理性なるものの存在を説明できないでいる。にもかかわらず、道徳家たちは、人間を超越した超理性なるものを平気で自分の価値観で語り、道徳観や倫理観を競い合う。
もし、人間が恒久普遍的理性を構築できるならば、人間の存在意義をも説明できなければなるまい。そんなことできるのは神だけだろう。いや、神にすら説明ができないかもしれない。宇宙を創造した時に、神は魔が差して「できちゃった!」と女性がささやくような台詞を吐くかもしれない。ギリシャ神話では、主神ゼウスがパンドラという女性を人類の災いとして地上に送り込む。神は自らパンドラの箱を開けてしまったのか?
もし、人間が魔王と化すなら、理性どころか道徳も人間の持つ合理性も、その存在意義までも疑ってみる必要がある。人間の存在自体が宇宙原理に反しているのではないかと。それでも、神の優位性が保たれる原因が確実に一つある。それが寿命というやつだ。人間がどんなに進化したところで、寿命という遺伝子構造に対抗する術がない。所詮、創造主の手の平で踊らされているだけのことか。いや、遺伝子の突然変異によって、悪徳が熟成する可能性がないとは言えない。神は、魔王という究極のライバルの出現を、酒を飲みながら待ち受けているのかもしれない。神は退屈しているに違いない。ちなみに、アル中ハイマーも退屈している。その証拠に焼酎「魔王」を飲みながら、鏡の向こうの赤い顔した完全なる精神泥酔者の出現を待ち受けている。

2. 対称性と対立性
自然に存在する対称性は、共存してこそ美しい。しかし、人間社会では対称性を対立性と見なされるケースが多い。報道屋は、あらゆる対称性を対立構図で煽り、話題性を強調する。イデオロギーは、相変わらず自由と平等で論争を繰り返す。自由を崇め過ぎると格差社会を助長し、平等を崇め過ぎると経済活動を衰退させる。
戦争と平和の議論は永遠に続くだろう。平和主義者は戦争を悪だと叫ぶ。その通りであろう。だが、平和な理念だけで平和を実現できるものではない。歴史的には、平和主義者が戦争を招いた例が実に多い。山があるから谷がある。戦争の悲惨さを経験するから平和の尊さを知ることができる。死の恐怖があるから生の有難さが分かる。束縛を感じるから自由を獲得できる。腐敗があるから正義が成り立つ。これらが必要悪の正体なのかは知らん!
デカルトは、「憎しみは愛よりも不可欠」とした。善が悪への憎しみから生じるとすれば、憎しみという情念も捨てたもんじゃない。真の憎しみを知らなければ、真の愛も知ることができないだろう。ここに、相対的価値観の原理があり、認識能力の矛盾と虚しさがある。したがって、いつも成功すると自負する者がいれば、失敗の定義をどこか間違えていることになる。
もし、世界に対称性が存在しないとすれば、絶対的な価値観に到達していない精神の持ち主が、はたして認識能力を発揮できるだろうか?精神そのものが成り立つだろうか?価値観が対称性によって構築されるならば、片方に偏重すると必ず副作用が生じるだろう。最高の徳を求めれば、最高の悪徳を身に付けることになるのかもしれない。
矛盾の原理が、自然法則に従うか、自然目的性に従うかは知らん。だが、人間を超越した存在であるのは間違いないだろう。では、人間が認識を放棄したらどうなるだろうか?矛盾の呪縛から解放されるだろうか?対称性という現象は、人間認識の産物であって、実は宇宙原理とは無関係なのかもしれない。絶対的な認識能力を獲得するには、精神を無の境地に追い込むしかないのかもしれない。そうなると、自己の存在も否定することになりそうだ。偉大な数学者や哲学者たちに自殺する例を見かけるのは、自己の存在を無と悟った結果であろうか?死の正体がなんであるかも分からないのに、生きることの意味を勝手に理解した気になれれば幸せであろうに。

3. 男と女
男は一夫多妻主義者で、女は一夫一妻主義者という話を聞いたことがあるが、それは本当だろうか?男とはしょうがないものだ。博奕しおる。借金しおる。浮気しおる。いつの時代でも複雑な乙女心を満たすのは難しい。対して、女は、...ゴホゴホ!!!...人間とはしょうがないものだ。
男は女を支配していると勘違いし、女は男に支配された振りをする。神は男に腕力を与え、だらしない男を救済するために、女に母性本能を与えた。女には物理的に子孫を残すという特技がある。そして、男の弱みを握りながら精神的にも優位性を保とうとする。
対して、男は権力で支配しようとしてきた。実体で支配できなければ、肩書きや金銭という幻想に頼るしかないわけだ。権威の存在するところには、妄想にすがった醜い野望が共存する。ただ、権威を振るう者は無能であっても馬鹿ではない。権威に実体がないことを知っている。実体を妄想に変える術を知っていれば、無限に誇張するができることも知っている。
ところで、男と女ではなぜ、こんなにも寿命に差があるのか?「死ぬ時は一緒よ!」などという言葉にどれほどの説得力があるというのか?どう見たって脂肪も多い。女は子供を産む時、男には信じられない痛みに耐えるという。度胸も据わっているわけだ。日本は世界一の長寿大国と言われる。ということは、日本の女性は世界一恐ろしい生物に成長するということか?
更に不思議なのは、男女の組み合わせのパターンで、男の方が年上というケースが圧倒的に多いことである。年下の方が精神的に支配しやすいということか?精神年齢は男の方がはるかに幼いのだろう。
「男は死に顔を曝け出しながら、女に愚痴られる運命を背負う。」
男は何も悪いことをしていないのに、女とちょいと目が合っただけで、蛇にでも睨まれたようになるのはなぜか?この生き物を理解することは永遠に不可能であろう。長生きできるのは、神経が図太いからか?酒を飲まないからか?いや、そんなことはない。知人で大酒飲みといえば女の方だ。くだらない夢を追わないからか?「夢を描く男性が好き!」と言っておきながら、しばらくすると「いつまでも夢ばかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。
しかし、女の向上心は男のそれとは比べものにならない。化粧や美容に異常なほど執着する。目の前の現実から目を背けながら、幻想に憑かれるということか?ちなみに、化粧とは、化生に変身するということか?もののけや妖怪の類いか?たまーに、まったくスッピンの女性を見かけて関心していると、実はフル装備だったという噂を聞いて驚かされる。エンジンだけパワーアップしても、足廻りがついてこなければ、むしろコーナリング性能は落ちる。なるほど、装備はセッティングのバランスを考慮しなければ、お肌の曲がり角も曲がりきれないというわけか。永遠の若さを獲得しようとする執念には、滑稽とも思える自己満足の世界がある。現実を受け入れる勇気ができたところに冷静な諦めが生じる。
「女は永遠の若さを求めて化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを求めてお姉ちゃんの尻を追う。」

4. 分かりやすさ vs. 分かりにくさ
一般的には、物事を表現する場合、分かりやすくコンパクトなのが良いとされる。確かに、コンパクトで明解な文章は魅力的だ。数学の証明では、単純でエレガントさに価値を求める。
しかし、そうとは言い切れない場合も多い。
分かりやすさとインパクトのあるフレーズは脳を直接刺激しやすいが、それだけに思考を停止させ鵜呑みにさせる効果がある。宗教の教えは、分かりやすく具体的で洗脳力が強い。この性質は布教活動には絶対に欠かせない。
対して、分かりにくさは、その意図を汲み取ろうとしたり、はたまた理解しようと思考をめぐらす働きを呼び起こす。難しい文章は、再読するだけでも違った見解を想起させる。読書という行為は、言語の持つ情報量だけでなく、読者の思考を含めた総合的な効果によって評価されるべきであろう。哲学書が難解なのは、純粋に真理を記述することを目的とするからであって、洗脳しようとは企てない。そもそも精神の正体すら分からないのに、人間が発明した言語で完璧に記述することは不可能である。哲学者は不完全であることを心得ているがゆえに、様々な角度から書き下そうと試み、まったりと、しつこくもなる。
いずれにしても、説得力のある文章を記述するには、論理性が必要である。だが、その論理にも様々な観点がある。文学作品には、わざと論理を崩す論理性なるものがある。内容よりも視覚効果や音律効果を優先したり、結論をぼかしたり、突然分かりにくい文章を埋め込んで読者のペースにギアチェンジを求めたりと、精神を呼び覚ますための技法は巧みだ。わざと読み辛くして悪戯のように仕掛けてくる。芸術作品は、鑑賞者の精神に何を残すかということを企てる。思いっきり分かりにくいカントの批判書やハイデガーの「存在と時間」に魅力を感じるのは、まさしくこの点にある。難しいことは素直に難しく表現する、それが合理性というものであろう。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに。」

5. 天才と凡人
天才とは、人間社会で人気を博す世界で、独自のステータスと能力を発揮できる人々である。人間の思考が、様々な環境の中で個性に見舞われるならば、人間社会の中でたまたま独自の世界が構築されることになる。ということは、天才と凡人の違いは、人間社会に独自の世界が構築できるかどうかの違いなのか?そして、小ぢんまりとした世界でなら、誰でもスーパースターになれる可能性があるのか?
現実には、多数決的に認められた世界が構築され、その世界にマッチした人間だけがスーパースターになる。例えば、野球に人気があるから、卓越したプロ野球選手が超一流とされ、高額な収入を得ることができる。一流選手ならば、野球がなくても他のスポーツ種目でも才能を発揮するであろうが。
文学界の天才は、この世に文学という文化が存在するから一流でいられる。
となれば、人間社会で一般的に認められなくても、ごく少数派の分野の中にもスーパースターたちが埋もれているだろう。もしかしたら、無神経者の中に素朴な精神界のスーパースターがいるかもしれない。精神病界にも悩みを熟知したスーパースターがいるかもしれない。そして、アル中界のスーパースターを目指すのも悪くない。

6. 無限大と無限小に挟まれた中途半端な世界
人間は、広大な宇宙の無限性と、極微な虚無の無限性との間でさまよう。どちらも人間精神の到達できる概念ではない。人間は、この二つの無限性の狭間で、何一つ無限的な能力を身に付けることができないでいる。大き過ぎる音はつんぼにし、強すぎる光は目をくらまし、遠すぎても近すぎても見えず、極端な暑さも極端な冷たさも感じることができない。おそらく、極端な快楽や極端な苦痛も感じることができないのだろう。あまりに真実なことに困惑し、あまりに多くの快楽に不快を感じ、あまりに多くの恩恵に苛立つ。あまりの若さも、あまりの老年も、精神を妨げる。多すぎる教育も、少なすぎる教育も害をもたらす。過度の性質は、感じることなく、その害を受ける。こうなると、あまりの極度から逃避せざるをえない。人間は、完全に知ることも、完全に無知であることもできないでいる。これぞ「生き地獄」というものか。

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