2011-01-09

存在幻想論

死は永遠に享受できるが、生は一度しか享受できない。生と死の違いとは、それだけのことかもしれん。自殺した天才たちは、それを悟ったのか?そこに崇高な場所でもあるのか?
すべての認識は、前提の上に成り立っている。その基底には、「自己は存在する」という前提がある。自己の存在を前提しなければ、認識力が説明できない。真理が存在するという前提で、真理を探究する。矛盾が生じないという前提で、論理を組み立てる。しかし、基底の前提が崩れた時、すべての思考は崩壊するだろう。人間の思考は、何かを前提しないと前には進めない。永遠の真理があるということは、永遠に暇つぶしができるということさ。
すなわち、真理とは、「前提する」ことである。ハイデガーは、「前提する」とは「了解する」ことだと語った。
...アル中ハイマー著「泥酔的存在批判」、第四章「相対的楽観論もええが、絶対的悲観論も悪くない」より抜粋。

1. 存在幻想論
人々は揃って、人の命は重いと言う。だが、自分の命の価値を知っている者は、この世にどれだけいるだろうか?人間は自らの居場所を求めながら生きている。居場所とは存在意義といったものであろうか。このような悩みに憑かれるのは精神を獲得した生命体の宿命であろうか。キェルケゴール風に言えば、「精神を獲得した時点で絶望する」というわけか。
近代社会が物質的な豊かさをもたらしてきたのは認めよう。だが、同時に自殺者が増加するのはなぜか?単に人口増加に比例した現象なのか?停年になったり、役職を失った途端に気力を失う例も珍しくない。子供たちが自立し、家庭内の役割終え、あとは余生を楽しむだけとなった途端に痴呆症になるのを見かけるのは、単なる偶然だろうか?知的障害者は老けるのが早いと聞いたことがある。こうした例は生き甲斐のようなものと関係があるのかもしれない。忙しい時に見せなかった兆候が、ホッとした瞬間に病状が現れる。人から頼りにされると生きる力が湧く。期待される、あるいは、そう思われていると信じる妄想が気力を支える。
何かを成し遂げた達成感や充実感はほんの一瞬に過ぎ去る。人生の先が見えなければ、漠然とした不安に駆られる。その不安から逃れるために、充実感を求めるようなことを繰り返すしかない。だが、目標や気力を持ち続けることは難しい。
権力誇示や既得権益を堅持したり、自らの存在価値を必要以上に誇張したりするのも、自己の居場所を求めてのことだろう。権威や身分を失った時、自己に何が残るのか?と自問し、いざ名刺の看板を降ろした時、自己の本性が現れる。こうした苦悩の源泉は、自己の無に薄々と気づいているからかもしれない。だとすれば、大した権威や身分を持たない者ほど、自己がなんであるかを知る機会に恵まれていることになろう。なるべく無神経な人間性を演じ、他人から期待されぬように仕向けるのも、逆説的に自己の居場所を求めてのことだろう。ただ、無神経を演じ続けると、本当に他人の気持ちが見えなくなってしまう。
自己を探求すれば自己を失い、自己を遠ざければ居場所を失う。精神とは、実に厄介な代物である。人間は、自分の過去を振り返りながら、その意味を求めずにはいられない。そして、死の代償に生きてきた意味を救おうと願う。

2. 「思い込み」という幸せ
物事とは不思議なもので、知識を得れば得るほど、思考を深めれば深めるほど分からなくなる。途中で理解した気になったあたりで思考をやめれば、幸せになれるものを...
難解な哲学書を一度読むと理解した気になり、二度読むと自分の理解力を疑い、そして更に読み返すのが怖くなる。再読とは勇気のいることだ。だが、BGMのように難しい言葉が流れる中を、勝手に思考するのは心地良い。だからやめられない!
ところで、人間の精神とは不思議なもので、心にも無いことを平気で語ったり、理解していないことを理解した気で語れる。愛の正体が分からなくても、愛について熱弁をふるう。そして、理性とはまったく無縁なアル中ハイマーにだって、語ることぐらいはできるのだ。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、俗世間の泥酔者はいつも理解した気で幸せになれる。」
思考を停止させることが良いか悪いかは別にして、心地良いタイミングで自在に停止できれば幸せであろう。これが、思いこみというやつだ。したがって、精神を麻痺させながら脳死状態に陥れるのが宗教の目指すところとなる。

3. 自己保存
人間は自己保存のために努力する。その根底にあるものが徳というものかは知らん。他人に徳を押し付けようとするのは、秩序を維持しようとする努力であろうか。人間社会が存続しなければ個人の存続も危うい。したがって、人間社会は自己愛に支配されることになろう。
名誉欲に憑かれた人間が、野望と高慢とが結びついて、周りから嫌われながら気に入られていると勘違いし権力に固執する。感情と理性の調和とは、人間のもっとも苦手とする精神なのかもしれない。
スピノザは、「最大の高慢あるいは最大の自棄は、自己についての最大の無知である。」と語り、高慢と高邁をはっきりと区別しながら正反対の性質があるとした。そして、高慢な人間ほど感情に支配されやすく、愛や同情から最も縁遠いとしている。同時に、自分を正当以下に評価する劣等感に憑かれた者も蔑視している。こうした感情が必然的に妬み深くするのであろう。虚名に憑かれれば、それを固持するために日々心配と不安の中で葛藤し続けることになる。
スピノザは、こうも言っている。「名誉は理性に矛盾せず、理性から生じることができる」と。それは一種の自己満足であって社会の影で名誉を求めることになる。「名を捨てて実を取る」といったところであろうか。

4. 宇宙目的と存在意義
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。だが、人間社会が実践的に道徳を規定したところで、強制的に方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。
あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになろうか。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるだろう。
そうすると、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、目的を見出せた時にはじめて価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を神の創造の究極目的として前提されなければならない。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えないけど...

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