2011-01-02

時間不在説

一人の人間は、若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。
ところが、時間という概念を加えることによって、その両方を体現することができる。つまり、一人の人間に多重人格性を与えるわけだ。物理学は、物体の運動を当たり前のように時間の関数で扱う。対して、思考の活動は、精神時間と物理時間の偏微分関数で扱うがよかろう...
時間の概念は、精神になんらかの変化をもたす。この現象を「成長」と呼ぶ。ただし、時間は一方向性しか示さない。過去を悔いても、神は「おとといおいで!」と嘲笑う。すなわち、退化もまた成長と同じ方向にある...
無学な人物だと侮っていても、数年後には変貌する可能性だってある。数年前に借金した人格は、現在では違った人格になっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば「今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。自己破産法とは、この別人論に則ったものである。したがって、法の裁きが求める反省には、「チャラの原理」が内包される。
...アル中ハイマー著「時系列における別人論」、序説第三章「借金揉み消しの原理」より抜粋。

1. 時間不在説
数学は、あらゆる次元を平等に扱う。だが、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく縦、横、高さだけで定義できる純粋な立方体なんて存在しないだろう。これらは数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間もまた一つの次元に過ぎないことを心得ている。
しかし、人間の認識は、時間という次元を特別扱いする。精神が拠り所にする実存という認識は、時間の流れをともなう空間の存在を前提しなければ説明できない。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、存在を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないだろう。
では、精神を持つことを放棄すれば、認識する行為を放棄すれば、時間という枠組みから解放されるだろうか?数学者が考えるように、時間という次元もまた他の次元と同じように平等に扱えるだろうか?時間の概念があるから、経験や知識は蓄積される。矛盾の深みに嵌りながら...
アインシュタインは、エントロピーは全ての科学にとって第一の法則であると語った。エントロピーを一言で説明するならば、「一方向性に支配された認識や知識の蓄積」とでも言ってやるか。その証拠に、ほとんどの物理現象が不可逆性の呪縛に嵌ったままだ。あらゆる物理現象は、純粋な物理現象に人間の観測系が加わってはじめて成り立つ。それが認識の原理である。相対性理論は、人間の観測系においてのみ成立する理論なのかもしれない。となれば、観測する行為を放棄すれば、あらゆる物理現象は純粋な可逆性を示し、エントロピーは均衡を保ったままかもしれない。つまり、「エントロピー増大の法則」とは、観測系の原理というわけさ。
そして得られる帰結は、「時間は人間認識の産物に過ぎない」というわけさ。そもそも、実存なんて幻想なのさ。人間はそれを薄々と気づいているから、人間社会は現実から逃避するかのように仮想化へと邁進するのさ。

2. 浦島太郎伝説
昔々、時計もなくカレンダーもない時代があった。それでも、昼夜や星座の動きで時の流れを感じることはできた。もし、周りに何も変化がなければ、物体の運動が存在しなければ、時の流れをどのように感じることができるだろうか?
浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、戻ってみるとそこは数百年もの歳月が経っていた。もし、地球ごと竜宮城へ行ったとしたら、それでも数百年が経っていたと言えるのだろうか?地球ごと瞬間移動するという宇宙現象が、頻繁に起こっている可能性はないのだろうか?いや、宇宙空間全体が瞬間移動している可能性は?そして今!この瞬間に亀に乗っているという可能性は?時間の流れの方向は、人間が勝手に決めただけのことで、実は自在に過去と未来を行き来している可能性はないのだろうか?時間が、過去、現在、未来の順番にきちんと整列して、一定間隔で刻まれるというのは本当なのか?などと考えるうちに、宇宙法則そのものに時間という概念があるのかも疑わしくなる。
そういえば、ちょっと前に「百年安心の年金制度」という謳い文句があった。百年も随分と短くなったものだ。国会議事堂の周辺には黒幕の住む穴があって、タイムスリップを頻繁に繰り返しているに違いない。これがブラックホールの原理というわけか。
時間認識とは、相対的な変化を認識することであって、人間はいまだ絶対時間なるものを知らない。もし知っているとしたら、それは光速であろうか?それはともかく、亀は絶対時間を知っているに違いない。亀(かめ)と神(かみ)には、なんとなく同じ音律を感じる。
破壊と創造が宇宙の原理だとすれば、精神の成長は自らの破壊によってもたらされるであろう。乙姫が「けして開けてはいけません!」などと言って玉手箱を渡すから、浦島太郎は衝動に駆られて自らの未来を破壊した。「浮気をするな!」などと言うから、男性諸君は破壊の乙姫を求めて夜の社交場へと向かうのさ。

3. なぜ、寿命があるのか?
食べ続ければ細胞は合成と分解を永遠に繰り返し、老化という現象がなくなってもよさそうなものである。DNAには、細胞の再生回数でも記録されているのだろうか?寿命とは、人間が神に近づくことを防ぐ仕掛けなのか?それとも、悪魔に進化することを防ぐ仕掛けなのか?
一方で、老化の先に死の恐怖が見えるからこそ、苦しみや喜びによって感動することができる。目の前の出来事がほんの一瞬に過ぎ去るからこそ、輝きを放つ。寿命は、精神の成長には欠かせない原理というわけか。その過程で、人間には、必死に生きるか、必死に死ぬかの二つの選択肢しか与えられない。
経験や知識の蓄積は、次の世代に受け継ぐしかない。だが、負の遺産も紛れる。人間社会は、相変わらず子孫にツケを残したまま借金を増幅させる。伝統的に「いまどきの若い奴は...」と説教じみた愚痴が呟かれるが、今では「いまどきの年寄りは...」と嘆かれる。医療が進歩し寿命が延びれば、年齢差はますます誤差に吸収されるだろう。そして、親よりも子供があの世へ先立つケースも珍しくはなくなるだろう。いくら長生きしても、知性と理性を同時に装備することは難しい。
歳を重ねるとだんだん一年の長さが短く感じられる。生きてきた年数に対して一年の占める割合が小さくなれば、それも自然であろう。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。寿命というシステムの存在が、人生の果敢さを強烈に印象づけやがる。

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