2011-01-09

存在幻想論

死は永遠に享受できるが、生は一度しか享受できない。生と死の違いとは、それだけのことかもしれん。自殺した天才たちは、それを悟ったのか?そこに崇高な場所でもあるのか?
すべての認識は、前提の上に成り立っている。その基底には、「自己は存在する」という前提がある。自己の存在を前提しなければ、認識力が説明できない。真理が存在するという前提で、真理を探究する。矛盾が生じないという前提で、論理を組み立てる。しかし、基底の前提が崩れた時、すべての思考は崩壊するだろう。人間の思考は、何かを前提しないと前には進めない。永遠の真理があるということは、永遠に暇つぶしができるということさ。
すなわち、真理とは、「前提する」ことである。ハイデガーは、「前提する」とは「了解する」ことだと語った。
...アル中ハイマー著「泥酔的存在批判」、第四章「相対的楽観論もええが、絶対的悲観論も悪くない」より抜粋。

1. 存在幻想論
人々は揃って、人の命は重いと言う。だが、自分の命の価値を知っている者は、この世にどれだけいるだろうか?人間は自らの居場所を求めながら生きている。居場所とは存在意義といったものであろうか。このような悩みに憑かれるのは精神を獲得した生命体の宿命であろうか。キェルケゴール風に言えば、「精神を獲得した時点で絶望する」というわけか。
近代社会が物質的な豊かさをもたらしてきたのは認めよう。だが、同時に自殺者が増加するのはなぜか?単に人口増加に比例した現象なのか?停年になったり、役職を失った途端に気力を失う例も珍しくない。子供たちが自立し、家庭内の役割終え、あとは余生を楽しむだけとなった途端に痴呆症になるのを見かけるのは、単なる偶然だろうか?知的障害者は老けるのが早いと聞いたことがある。こうした例は生き甲斐のようなものと関係があるのかもしれない。忙しい時に見せなかった兆候が、ホッとした瞬間に病状が現れる。人から頼りにされると生きる力が湧く。期待される、あるいは、そう思われていると信じる妄想が気力を支える。
何かを成し遂げた達成感や充実感はほんの一瞬に過ぎ去る。人生の先が見えなければ、漠然とした不安に駆られる。その不安から逃れるために、充実感を求めるようなことを繰り返すしかない。だが、目標や気力を持ち続けることは難しい。
権力誇示や既得権益を堅持したり、自らの存在価値を必要以上に誇張したりするのも、自己の居場所を求めてのことだろう。権威や身分を失った時、自己に何が残るのか?と自問し、いざ名刺の看板を降ろした時、自己の本性が現れる。こうした苦悩の源泉は、自己の無に薄々と気づいているからかもしれない。だとすれば、大した権威や身分を持たない者ほど、自己がなんであるかを知る機会に恵まれていることになろう。なるべく無神経な人間性を演じ、他人から期待されぬように仕向けるのも、逆説的に自己の居場所を求めてのことだろう。ただ、無神経を演じ続けると、本当に他人の気持ちが見えなくなってしまう。
自己を探求すれば自己を失い、自己を遠ざければ居場所を失う。精神とは、実に厄介な代物である。人間は、自分の過去を振り返りながら、その意味を求めずにはいられない。そして、死の代償に生きてきた意味を救おうと願う。

2. 「思い込み」という幸せ
物事とは不思議なもので、知識を得れば得るほど、思考を深めれば深めるほど分からなくなる。途中で理解した気になったあたりで思考をやめれば、幸せになれるものを...
難解な哲学書を一度読むと理解した気になり、二度読むと自分の理解力を疑い、そして更に読み返すのが怖くなる。再読とは勇気のいることだ。だが、BGMのように難しい言葉が流れる中を、勝手に思考するのは心地良い。だからやめられない!
ところで、人間の精神とは不思議なもので、心にも無いことを平気で語ったり、理解していないことを理解した気で語れる。愛の正体が分からなくても、愛について熱弁をふるう。そして、理性とはまったく無縁なアル中ハイマーにだって、語ることぐらいはできるのだ。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、俗世間の泥酔者はいつも理解した気で幸せになれる。」
思考を停止させることが良いか悪いかは別にして、心地良いタイミングで自在に停止できれば幸せであろう。これが、思いこみというやつだ。したがって、精神を麻痺させながら脳死状態に陥れるのが宗教の目指すところとなる。

3. 自己保存
人間は自己保存のために努力する。その根底にあるものが徳というものかは知らん。他人に徳を押し付けようとするのは、秩序を維持しようとする努力であろうか。人間社会が存続しなければ個人の存続も危うい。したがって、人間社会は自己愛に支配されることになろう。
名誉欲に憑かれた人間が、野望と高慢とが結びついて、周りから嫌われながら気に入られていると勘違いし権力に固執する。感情と理性の調和とは、人間のもっとも苦手とする精神なのかもしれない。
スピノザは、「最大の高慢あるいは最大の自棄は、自己についての最大の無知である。」と語り、高慢と高邁をはっきりと区別しながら正反対の性質があるとした。そして、高慢な人間ほど感情に支配されやすく、愛や同情から最も縁遠いとしている。同時に、自分を正当以下に評価する劣等感に憑かれた者も蔑視している。こうした感情が必然的に妬み深くするのであろう。虚名に憑かれれば、それを固持するために日々心配と不安の中で葛藤し続けることになる。
スピノザは、こうも言っている。「名誉は理性に矛盾せず、理性から生じることができる」と。それは一種の自己満足であって社会の影で名誉を求めることになる。「名を捨てて実を取る」といったところであろうか。

4. 宇宙目的と存在意義
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。だが、人間社会が実践的に道徳を規定したところで、強制的に方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。
あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになろうか。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるだろう。
そうすると、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、目的を見出せた時にはじめて価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を神の創造の究極目的として前提されなければならない。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えないけど...

2011-01-05

時間囚人説

「シャバを恐れてる。50年もムショ暮らしだ。ここしか知らない。ここでなら彼は有名人だが、外では違う。ただの老いた元服役囚だ。白い目で見られる。あの塀を見ろよ!最初は憎み、しだいに慣れ、長い月日の間に頼るようになる。施設慣れさ!終身刑は人を廃人にする刑罰だ。陰湿な方法で...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...

1. 時間囚人説
人間は、過去と未来の狭間でもがき続ける。時間の不可逆性は、人間が生まれて死ぬだけの存在でしかないことを強烈に印象づけやがる。もはや、時間という刑務所で囚人として生きるしかあるまい。
「人間五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」
これは、信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の一節である。人生とは、夢の中で50年の刑期を勤めるようなものか。
人間の時間認識は、数学のように離散と連続を使い分けながら、大まかに過去、現在、未来で抽象化する。できることと言えば、今を精一杯生きることぐらいなもの。にもかかわらず、過去と未来を区別するのはなぜか?昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、双方に大した違いは認められない。昨日はもう来ない、明日は来るかも分からない、そのちょっとした意識の違いが、過去に絶望し未来に根拠のない希望を抱かせる。そして、希望は過剰な期待によって絶望へと変わる。過去は片時も休まずに未来を抹殺し続けやがる。
生きる勇気を養うということは、死までの時間を覚悟することである。一つを究めるのに、一人の生涯ではあまりにも短い。「芸術は長く、人生は短し」とは誰の言った言葉かは知らんが、その源泉はヒポクラテスあたりか?
人間は、人生のあらゆるパターンを経験することはできない。一つの時間軸において実験的に一つの人生を試すことぐらいしかできない。にもかかわらず、人生経験のプロであるかのように、多くの助言をしたがる人々がいる。彼らは、世間では宗教家や友愛型人間と呼ばれる。そして、自らの理念が最高だと信じ、最も理性の高い人間だと思い込み、幸せの形を具体的に提示する。信じるのは自由だけど...
では、精神を会得するには何世代の生涯を費やせばいいのか?神は人間の生涯を永遠に弄ぶ。カントはア・プリオリな認識を時間と空間だけで規定した。つまり、実存とは時間に幽閉された空間認識に他ならない。神は、人間精神を支配するために、先験的認識を創出する必要があったのかもしれない。閉じられた空間を前提しなければ、精神そのものが成り立たないのかもしれない。

2. 時間からの脱獄
人間は過去も未来も自由にはできない。現在の瞬間ですら自由にできるのか疑わしい。時間は無常にも過ぎていき、ただ無力感を残していくだけ。ついでに、あらゆる苦痛を時間が持ち去ってくれればいいのに、苦痛だけを置き去りにしやがる。時間を自由にできない限り、人間は永遠に自由を獲得することはできないだろう。
ところで、物事に集中していると、精神が突然フロー状態になり心地良い気分になることがある。無我の境地とでも言おうか、時間感覚が消え去った時に訪れる幸せな瞬間がある。もしかしたら、時間を意識しない領域へ精神を導けば、あらゆる不安から解放されるかもしれない。
癲癇病患者は、痙攣のさなか時間が停止したような崇高なひとときを味わうことができるという。この病が、古くから「聖なる病」や「悪魔の呪い」などと呼ばれる所以である。離人症患者は、自己を失い、存在感を失い、放心状態となって時間を感じないという。精神病の多くは、精神の内にある時間の連続性が失われることが原因だという。こうした精神がテレポートするかのような現象は、時間からの解放という欲求から生じるのかもしれない。
また、初めて行った旅先で、昔の懐かしい風景と重なるような不思議な感覚に見舞われることがある。初体験にもかかわらず、懐かしい行動を繰り返すような錯覚に陥ったりする。脳が疲れたりして混乱すると、ノスタルジーに浸るような偽りの体験を見せてくれる。これがデジャヴってやつか。これは、本能的に精神の安住を求めている現象なのかもしれない。
一般的には、夢と現実では、夢の方を偽りの体験とされる。だが、実は逆ということはないのだろうか?いや!どちらも現実の可能性は?少なくとも夢と現実は別空間にあるような気がする。これがパラレルワールドの正体か?パラレルワールドが存在すれば、都合のいい方を選択しながら生きることができそうだが、現実は都合の悪い方ばかりを選択しているような気がする。夢というやつは、必ずいいところで目が覚める。せっかくホットなお姉さんといいとこだったのに。続きを見ようとして二度寝すると今度は熟睡しやがる。おまけに、遅刻だ!これは、夢喰い獏(バク)の仕業に違いない。

3. 予知能力
人間は他の動物と違って未来に対して敏感である。未来に備える能力を持つことで、他の動物よりも優位性を持つ。予知能力が、生存競争の過程で一種の防衛本能から育まれてきたのは確かであろう。となると、時間認識とは、下等動物を見下すために編み出した概念なのか?
一般的には、予知能力が高いほど高度な生物ということになっている。だが、それは本当だろうか?予知能力とは、単なる欲望の強さとも言える。科学の進歩は、宇宙を次々と解明しながら、地球の未来像を明らかにしてきた。そして、より遠い未来予測を可能にする。文化的水準が高まれば精神的欲求も高まる。芸術や科学は、まさにそうした精神から発達してきた。
しかし、純粋な知への渇望は、同時に脂ぎった欲望を呼び起こす。進化と退化は表裏一体というわけか。人間の文明は必要以上の狩りを推進してきた。自然の原理からすると、人間の欲望は必要以上を求めない下等動物よりも劣るのかもしれない。
いずれにせよ、高等か下等かなどは、人間が勝手に格付けした価値観に過ぎない。おそらく予言者の知能は高いのだろう。なぜか?占い師は詐欺師にしか映らないが...

4. 先験的認識
先験的認識とは、どこから生じる思考なのか?既に宇宙が誕生した頃から獲得しうる能力なのか?宇宙の起源と同時に誕生した素粒子を構成要素とする生命体が、普遍的に獲得する本能なのか?そして、遺伝子として受け継がれるのか?
アインシュタインは、時間と空間を混在させた時空という物理量を持ち出した。極小空間へ迫るということは、極小時間へ迫るのと等価である。そして、科学者は宇宙の起源を求めて素粒子の解明を試みる。こうした試みは、人間精神の解明に通ずるものを感じる。多くの偉大な科学者が、神学に憑かれるのもうなずけるわけだ。
その一方で、心理学的に人間精神に迫ろうとする試みがある。なんとなく精神は、生前から存在し、死後も存在し続けるような予感がする。この不思議な感覚が、神の存在という仮説を生み出し宗教思想を盛り上げ、無意識に宇宙の時系列を精神の寿命と重ねる。
キェルケゴールは「人間とは精神である。精神とは自己である。」と語った。実存論者たちは、人間の実体は精神であり自己の中に存在すると主張する。言い換えれば、固体である肉体にはなんの意味もなさないことになる。幽体離脱した霊魂こそ純粋生命体というわけか。そして、精神をあまりにも崇高な地位へと押し上げた挙句、宇宙の創造主たる神と同列に扱うところに、人間のご都合主義が現れる。成功すれば自分の努力の賜物とし、失敗すれば偶然のせいにするのも道理というものか。

2011-01-02

時間不在説

一人の人間は、若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。
ところが、時間という概念を加えることによって、その両方を体現することができる。つまり、一人の人間に多重人格性を与えるわけだ。物理学は、物体の運動を当たり前のように時間の関数で扱う。対して、思考の活動は、精神時間と物理時間の偏微分関数で扱うがよかろう...
時間の概念は、精神になんらかの変化をもたす。この現象を「成長」と呼ぶ。ただし、時間は一方向性しか示さない。過去を悔いても、神は「おとといおいで!」と嘲笑う。すなわち、退化もまた成長と同じ方向にある...
無学な人物だと侮っていても、数年後には変貌する可能性だってある。数年前に借金した人格は、現在では違った人格になっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば「今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。自己破産法とは、この別人論に則ったものである。したがって、法の裁きが求める反省には、「チャラの原理」が内包される。
...アル中ハイマー著「時系列における別人論」、序説第三章「借金揉み消しの原理」より抜粋。

1. 時間不在説
数学は、あらゆる次元を平等に扱う。だが、実際に幅のない線なんて存在しない。厚みのない平面なんて存在しない。おそらく縦、横、高さだけで定義できる純粋な立方体なんて存在しないだろう。これらは数学上の抽象概念に過ぎない。数学者は、時間もまた一つの次元に過ぎないことを心得ている。
しかし、人間の認識は、時間という次元を特別扱いする。精神が拠り所にする実存という認識は、時間の流れをともなう空間の存在を前提しなければ説明できない。人間は、「三次元 + 時間」という空間認識の中で生きている。おそらく、存在を認識できる生命体は、「認識できる次元 + 時間」という概念からは逃れられないだろう。
では、精神を持つことを放棄すれば、認識する行為を放棄すれば、時間という枠組みから解放されるだろうか?数学者が考えるように、時間という次元もまた他の次元と同じように平等に扱えるだろうか?時間の概念があるから、経験や知識は蓄積される。矛盾の深みに嵌りながら...
アインシュタインは、エントロピーは全ての科学にとって第一の法則であると語った。エントロピーを一言で説明するならば、「一方向性に支配された認識や知識の蓄積」とでも言ってやるか。その証拠に、ほとんどの物理現象が不可逆性の呪縛に嵌ったままだ。あらゆる物理現象は、純粋な物理現象に人間の観測系が加わってはじめて成り立つ。それが認識の原理である。相対性理論は、人間の観測系においてのみ成立する理論なのかもしれない。となれば、観測する行為を放棄すれば、あらゆる物理現象は純粋な可逆性を示し、エントロピーは均衡を保ったままかもしれない。つまり、「エントロピー増大の法則」とは、観測系の原理というわけさ。
そして得られる帰結は、「時間は人間認識の産物に過ぎない」というわけさ。そもそも、実存なんて幻想なのさ。人間はそれを薄々と気づいているから、人間社会は現実から逃避するかのように仮想化へと邁進するのさ。

2. 浦島太郎伝説
昔々、時計もなくカレンダーもない時代があった。それでも、昼夜や星座の動きで時の流れを感じることはできた。もし、周りに何も変化がなければ、物体の運動が存在しなければ、時の流れをどのように感じることができるだろうか?
浦島太郎は、亀に乗って竜宮城へ行き、戻ってみるとそこは数百年もの歳月が経っていた。もし、地球ごと竜宮城へ行ったとしたら、それでも数百年が経っていたと言えるのだろうか?地球ごと瞬間移動するという宇宙現象が、頻繁に起こっている可能性はないのだろうか?いや、宇宙空間全体が瞬間移動している可能性は?そして今!この瞬間に亀に乗っているという可能性は?時間の流れの方向は、人間が勝手に決めただけのことで、実は自在に過去と未来を行き来している可能性はないのだろうか?時間が、過去、現在、未来の順番にきちんと整列して、一定間隔で刻まれるというのは本当なのか?などと考えるうちに、宇宙法則そのものに時間という概念があるのかも疑わしくなる。
そういえば、ちょっと前に「百年安心の年金制度」という謳い文句があった。百年も随分と短くなったものだ。国会議事堂の周辺には黒幕の住む穴があって、タイムスリップを頻繁に繰り返しているに違いない。これがブラックホールの原理というわけか。
時間認識とは、相対的な変化を認識することであって、人間はいまだ絶対時間なるものを知らない。もし知っているとしたら、それは光速であろうか?それはともかく、亀は絶対時間を知っているに違いない。亀(かめ)と神(かみ)には、なんとなく同じ音律を感じる。
破壊と創造が宇宙の原理だとすれば、精神の成長は自らの破壊によってもたらされるであろう。乙姫が「けして開けてはいけません!」などと言って玉手箱を渡すから、浦島太郎は衝動に駆られて自らの未来を破壊した。「浮気をするな!」などと言うから、男性諸君は破壊の乙姫を求めて夜の社交場へと向かうのさ。

3. なぜ、寿命があるのか?
食べ続ければ細胞は合成と分解を永遠に繰り返し、老化という現象がなくなってもよさそうなものである。DNAには、細胞の再生回数でも記録されているのだろうか?寿命とは、人間が神に近づくことを防ぐ仕掛けなのか?それとも、悪魔に進化することを防ぐ仕掛けなのか?
一方で、老化の先に死の恐怖が見えるからこそ、苦しみや喜びによって感動することができる。目の前の出来事がほんの一瞬に過ぎ去るからこそ、輝きを放つ。寿命は、精神の成長には欠かせない原理というわけか。その過程で、人間には、必死に生きるか、必死に死ぬかの二つの選択肢しか与えられない。
経験や知識の蓄積は、次の世代に受け継ぐしかない。だが、負の遺産も紛れる。人間社会は、相変わらず子孫にツケを残したまま借金を増幅させる。伝統的に「いまどきの若い奴は...」と説教じみた愚痴が呟かれるが、今では「いまどきの年寄りは...」と嘆かれる。医療が進歩し寿命が延びれば、年齢差はますます誤差に吸収されるだろう。そして、親よりも子供があの世へ先立つケースも珍しくはなくなるだろう。いくら長生きしても、知性と理性を同時に装備することは難しい。
歳を重ねるとだんだん一年の長さが短く感じられる。生きてきた年数に対して一年の占める割合が小さくなれば、それも自然であろう。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。寿命というシステムの存在が、人生の果敢さを強烈に印象づけやがる。

2010-12-29

"Beautiful Architecture" Diomidis Spinellis & Georgios Gousios 編

本書を購入したのは一年前であろうか。買ったはいいが積み上げたままの専門書が数十冊にのぼるのには頭が痛い。とりあえず、こいつは本年中に片づけておこう。
「ビューティフルアーキテクチャ」は、オライリー君の「ビューティフルコード」に続くシリーズ第2弾。アーキテクチャといえば個人的にはハードウェアの印象を与えるが、ここではソフトウェアアーキテクチャを題材にしている。

近年、マシン性能の向上やネットインフラが高度に整備される中で、ソフトウェアが巨大化し社会の仮想化を加速させる。そして、社会に利便性をもたらす影で、OS、Webアプリ、プログラミング言語など、あらゆるソフトウェアの脆弱性が問題視される。Web開発環境では、この言語を用いればセキュアなコードが書けるといった優位性を強調しあう。だが、どんな開発手段を用いたところで、安全性の高いソフトウェアを開発するのは難しい。そもそもハードウェアを動作させるためのプリミティブな言語が存在し、言語の脆弱性を言語でカバーするといったことを繰り返しても、いずれ自己矛盾に陥るであろう。となれば、開発プロセスへの取り組み方などの慣習が重要となる。それは開発者の哲学的思想に拠るところが大きく、その思想と深く結び付くのがソフトウェアアーキテクチャであろう。そして、プログラム思想からマネジメント思想に至る開発プロセス全般に関わることになる。
古くからソフトウェア工学では、信頼性、移植性、再利用性といった問題が議論されてきた。プログラムが巨大化すれば、多くの技術者が携わることになり、開発思想の一貫性を保つことも難しい。そこで、コードを超えたレベルでの抽象化や構造化の手法が求められる。システムが複雑化するからこそ、設計思想はできるだけシンプルでありたいものだ。

一つのソフトウェアとして完成させるためには、設計思想から逸脱したコードが一つでも紛れ込むと不具合の原因になりやすい。せっかく良い思想に統合されたシステムであっても、安易な機能追加や修正によって本来の思想を破壊してしまうことがある。応急措置やその場しのぎの対策は、後に技術的負債となって返ってくるものだ。しばしば目先の開発日程を優先するあまりに、ソフトウェア資産の流用を政治的に強要されることがある。それは「ブラックボックス」と名付けられ、あたりに異臭がたちこめる。上層部は、その資産が対象システムに調和するかなど構っちゃいない。彼らは黒箱に潜む黒幕と仲良くしたいらしい。
悪い設計には、その上に更に悪い設計が覆いかぶさるようにできている。腐りはじめたモジュールは次々と伝播し、開発プロセスやスケジュールに影響を及ぼし、ついには人間関係にも波及する。おまけに、メンバーのモラル低下や意欲低下を招き、技術魂をも失わせるであろう。どこぞの政治システムのように。したがって、マネージャには、簡潔な思想を損なうような安易な思考の流れに抵抗する資質が求められる。
「良いシステムアーキテクチャは、概念の統合を体現しています。つまり、複雑さを減じるのに役立つと同時に、詳細な設計やシステム検証の手引きとしても使い得るような、設計規則一式を備えるのが、良いシステムアーキテクチャです。」
アーキテクチャとプロジェクトチームには相関関係があり、相乗効果によって好転させるであろう。アーキテクチャは、設計仕様や図面といったもので表現できる単純なものではない。レビューや会議、検証工程や修正プロセス、あるいは意思決定プロセスに関わり、いわば組織文化の設計に関わると言っていい。ちなみに、プロジェクトマネジメントで最も重要なことはメンバーの哲学的認識の共有だと思っている。それは技術者魂に則ったもので、その認識が一致していれば問題が発生した場合でも少々無理がきく。
オープンソースのような形態では、開発者たちに自由という崇高な哲学思想が根付いている。自由とは、相手の思考を尊重することを意味し、けしてわがままを許さないだろう。好転したプロジェクトの影では、あらゆる意思決定の権限を持つマネージャが、慈悲深い独裁者として振る舞っているものだ。
本書には、オブジェクト指向提唱者のバートランド・メイヤーをはじめ19人もの開発者によってソフトウェア哲学への思いが込められる。彼らは、仮想化やスケーラビリティ、データ構造の美、エンドユーザによる拡張性、言語の原理と構造などから眺めたアーキテクチャを議論し、最後の章では古典の再読を勧めている。思想というものは歴史的に育まれるものであり、その根本思想を古典に求めるのは大切であろう。
そして、アインシュタインの言葉「すべてをできるかぎり簡潔に、ただし簡潔すぎないようにしなさい。」をアレンジして、「美しいアーキテクチャとは、最大限に簡潔であり、そして簡潔すぎないようなものだ。」と語る。

1. スケーラブルのためのアーキテクチャ設計
不特定多数に仮想世界を提供するようなサービスでは、スケーラビリティの問題が重要となる。実際に、突然数百万人がアクセスして破綻したサイトやサーバを見かける。マシン性能やネット環境が充実すれば、オンラインアプリケーションに求められる機能も複雑化する。オンラインゲームでは、急激に人気を博して負荷が増大する場合もあれば、急激に需要が減って撤退する場合もあり、システムの増設や削減に対して柔軟に対応しなければならない。そこで、分散かつ並列システムは必然となる。オンラインゲームは、マルチコアチップと分散システムの検証には、うってつけの分野かもしれない。
しかし、ゲームプログラマたちに、並列プログラミングや分散システムといった高度な専門知識を要求するのは難しいという。そこで、メイン機能は単一スレッドを実行する単一マシンを想定しておき、ジョブを複数マシンや複数スレッドに配置する機構は別に管理する例を紹介している。つまり、プログラマから並列性や分散性を隠蔽する仕掛けで、ロックのプロトコルや同期やセマフォなどを、ゲームプログラムのコードに一切含めないというわけだ。だが、並列性を完全に隠蔽することはできなかったという。プラグラマたちに、並列アクセスを念頭に置いた設計が必要であるという意識を持たせる努力もしたという。
定義するオブジェクトは自己完結し、依存性を極力避ける構成にするのは望ましい設計原理ではあるのだけど。その範疇に収まらないケースでは、システムの特性を意識させるような指針のようなものを提示する必要があるだろう。

2. リソース指向アーキテクチャ
企業システムの情報集中型アーキテクチャは、スケーラビリティ、フレキシビリティ、アーキテクチャのマイグレーション戦略、情報駆動のアクセス制御など、多くの特徴においてWebと類似しているという。
にもかかわらず、Web上のデータ管理と、企業内の情報管理の仕組みが原理的に異なるケースが多いのはどういうわけか?それは技術選択よりも企業ポリシーに縛られるからであろうか。従来のレガシーなシステムがボトルネックになることもあろう。インフラ技術の進化した組織でさえ、管理者と消費者の間で領分の争奪戦が起こるのが人間社会というものである。情報管理部門が自らの存在感を無理やり強調するために、奇妙な規定をシステムに盛り込むことすらある。こうなると、技術的な問題は政治的な問題にすり替えられる。
そこで、Web技術が政治的問題を迂回するという。Webの成功はまさしく情報の共有にあるから。リソース指向の形式では、リソースに対して論理リクエストを発行するというプロセスが特徴にある。リクエストはエンジンによって解釈され、対象リソースの物理表現、例えばhtmlやxmlの形式、あるいはJSONなどに変換される。そして、データ駆動型によって、ビジネスインテリジェンスや知識マネジメントなど新たな統合戦略が導入できるという。

3. Facebook プラットフォーム
「私にフローチャートだけを見せて、テーブルは見せないとしたら、私はずっと煙に巻かれたままになるだろう。逆に、テーブルが見せてもらえるなら、フローチャートはたいてい必要なくなる。それだけで、みんな明白にわかってしまうからだ。」
...フレデリック・ブルックス著「人月の神話」より。
高度な情報化社会では、ユーザに対するサービスの価値よりも、データそのものの価値が高まった。となれば、コンテンツの見せ方や可視化規則といったポリシーが重要となろう。高速にデータを取り出すための仕掛けでは、データ構造は重要な役割を占めるだろう。
Facebookは、データ周辺に構築されたアーキテクチャの良い例として紹介される。そして、プラットフォームとして構築される過程で、データ構造が成長する様子を物語る。
SNSの世界では、周辺アプリを一般ユーザによって整備されてきた例は多い。サービス開始当初は思いっきり使い勝手が悪かったりするが...
Facebookでは、外部システムと連携しながら統合的なシステムへと進化し、ユーザのソーシャルデータがアーキテクチャの中核になったという。プラットフォームは、Webサービス(Facebook API)から、クエリ言語(FQL)やデータ駆動型マークアップ言語(FBML)へと進化し、アプリケーション開発者がこれらを使って自分のシステムとFacebookを統合できるようになったという。
ただ、Facebookは個人情報の扱いでいろいろと物議をかもす。「Like」ボタンは大手新聞社などが取り入れたらしい。ユーザの趣味や好みを把握しながらターゲットマーケティングを強化するということは、個人情報の公開とも解釈できそうだし...

4. Xenと仮想化の美
Xenは、一つの物理マシン上で複数のOSを実行させるための仮想化プラットフォームである。これは、ケンブリッジ大学の研究から始まったが、GNU GPLライセンスでオープンソース化によって発展した例である。
オープン化によって純粋な議論の中で育まれた技術は、純粋な技術者魂を呼び覚ますような空気がある。ある種ボランティア的で、組織の垣根を越えた共通精神のようなものが育まれる。客観的な自由を求めるならば、組織の主観的呪縛から解放されたいと願うだろう。
また、仮想化の概念が、ソフトウェア技術に大幅な進化をもたらしたことは間違いない。CPUやデバイスなどの仮想化が限られたハードウェア資源の共有をもたらし、メモリの仮想化がソフトウェアの可能性を拡げてきた。MMUは、ページテーブルがメモリの拡張性やメモリ保護機能を与え、物理アドレスから仮想アドレスを扱えるようにした。
Xenは、IntelとAMDのCPU拡張をサポートする最初のハイパーバイザーになったという。
他にもBochsやQEMUやVMWareなどの仮想化があるが、マシン資源の限られた貧乏人にはありがたい機構だ。

5. Guardian: フォルトトレラントなOS環境
1970年代のお話。Guardianは、Tandem社のフォルトトレラント(無停止型)なコンピュータ「NonStopシリーズ」のためのOSで、単一障害点が生じないように設計されているという。つまり、システムの構成要素のどの一つが故障しても、全体としては故障しないように考慮されているというわけだ。そのターゲットは銀行システムやATMなど、自己診断と自己修復が必要な業界である。
最初の実装は、バックアップのために各コンポーネントが少なくとも二つずつ用意されたという。CPUにしても二つ以上実装される。ファイルの対構造や、メモリ上で動作するプロセスが対になって動作させることが、フォルトトレラントの基本的思想である。となれば、対になって動作させるための調停機構が必要となろう。その基本概念が、診断、修復、同期ということになろうか。
いずれにせよ、修復能力は確率論に持ち込まれるわけだが、自然界の実践的な解に二重構造があるのかもしれない。などと思うのも、遺伝子コピーの不完全性に対するバックアップ機能として、DNAの二重螺旋構造があるからである。ディスク上でファイルを管理するFATも、テーブルを二重に持って読み出しエラーを抑制する。RAIDなどのバックアップシステムにしても、その基本思想は二重化である。Tandemコンピュータは、その先駆けだったのかもしれない。
しかし、その革命的なシステムであるにもかかわらず、業界への影響は少なかったそうな。ディスクのミラーリング、ネットワークファイルシステム、クライアントサーバモデル、ホットプラグ可能なハードウェアなど、その根源をTandemに見出すことはできないという。歴史に登場するのが早すぎたということであろうか。

6. Jikes RVM: メタサーキュラーな仮想マシン
Jikes RVMは、Javaアプリケーションを実行するための仮想マシンで、Javaで書かれているという。最適化コンパイラ、スレッド機能、例外処理、ガベージコレクションなどもJavaで書かれているらしい。コンパイラを自己ホスティングするのは当たり前だが、実行環境の多くは実行する言語で書かれていない。例えば、CやC++で書かれた実行環境が、Javaアプリケーションを実行したりする。Java言語がいくらメモリ安全性を主張したところで、実行環境のシステムに問題があれば意味がない。したがって、実行環境においても自己ホスティングするのは重要な意味があるという。ちなみに、自己ホスティングな実行環境のことを「メタサーキュラー」という。
マネージド実行環境は、特定のOSやCPUアーキテクチャに依存しない抽象化された環境を提供する。そして、マネージド環境のための言語は、アプリケーション設計の間違いを犯しにくくする。ユーザは、開発モデルを単純化し、ただ言語の提供する機能に従えばいいのだから。ただ、開発ツール自体がアプリケーションであるから、最良のアプリケーションを作成するということは自己言及的でもある。今日では、スクリプト言語や数値演算言語など、状況に応じて最適な実行環境を選択できるようになった。多くのマネージド環境の恩恵を受け、ネイティブコードに触れることもなくなった。
そういえば、10年以上前に何かとネイティブコードと連呼するオヤジがいた。当時、雑誌ではコンパイラの性能比較やらでネイティブコードで盛り上がっていたような気がする。対象システムは、製造ラインで制御するマイコン群の動作状況をモニタするだけで、大したリアルタイム性もない。逆にネイティブコードの方が恐ろしいように感じたが、どうやって管理するんだろう?と不思議に思ったものだ。ちなみに、彼を「ネイティブおじさん」と呼んでいた。

7. GNU Emacs: 漸進的機能追加方式が持つ力
Emacsが、Lispによって拡張性が高いのは広く知られる。ただ、その使い勝手では意見が分かれるだろう。単なるエディタの域を超えて、多様なプラットフォームもどきにもなっている。telnetやsshの端末やメーラなど。なによりも、拡張性はユーザ任せという特徴がある。そのアーキテクチャは、対話的アプリケーションで普及するMVC(モデル, ビュー, コントローラ)パターンに従うという。モデルの中心はバッファ型で、ちょいと操作してみれば、画面の表示切替がバッファと連動して重要な役割を果たしていることが分かる。バッファがオブジェクトという意味合いを持っていて、表示される場面に応じて使えるコマンドも決まり、Lispで操作できる変数も決まる。バッファ毎にundoなどのロギング機能を持ち、マーカで操作位置を保持する。
再表示エンジンであるビューは、二つの特徴があるという。それは、表示の自動更新と、ユーザが入力待ちの時だけ表示を更新すること。表示を更新するべき時に、累積変更点を効率的な集合体として渡す。こうした機構が、Lispから画面を管理する負担を除き、連続コマンドによるマクロ機能やバッチ処理的な拡張性をより高めているという。また、コントローラは、ほぼ全面的にEmacs Lispのコードである。

8. オブジェクト指向 vs. 関数型
バートランド・メイヤーは、オブジェクト指向と関数型の比較から、その優位性を論じている。そして、サンプル数が少ないとしながらもオブジェクト指向に軍配を上げている。まぁ、Eiffel開発者としては当然かも。しかし、オブジェクト指向言語の中にも関数型の特徴が多く含まれるので、対立関係にあるというわけでもなかろう。拡張性や再利用性の観点から抽象レベルではオブジェクト指向が優勢であろうが、場面によっては関数型言語の方が軽い。関数型言語はLispで代表されるように歴史は古いが、今ではScheme, Haskell, OCaml, F# などの新言語により復活を見る。
関数型言語の魅力は表記が簡潔なところにあるが、その特徴をオブジェクト指向言語に取り入れているものも多い。いずれにせよ、万能な言語は存在しないだろう。オブジェクト指向で特徴づけられる継承の概念も、実践するとなると難しい。どのレベルで継承するか、その抽象レベルは慎重に検討しないと逆に混乱を招く。だいたい設計した後に継承構造の弱点が目立ち、いつも修正したいという衝動が付きまとう。したがって、忘れることが精神的に健全であり、続けるコツである。そして、次回も同じ失敗を繰り返す羽目になる。アル中ハイマー病とは、永遠に学習能力が身につかない病であった。

2010-12-26

"道具としてのベイズ統計" 涌井良幸 著

統計学と言えば、一般的には数学に分類されるのであろう。確率論とも深くかかわるし。ただ、数学の中でも少々異質に思えるので、いまいち好きになれない。応用数学を学べば、解析学と結び付いて正規分布や誤差評価などに触れなければならないが、少々拒否反応を起こす。その源泉を遡れば人口分布や死亡統計などがあり、むしろ社会学や経済学に近い印象がある。しかも、結果を正規分布やポアソン分布などに無理やり当て嵌めようとする。モデリングに失敗すればまったく役に立たないのに...ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいと思うのだが、おそらく複雑系を扱うような分野では、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。つまり、いかに分布モデルに当て嵌めるかといったことに囚われ過ぎるあたりに、肌が合わない理由がある。
そんな統計学嫌いでも、ベイズ統計にはなんとなく興味がある。数年前から日常でお世話になっているからだ。お気に入りのツールの一つに、スパムメールのフィルタリングで活用しているPOPFileがある。これが、ナイーブ・ベイズ法というアルゴリズムの凄さを実感させてくれる。まず驚いたのが、2、3日でほぼ収束したことだ。一週間もすれば、誤り率は0.01%にも満たないだろう。このサンプル数の少なさで、これほどの実力が示せるのは、それなりの学習機能が具わっているに違いないと想像していた。
ところが、本書を読むとそれほど難しいアルゴリズムでもなさそうだ。確かに、POPFile自体は軽いツールである。ナイーブというからには単純化されているのかもしれない。あるいは個人で扱うメールのキーワードなんて、それだけ偏っているということか?ちなみに、このツールに一発で惚れた最大の理由は、嫌な奴からのメールをいきなりスパムと認識したことである。

本書は、ベイズ統計の入門書である。その名は18世紀後半のスコットランドの牧師トーマス・ベイズに由来するらしい。統計学は客観的な分析を主眼に置く世界だと思っていたら、いきなりベイズ統計は主観確率を支柱に据えているという。当時、数学的思考に主観性を持ちこむというだけで見下されたであろう。現在でもその風潮がある。統計データにも個性はあろうが、人間を取り巻く世界はますます複雑化し個性を抽出するのも難しくなってきた。しかも、社会学や経済学の現象では主観的要素が強いので、そういう分野を扱う方向性としては自然なのかもしれない。
その思考では、母集団全体の情報を必要とせず、不完全情報下での確率を求めるという従来の統計学とは真逆の発想がある。ちなみに、ベイズ統計は推測統計学に分類されるという。機械学習やデータマイニングなどと組み合わせると、推論の分野で強力な道具になりそうだということは想像している。
解析学で微分方程式や確率論が役立つのに対して、統計学では積分が重要な役割を果たす。確率分布は確率密度関数で表現され、その関数は平均値や分散などの形で積分的に表現される。本書にもその傾向が随所に現れる。ただ、例題でExcelを用いているところに少々抵抗がある。Excelが悪いツールとは思わないが、厄数2007に憑かれてから嫌いになった。まぁ、数値演算言語に置き換えて読むことは簡単なので、それほど目くじらをたてることもないかぁ。
しかーし、アル中ハイマーの理解力では肝心な事がウヤムヤで終わってしまった。入門書とはそうしたものであろうか。書かれていること自体に難しいところはないのだけど...もう一冊探してみるかぁ。ちなみに、ベイズ統計学派を「ベイジアン」と呼ぶそうな。こういういかにも経済学風の発想が嫌いなのだが...

1. ベイズの基本定理
本書は、乗法定理をちょいと変形しただけでシンプルな定理を説明している。その基本の考えは「条件付き確率」にあるという。
「ベイズ統計の基本公式: 事後分布は尤度と事前分布の積に比例する。」
まず、分布モデルに当て嵌める方法を紹介している。そして、その重要な概念に「自然な共役分布」があるという。事前分布を尤度と掛け合わせると、同形の分布、例えばベータ分布、正規分布、ガンマ分布などに事後分布が変換される時、その事前分布を尤度の「自然な共役分布」と呼ぶそうな。
また、尤度は、二項分布や正規分布やポアソン分布といった形に従う場合を扱っている。それぞれの分布モデルの組み合わせは、用途に応じて使い分けるようだが、その判断基準にベイズファクター(ベイズ因子)というものがある。それは「モデルの説明力」というものを尤度の総和で測るという。「モデルの説明力」とは、分布情報における個性の強さといったものであろうか、事後確率の母数についての確率の総和で示される。ちなみに、ベイズ統計における尤度とは、最尤推定法の尤度関数に相当するものらしい。「条件付き確率」の重ね合わせによって尤度関数の精度を上げていくようなイメージであろうか???

2. MCMC法
ベイズ統計は、推定の難しい複雑なモデルに対して強力な道具になるという。その鍵となるのが「マルコフ連鎖モンテカルロ法」という技術だそうな。これは、複雑な事後分布をそのまま計算するらしい。「マルコフ連鎖」とは、ランダムウォークを一般化した確率過程だという。完全なランダムウォークを記述することは不可能であろうが、もし記述するとすれば、すべての母数を対象にすることぐらいしか思いつかない。
ところが、マルコフ連鎖は一歩手前までの記憶情報を元にするだけでいいという。互いに隣の母数とのかかわりを持つだけで、二つ以上の母数の過去や未来に囚われない効率の良い関数のサンプリングが実現できるのだそうな。ちなみに、「モンテカルロ法」は、カジノで有名な地に由来する。
計算例では、サンプリングした点によって表れる関数の積分を、点列の総和で近似している。ただ、結局サンプリング数を多く取ることで精度を上げているようだ。サンプリング数を多くとれば複雑な関数になるが、コンピュータの性能に依存するところが大ということか。
また、「メトロポリス法」というものがあるという。分布の大きさに比例してサンプリング密度を変えるようだ。
サンプリング間隔を見極めながら、より効率的な演算量を模索するといった感じであろうが...

3. 階層ベイズ法
個性の見つけにくいデータ群を扱うには、多くの母数を駆使した複雑な統計モデルが必要となろう。モデルが収束しなければ母数を多く必要とするというような発想は現実的ではないのだろう。伝統的な統計学では、できるだけ単純なモデルに当て嵌めることを考える。母数が少なければ計算量も少なくできる。例えば、正規分布を仮定して、平均値と分散だけで統計モデルを決定できればありがたい。
その逆に、十分多くの母数を用意する考え方が、「階層ベイズ法」だという。コンピュータの性能が高まったことで、なせる技というわけか。とはいっても、例題では、事前分布を二項分布や正規分布などのモデルを仮定し、すべての母数で共通の特徴を数値化したものと、各母数の特有性を数値化したものを組み合わている。なんらかのモデルを仮定して、共通と個性の二面から解析し、差分を分析するような感じである。集団としての傾向が弱いということは個性が強過ぎるわけで、単に母数を増やすだけでは発散してしまいそうだ。結局、なんらかの統計モデルを仮定するしかないのかもしれない。
一方でモデルを仮定しながら、一方で個性の母数を増やすといった手法を組み合わせながら解析するイメージであろうか???

2010-12-22

"天文対話(上/下)" ガリレオ・ガリレイ 著

「天文対話」は、正しくは「二大世界体系についての対話」と呼ばれるそうな。二大体系とはプトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説で、いわば宇宙建築術の論争である。プトレマイオス説には、アリストテレスの弟子たち、すなわち逍遙学徒の伝統的思考が後押しをした。一方、コペルニクス説を支持したガリレオは異端審問にかけられた。しかし、地動説は真新しい世界観ではなかった。プラトンは、既に太陽を究極のイデアである善の象徴とし太陽中心説を唱えていた。太陽中心説を地動説とまったく同等に扱うことはできないが、反スコラ学思想として受け継がれるところがある。したがって、宇宙論の歴史を遡れば、アリストテレス対プラトンの代理戦争とすることができよう。
しかし考えてみれば、この世のあらゆる論争は、アリストテレスとプラトンの哲学的論争に帰着するような気がする。単純に抽象化すれば、主観対客観の構図に置き換えることもできよう。もっと言うならば、アリストテレスにしてもプラトンにしても記録として残されてきただけのことであって、ずーっと昔の記録媒体のない時代から続いている論争で、彼らもまた誰かの代理戦争をしていただけのことかもしれん。精神というやつは、数千年前から、数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。
アリストテレスは、プラトンがあまりに幾何学を研究し過ぎると批判した。数学をやり過ぎると哲学できなくなると。だからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...
とはいえ、スコラ学派を批判する気になれても、アリストテレスを批判する気にはなれない。弟子たちが師匠の名声をあまりに持ち上げようとして、かえって貶めることがある。その偉大さゆえに反論することにも臆病となる。だが、哲学者を崇めて反論しないのは哲学を蔑むことになる。ましてや、論理学の創始者とされるアリストテレスが、新事実に寛容さを見せないとは考えにくい。
ニーチェ曰く、「あのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人物であった。」
偉大な思想は、その後の影響の仕方によって、言いがかりのような批判に曝されることがある。本書は、アリストテレス学説を鵜呑みにしてきた伝統的学派への批判と同時に、アリストテレスの偉大さを物語る。

ガリレオ・ガリレイとは、なんとも舌を噛みそうなネーミングであるが、長男の名に姓を重ねるというのがトスカーナ地方の古くからある風習だそうな。
ところで、ローマ教会の足元であるイタリア人が天動説に異論を唱えたのは運命のいたずらであろうか。ローマ教皇は、教義に反するとしてピタゴラス学派に沈黙を命じたり、1616年の異端審問で地動説を唱える者を譴責すると布告した。ガリレオは「真正の真理の証人」として黙ってはいられないと告白する。当時の科学論争は、イデオロギー色が濃く、科学をするにも命がけである。
本書は、地動説を完全に説明したわけではなく、どちらが収まりが良いかを示したに過ぎない。つまり、どちらが合理的に説明できるかという対話である。ここではスコラ学派の主張に疑問を抱かせるだけで十分であろう。だが、「天文対話」は発売禁止になり禁書目録に入れられたという。

さて、この対話をどこまで中立の立場で読むことができるだろうか?それを今宵のテーマとしたい。もし、今までの知識が何らかの方法で否定されたならば、今の自分の思考はどこへ向かうだろうか?知識とは実に脆いものである。そのほとんどが自分自身では実証できないのだから...ただ、哲学的で論理的な議論は、互いの意見に耳を傾けさせる効果があるように思う。論理的に組み立てられた意見は納得しやすい。そこに論理的な隙があれば、修正すればいいだけのこと。
本書にも論理的な隙があり、あのガリレオにして誤謬を犯すことになる。知識は歴史的に育まれてきた。前提説が否定されたからといって、最初に唱えた者を蔑む気にはなれない。だが、それを盲目的に崇めてきた有識者と呼ばれる人たちは蔑むに値するかもしれない。本書の主旨はこれではなかろうか。そして、中立の立場になることの難しさを思い知らされる。いや、精神が介入すれば、それは不可能なのかもしれない。偉大な人物ほど世間に振り回されずに、人生を有意義に過ごすことができるのだろう。羨ましい限りだ!

1. 三人の登場人物
プトレマイオス派のギリシャ哲学者シムプリキオスの名前は、イタリア風では「シムプリチオ」となる。彼は逍遙学徒で、スコラ学派や教会関係者の代表者を演じる。ちなみに、逍遙学徒とは、プラトンの学園アカデメイアに対抗してアリストテレスが創設した学園リュケイオンの学徒で、「逍遙しながら(散歩しながら)」議論するところからきている。
コペルニクス派の「サルヴィアチ」は、フィレンツェの紳士、パドヴァ大学でガリレオに学んだ人物で、ここではガリレオの代弁役を演じる。
中間派の「サグレド」は、ヴェネツィアの紳士、パドヴァ大学で学ぶガリレオの弟子。

2. 四日間に渡る論争
一日目は、世界の三次元性とそこから導かれる完全性について熱く語る。天空と地上の現象で統一的性質を示しながら、ガリレオ哲学が披露される。
二日目は、地上の現象について議論する。物体の運動における直線運動の一時性と円運動の永続性を示しながら、地上が永続的に存在しうるのは円運動のほかにはないとしている。この時代に「コリオリの力」という言葉が登場するはずもないが、自転の実証として弾道実験で見事に示される。ただ、地球が自転しているとしても、地球中心説からは脱皮できない。
三日目は、天空の現象について議論する。この時代には、太陽の黒点の形状の変化、月面の凸凹、内惑星と外惑星の軌道の相違、恒星の誕生や消滅などが観測される。太陽や月に不純物が存在することや、天体運動の秩序の乱れは、天空の完全性を唱える人々にとっては厄介である。それは、プラトンが太陽を理想イデアと崇めたことも否定されるのだが。天体観測の信頼はひとえに精度にかかっているので、果てしないスケールに対して感覚的に信じられないのも仕方がなかろう。天文器具の用い方ひとつで、容易に誤謬の入る余地を与えるのだから。ちなみに、プトレマイオスは、アルキメデスのつくった天文器具を信頼していなかったという。
さて、ここまでは天動説を否定するに至ってはおらず、地動説の可能性を示したに過ぎない。
注目すべきは、四日目である。潮汐現象が地動説の決定的証拠として結論付けているのだから。すなわち、地球の日周運動と年周運動の合成力によって、月周期で潮の満干現象が生じるとしている。万有引力の概念がまだ登場していない時代とはいえ、伝統的に重力なるものの存在は自明とされてきた。だからといって、地球と月、あるいはその他の天体との引力関係を考慮しなかったことが責められるものではない。ガリレオにして、頭のどこかで重力が地球固有のものであると仮定していたのかもしれない。それにしても、日周運動と年周運動の中間をとって月周期の現象を説明するとは、あまりにも安直である。現代科学の知識があるからそう思うだけのことかもしれないが。
あの天才にして誤謬を犯したというわけかぁ...そりゃ現代の有識者どもが平気で誤謬を犯し、しかもそれに気づかないのも仕方があるまい。

3. アリストテレスの世界観も捨てたもんじゃない!
万物は宇宙法則に従い、宇宙は単純で美しい構造をしているという根本的な思考は、プラトンもアリストテレスも同じで、現代科学にも伝統的に受け継がれる。
ただ、アリストテレスの天空と地上の関係は、不死なるものと死すべきものを完全に隔離し、純粋物と不純物を分離する。天空を完全なる存在とした時、地上のあらゆる不完全で可変的な現象は、地球を特異な存在としなければ説明できない。天は、まさしく神の住みかに相応しいというわけだ。死によって天に帰するとか、精神の安住の場が天にあるといった迷信的発想も、アリストテレス的思考に似ている。人間の直観は、生命の有限性に対して、天の無限性なるものに憧れを抱くものだ。宗教は、こういう心の隙間に巧みに入り込む術をよく心得ている。
また、アリストテレスは、世界の完全性を三次元においてのみ可能とし、宇宙空間を三次元空間であることを唱えたという。三つの次元を有したもののみが別の次元に移動することができ、それはピタゴラス学派の三つの数によって規定されるという。つまり、立体だけが、あらゆる方向に連続性があり、あらゆる方向に分割できるとしている。そして、物体の運動を、直線運動と円運動、その二つの混合運動で規定する。この考えは、人間の住む空間と非常に調和し、すべての運動は合成体として説明できる。故に、三次元空間は完璧というわけだ。
更に、直線運動をより不完全性、円運動をより完全性としている。天が不滅であるには、天界は円運動を必要とし、地上だけが静止したままでいずれ消滅するというわけだ。
だが、本書は、合成運動を定義するにしても速度の変化や力関係にふれていないと指摘している。速度の変化がなければ、地上は穏やかでいられる。つまり、ガリレオは慣性の法則を匂わせている。
無理やりアリストテレスの世界観を正当化するならば、太陽ですら、宇宙の天体ですら、天には到達していないということは言えるかもしれない。神は宇宙よりも天上にお住みになっているなどと言えば、宗教家も喜ぶだろう。なるほど、宗教の仮想化は、人間社会の仮想化よりも、はるかに先を行っているわけか...

4. 大地が静止しているというアリストテレスの根拠
アリストテレスは、地上の実体を地上の四元素の地、水、空気、火でできているとし、天界の実体を第五元素のエーテルでできているとした。そして、エーテルで充満しているからこそ、全天空が連動して運動することができると説明する。
地上のものはすべて大地の中心に向かって垂直に運動する。すべての恒星も、同じ場所から昇り、同じ場所に沈む。つまり、すべての運動は、大地の中心に向かう重力の影響を受けているように見える。潮汐現象や空気の移動を説明するにしても、地上には陸地もあれば海面もあり、陸地だけでも起伏があるからして、その凸凹から重力の不均衡が生じると説明しても、十分に信じられる範疇にあろう。また、大地が回転していれば、物体の落下運動は垂直ではなく回転方向の影響を受けると考え、大地が西から東に回転するならば、激しい東風にさらされるはずだと考えるのも不思議ではない。
なのに、大地の大気が穏やかなのはなぜか?その反駁では、運動が加速も減速もしなければ、表面上は穏やかであるとしている。これは、まさしく慣性の法則である。しかし、重い物体で形成される地球の表面自体は、中心から遠ざかりもしなければ近づきもしない特別な球面としている。地上の特異性という観点は、ガリレオにしてアリストテレスの世界観からは脱皮できていないようだ。それでも、現在の政治屋やエコノミストたちの論理よりは、はるかに説得力を感じるのだけど...

2010-12-19

"星界の報告 他一編" ガリレオ・ガリレイ 著

エラトステネスは、太陽からの光は地球のどの地点でも平行になると仮定し、異なる地点で棒の影の長さを測定して、ほぼ正確に地球の全周を割り出した。ミクロネシアの人々は、アメリカ大陸が発見される遥か昔から、日の出の方角と星座の位置という単純な天文知識を利用してハワイ諸島からニュージーランドに至る太平洋諸島の各地に移住した。しかもカヌーで。そして今、位置を特定する最新技術は古代の天文知識を基礎にしている。今後も古代の天文知識は科学技術を進化させるであろう。天文学には、なんとなく人類の知能の根源的なものを感じる。
ガリレオは、自らの手で完成させた望遠鏡で30倍に拡大された星界と初対面をはたす。「星界の報告」は、月面を観測し、銀河や星雲の正体を暴き、そして木星の4つの衛星を発見した観測記録である。尚、本書にはマルクス・ヴェルザー氏へ宛てた「太陽黒点にかんする第二書簡」が併収される。

ガリレオの望遠鏡による天文学的発見は、近代科学の序幕を飾るにふさわしい出来事と言っていいだろう。その精緻な観察力や想像力には感動させられる。まさしく「百聞は一見に如かず」を実践したわけだ。
ガリレオは、自ら綴るように望遠鏡の最初の発明者ではなかった。だが、屈折理論に基づいた工夫を熱く語り、自らの独創性を強調する。そして、観測対象が地上ではなく天空に向けられた時、それが科学の道具となった。「観測する」とは、「人間が知覚する」という哲学的意義を証明してみせたと言ってもいい。今日この型の望遠鏡がガリレオ式と呼ばれるのもうなずけるわけだ。
しかし、ガリレオは、古い世界像に新たな視点を与えたがために、後に宗教裁判へと導かれることになる。「星界の報告」は、世界を揺るがせた最初の報告であった。そして、「太陽黒点にかんする第二書簡」で伝統的論者を論駁する。
ガリレオは、まもなく土星はピッタリとくっついた三つの星であると主張した。当時の望遠鏡の性能では、土星の環は両側に小さな星がくっついているようにしか見えなかったようだ。
やがて禍をもたらすのは、イエズス会のローマ学院の数学者たちで、ガリレオの評判が高まるにつれ中傷と非難の攻撃を浴びせかける。だが、ガリレオにも少なからず味方がいた。ケプラーは「星界の報告論」を書いてその功績を讃えた。「星界の報告」は、第4代トスカーナ大公メディチ家のコジモ2世にささげられたことが序文に記される。

天動説が優勢であった時代、キリスト教的宇宙像やアリストテレス的世界観では、天空の物質は完全でなければならなかった。アリストテレスは、世界を月下界と月上界の二つの領域に分けた。月下界では、地、水、空気、火の四つの元素からなる不完全な地上の領域で、あらゆるものが生成しては消滅するとした。月上界では、完全な天空の領域で、第五の元素エーテルからできいて永遠に不変とした。地動説を受け入れれば、二つの世界は同質となり、天空の完全なる領域、すなわち神の領域を否定することになる。
しかし、ガリレオは、月の観測では地球と同じように地表に起伏がある不完全な球体であることを証明した。おまけに、明るい空でも月が薄らと白く光る現象を二次光で説明した。つまり、月には固有の光は存在せず、地球が太陽光を反射して月に浴びせた結果の反射光だとした。アリストテレス的世界観では、地球を中心に、地球だけが光を発しない受動的な天体に添える。だが、月もまた地球と同じように、太陽光に照らされるだけの存在でしかないことを示したわけだ。
更に、木星の衛星の発見は、地球と同じ衛星を持つ球体が、他にも存在することを意味する。太陽にいたっては、黒点などという不純物の存在は絶対に認められない。ガリレオは、こうした宇宙観を宗教的にも哲学的にも論駁したわけだ。
ここで注意したいのは、本書は地動説を唱えているわけではないということだ。それを匂わせるには十分な証拠であるが、宇宙の中の地球は特別な存在ではないことを示したに過ぎない。既にコペルニクスが地動説を唱えていたが、ガリレオは観測的事実によって地動説的思考を推し進めたことになる。
では現在、神の住む領域はどこへ行ったのか?異次元空間か?天文学とは、神の住みかを永遠に探し求める学問というわけか。

「星界の報告」
1. 望遠鏡の製作
「およそ10カ月ほど前、あるオランダ人が一種の眼鏡を製作した、という噂を耳にした。それを使えば、対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる、ということだった。...そこで、ついに自分でも思いたって、同種の器械を発明できるように、原理をみつけだし手段を工夫することに没頭した。それからほどなく、屈折理論にもとづいてそれを発見したのである。」
あるオランダ人とは、ミッデルブルグの眼鏡屋ヤンセンとリッペルスハイという人だそうな。
本書は、望遠鏡の製作方法にも言及している。
...
まず、鉛の筒を用意し、その両端に2枚のレンズを取り付ける。レンズの片面は2枚とも平らで、他の面は1枚は凸、もう1枚は凹とする。そして、凹面に眼を近づけると、対象は9倍の大きさで3倍の近い距離に見える。更に改良を続け、1000倍の大きさで30倍以上も近い距離に見えるようになった。器械の倍率を簡単に決定するために、筒の長さと円の大きさを決め、誤差の少ない望遠鏡を製作した。
...
さっそく月を眺めると、地球半径のほとんど2倍しか離れていないように見えたと、その喜びを回想する。
ところが、おもしろいことにあらゆる星が、月と同じように拡大率が得られるわけではない。恒星では、はるかに拡大率が小さく4、5倍にしか拡大されない。それはなぜか?天体をなんの助けもかりずに自然の視力だけで見た場合、それは単純なむきだしの大きさにおいてではないという。夜がふけるといっそう輝いて見えるのは、視角は星の本体によるのではなく、それを取り囲む光彩の大きさによって決まることを示している。日没後まもない時に現れる星は、一等星であっても小さく見えたり、金星も最下等級の小さい星に見える。だが、月は真昼でも夜空でも同じ大きさに見える。それは、天体が放つ光が、真昼の光ですら凌駕するほど強く、それをもみ消すことができないからだという。
こうした現象は望遠鏡でも同じだという。天体が放つ光が、周辺の光彩を凌駕することができなければ、あらゆる光彩を取り去った上で拡大することになる。実際に、5、6等級の小星は望遠鏡で見ても1等級ぐらいにしか見えない。つまり、拡大率は、周辺の光彩と、天体自身が放つ光線との相対的な割合で決まることになる。これは、肉眼で見た時の集光力を暗示しているのかもしれない。

2. 月の観測
本書は、月面の暗い影のラインが微妙に凸凹に見えることから、月にも地球と同じように山脈や谷があることを示す。そして、太陽光の方向と影の長さから山の高さを算出する。ちなみに、今日の月面地図の作成に使われる方法は、原理的にはガリレオの観察と同じである。
また、明るい空でも薄らと見える月は、地球が太陽から受ける反射光によって写しだされることを説明している。光を放つのは恒星だけの特権ではなく、惑星ですら反射光を発するというわけだ。
更に、もう一つ興味深い発見がある。月のほぼ中央付近にある最も大きなくぼみは、ほぼ完全な球形を残している。ちなみに、クレータという言葉は登場しない。地球ですらほとんど原形をとどめているクレータを発見することは難しいのに、天体望遠鏡のレベルで月のクレータがはっきりと観測できる。これはいったい何を意味するのか?気候が安定しているということか?海のようなものは存在しないということか?生命体がいないということか?ここでは明確な結論が導き出されるわけではないが、少なくとも山脈や谷を削るような自然現象は存在しないように思えたであろう。

3. メディチ惑星の観測
ガリレオが木星の4つの衛星にメディチ惑星と名付けたところからも、メディチ家に対する敬意がうかがえる。伝統的に星や星座には、古代から伝えられる英雄たちの名が刻まれてきた。木星はローマ神話の主神ユピテル(Jupiter)で、ギリシャ神話ではゼウス。火星はローマ神話の神マルス(Mars)で、ギリシア神話では軍神アレス。水星はローマ神話の商業神メルクリウス(Mercury)。ヘルクレス座はギリシア神話の勇者ヘラクレスといった具合に...
ちなみに、あの敬虔なアウグストゥスも、ユリウス・カエサルを星座の英雄たちに加えようとして失敗に終わったという。当時出現した星にユリウス星と名付けようとしたが、ギリシャ人がそれを彗星と呼んで、まもなく消滅したそうな。そして、4つの惑星は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと呼ばる。それぞれ、ギリシア神話に登場する人物イーオー、ゼウスが恋に落ちたテュロスの王女エウローペー、オリュンポス十二神の給仕として近侍する美少年ガニュメデス、ニュンペー(女精)のカリストーに由来し、いずれもゼウスを取り囲む者たちである。ただ、メディチ惑星という名が普及しなかったのは、政治色を弱めたという意味で歓迎したい。
本書では、木星の衛星を発見するまでの物語が緻密に綴られる。木星の東に現れたり西に現れたり、あるいは木星の影に隠れたりする星があることが時刻とともに詳細に記される。東に二つ見えたり一つ見えたり、全部西に見えたり、あるいは等級が変わったり、星の配列が変わったり、黄道の方向に同一直線上に配列されたりと...
また、4つの星が、木星の順行運動や逆行運動に関係なく、すなわち地球から見える外惑星の動きにかかわらず、木星を中心に運動する。そして、これらの星が木星とともに12年の周期で太陽の周りを回転することから、木星の周りを回っていると結論付ける。この結果は、なにも惑星がすべて太陽の周りを回るというコペルニクス体系の崩壊とは言えないだろう。木星とともに太陽を回っているのだから。だが、当時は、月の動きですらコペルニクス体系に反すると攻撃されたそうな。

「太陽黒点にかんする第二書簡」
1. 慣性の法則のような...
本書には、後にデカルトによって体系化された慣性の法則のようなものが述べられる。
「わたしの観測するところでは、自然的物体は、重い物体が下方へ向うように、ある運動への自然的傾向をもっています。こうした運動は、なにか隠れた障害にさまたげられないかぎり、特殊な外的起動者を必要とせず、内在的原理にもとづき、自然的傾向によってなされます。自然的物体は、重い物体が上方への運動にたいしてもっているように、ほかのある運動にたいして反感をもっています。ですから、外的起動者から暴力的に一撃されないかぎり、そういうふうには決して運動しません。
また、自然的物体は、重い物体が水平運動にたいして示すように、ある種の運動にたいしては無関心を示します。地球の中心へ向わず、地球の中心から遠ざかりもしないから、重い物体には水平運動への傾向も反感もないのです。それゆえに、一切の外的障害をとりされば、地球にたいして同心的な球面上にある重い物体は、静止、および水平部分への運動にたいしては無関心なはずです。...」

2. 太陽の黒点観測
当時の宇宙像では、黒点は太陽の周りを回転する小さな星と考えられていた。神聖なる太陽の表面に不純物があっては都合が悪い。
しかし、ガリレオは、幾何学的な考察から黒点が太陽の表面に附着していると結論づけた。もし、離れているとしても、まったく感知できないほどわずかな間隔に過ぎないと。黒点の厚さもわずかだと。ガリレオは、太陽もまた地球と同じぐらい可変的な物体であることを主張したわけだ。
...
黒点の大部分は不規則な形をして連続的に変化する。すぐに変化するものもあれば、ゆっくりとほとんど変わらないものもある。暗さにも増減があり、時には濃密で、時には拡散し希薄になる。一つの黒点が三つや四つに分離し、また多くの黒点が一つに結合することもしばしば。その数たるや20個から30個にも達する。これらの現象は、太陽面の周辺よりも中心附近でよく起こる。
...
無秩序な個別運動のほかに、全体に共通する普遍的運動があるという。一様な運動によって、相互に平行線を描きながら、太陽の本体を通過していくという。
これらの現象から、...太陽の本体は球体である。太陽は自らその中心の周りを回転する。そのために黒点は平行な円にそって動く。...といったことが分かる。
太陽は、惑星の球体と同じように、西から東へ回転しながら、およそ一太陰月で一回自転する。黒点は多様な形をするが、細長い帯状の領域に出現する。それは赤緯の限界を示す円に対応する二つの円の間にあるという。その境界内を超えるところには一つも黒点を見つけることができない。その限界は、緯度にして南北に28度から29度だという。この帯状の領域とは、太陽の赤道近辺を流れるプラズマの動き、つまりは帯状流のことを暗示しているのかもしれない。少なくとも、黒点が太陽の自転に大きなかかわりがあることは明らかである。

3. けして肉眼では見ないでください!
太陽を直接見ずに観測する方法は、ガリレオの弟子でブレシアの貴族カステリ家のD.ベネデットという人が発明したという。望遠鏡の凹レンズの側に、4、5寸離して平らな白紙を置けば、太陽面が投影されるという極めて簡単な仕掛けである。紙を遠ざければ映像は大きくなり、極めて小さいものまで観測できる。明瞭な輪郭の黒点をみるには室内を暗くして、筒をと通ってくる光に外部の光が混ざらないように注意する。
本書は、太陽を直接見ると眼を傷つけると忠告しながら、黒点は肉眼でも見えるとも言っている。その大きさゆえに、水星が介在しているという誤った思考が生じるわけか。しかし、水星が太陽と6時間も重なって見えるはずがないと指摘している。6時間も見つめれば失明するかも...

2010-12-12

"新科学対話(上/下)" ガリレオ・ガリレイ 著

前記事でニュートンを扱っているうちに、なんとなくガリレオに立ち返りたくなった。それにしても「新科学対話」が絶版中なのは惜しい!「天文対話」の方は復刊したようなので注文中。ということで図書館を漁った。本書は岩波文庫から1937年に刊行されたものである。

ガリレイが、ニュートンに先だって近代力学を切り開いたのは誰もが認めるところであろう。彼は、天文学の先駆者としても知られ、望遠鏡で木星の4つの衛星を発見し、銀河の正体を暴き、あるいは、太陽の黒点、月の表面、金星の三日月、彗星などの観測で功績を上げた。土星については、三つの星で構成される三重性を説いた。しかし、当時の望遠鏡の性能では、土星の環は両側に小さな星がくっついているようにしか見えなかったそうな。
ガリレオは偉大な科学者で有名だが、同時に優れた教師でもあったという。教説的なものを嫌い、学者振らない性格が手伝って、このような親しみやすい対話形式を生んだのであろうか?あるいは、異端的な意見に対する厳しい社会風潮への皮肉的企画であろうか?後に宗教裁判に嵌められる予感でもあったのだろうか?などと思うのは、当時勢いのあったアリストテレス学派の批判書になっているからである。逆に言えば、アリストテレス哲学に精通した理解者でもあるのだが...

本書は、「自然界において、運動より古い根源的なものはない」と主張する。そして、自由落下運動が、連続的に加速されるといった表面的なことは観察されていても、その加速度がいかなる大きさのものかについては誰も言及していないと指摘している。ここには、古くから哲学者たちが運動の原理を実験で確かめることを怠ってきたことへの批判が込められる。
科学者たちは、根本原理を明らかにする最も重要な実験を「アルファ実験」と呼ぶ。ガリレオの試みは、まさしく「アルファ実験」と呼ぶに相応しい。本書は、現象に対する仮説を立てながら、数学的演繹法によって理論を構築し、実験的帰納法によって実証して見せる。その流れは芸術の域に達していると言っていい。これぞ物理学の原点というものではなかろうか。

登場人物は、ベネチア市民サグレド、新興科学者サルヴィヤチ、アリストテレス学派の学者シムプリチオの三人。対話は四日に渡って行われる。前半の二日では、構造力学や材料工学の面から問題が提示され、アリストテレスの機械学に対する疑問が議論される。後半の二日では、物体の運動の幾何学的原理に踏み込み、等速直線運動、等加速度運動、放物線運動について考察される。

1. 機械学
最初の題材として、材料の強度や密度といった構造的原理を扱っている点に注目したい。客観的な世界観では幾何学が最高位にあった時代、物体の運動はほとんど表面的な軌道が考察されてきたが、ここでは物体そのものへの構造的観点を与えている。まず材質の抵抗力について語られるのは、後述される自由落下運動で空間における媒体、つまりは空気や水といった物体に対する比重を持ち出すための布石であろうか。構造力学や材料工学という分野がまだ登場していない時代では、科学者の数学的客観性よりも職人たちの経験的直観の方が優っていたのであろう。科学的知識は理論に実践が結びつかなければものの役には立たない。それは、思想観念と似たような事情にあって、あまりに理想に偏り過ぎると、とんでもない事態を引き起こすであろう。
現実に、小さな船がうまく製造できたからといって、大きな船を製造するとなると単純にはいかない。生物の構造にも似たような事情がある。昆虫が体の何十倍もの高さから落ちても平気なのに(多分?)、人間は体の数倍の高さから落ちると骨折したりする。幾何学的には大小で相似形なのに、同じように設計してもうまくいかないのは、材料の選別や具体的な補強が必要となるからである。逆に、大きいほど製造誤差を相対的に小さくできるというメリットがあり、時計などの精密機械は小さく製造することの方が難しい。当時は、不完全な材料を微妙に感じ取る職人の方が、理論家よりも合理的だったのだろう。
また、同じように機械を設計して製造しても微妙に違いが生じる。同じ造船所で作られた同型船といえども完全に同じものはなく、同型の潜水艦でも音紋の違いが生じる。必ず機械には癖があって壊れ方に傾向があっても微妙に違う。その原因は、加工誤差の蓄積から生じると簡単に片づけられるのか?それとも物体の本質的な何かがあるのか?全く同じ物体なんてものは数学上の抽象概念であって、厳密には存在しないのかもしれない。

2. 自由落下運動と真空
アリストテレスは、落下速度は物体の質量に比例すると考えた。金の球は銀の球よりも二倍速く落下するということである。その根底には、真空の存在を否定する思想がある。アリストテレス学説では、あらゆる物体の運動はなんらかの媒体が相互に干渉して連動すると考える。だから、真空状態では互いに干渉する要素がないことになり、エーテル説を登場させることになる。
本書は、物体の運動を落下するものだけで論じるから、こうした誤謬を犯すと指摘している。空間になんらかの媒体が存在すると比重が問題になる。現実に、空気中で落下しても、水中では浮かび上がるものがある。重力に対して空気抵抗が問題となり、純粋な落下運動を観測することはできない。アリストテレスの時代、水に重さがあると分かっていても、よもや空気に重さがあるなどとは考えもしなかっただろう。
本書は、重さの異なる物体が真空中では同じ速度で落下することを説明する。その実験ではピサの斜塔伝説が有名であるが、それはヴィヴィアーニによる宣伝であって、実際には行われなかったというのが通説となっている。本書には大砲と銃の弾を使った実験が語られる。最も空気抵抗を受けにくいものとして火器を用いるのが適切だと語られるが、時代からしてマスケット銃が手っ取り早かったということであろう。そして、重力の概念を加速度という概念に発展させる。
そういえば、むかーし理科の先生が、真空ポンプで情熱的にデモンストレーションをやっていたのを思い出す。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいと分かっていても、酔っ払いの感覚はアリストテレスの世界で生活している。したがって、アルコール濃度の高い方が沈むのも速い。

3. 運動の法則と斜面実験
基本運動として等速直線運動、等加速度運動、放物線運動について言及している。等速運動は、運動の始まりを無視すれば永続的でなんの変哲もない。だが、等加速度運動となるとなんらかの外的な要因が必要となる。まさしく自由落下運動は重力の存在があって初めて説明がつく。等加速度運動は、速度のモーメントが時間に比例して増加するという単純な法則に従う。放物線運動は、等速運動と等加速度運動の合成と考えることができる。
水平方向の等速運動と垂直方向の加速度運動が合成されると、大砲の弾道のような放物線を描くわけだが、重力の正体が分からないとしても、重力によって及ぼされる運動の変化をドラマティックに綴っている。特に、あの有名な斜面実験で自然加速度運動の性質を述べるあたりは圧巻だ!実際に物体の落下運動を観察するには人間の目では速すぎる。水中を使えば現象を複雑化してしまう。そこで、斜面で自由落下を近似するというわけだ。
今日、物体の運動を時間の関数で扱うのは当り前であるが、改めて時間の観点が加わる様子に感動してしまう。斜面を三角形で図示すれば視覚的に分かりやすく、移動距離と辺や角度の関係から数学的に証明される。放物線の軌道を考察する時は、放物線求積法なるものを仮定して幾何学的に図示される。なるほど、ピタゴラス風の定理が満載され、運動法則の源泉はまさしく幾何学にあることを味あわせてくれる。

2010-12-05

"光学" アイザック・ニュートン 著

「光学」は、「プリンキピア」と並び評される。ニュートンは、光の分野でも前人未踏の功績を上げたことで知られる。ただ、「プリンキピア」がユークリッド風の公理や定理で展開されるのに対して、「光学」では公理化しようとする意図が感じられない。数学的に説明するのではなく、ひたすら観測に頼り、理論家というよりは実験家や職人という印象を与える。ニュートンの色彩科学とでも言おうか、プリズムを用いながら、天然色、透明薄膜の色、虹、あるいは気象現象から生じる色といったものを扱い、なんとなく小学生の頃に夢中になった「学習と科学」を思い出させる。理論だけでなく実験する遊び心にこそ、科学精神の源泉があるというわけか。
ところで、科学が知覚できる瞬間とは、どんな時だろうか?量子論を唱えたところで、素粒子が直接見られるわけではない。実験室はそうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。実験のプロセスにこそ想像力や独創力を顕わにし、伝記と呼べるほどの物語が生まれる。真の物理法則を体験するには極限の観測環境を構築しなければならない。それには熟練した技が要求される。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる」
科学者たちの情熱と執念が成功へと導かれた時、そこに一種の芸術を見せてくれる。

「光学」は、それまで信じられてきたアリストテレスの光の世界を急激に発展させた。無色透明の太陽光、すなわち白色光はデカルトをはじめ純粋な光だと考えられていたが、ニュートンは分光によって様々な波長が混じり合う複合光であるとことを解明した。彼が唱えた説は、伝統的な光の変改説に真っ向から対立するもので、その抵抗も大きかったようだ。その緻密な記述からは実験に対する細かな配慮が表れ、屈折の法則や色の合成についての公理や定理は、ほとんど実験によって証明される。ただし、中には要検討のものが含まれる。当初、曖昧な記述は避けたかったらしいが、疑問点が記載されるのは友人たちの説得によるものらしい。疑問をありのままの形で残すのは、後世の足掛かりになることを願ってのことだろう。
ニュートンは、光の色によって屈折率が違うと知るや、レンズで色収差は除去できないと屈折望遠鏡の限界を認め、反射望遠鏡を製作した。本書には、凹面レンズに反射させる望遠鏡の考察も詳細に記される。以前にも反射望遠鏡は考案されていたが、実用性をもたらしたのはニュートンが最初だそうな。
本書の流れからすると、まず実験ありきで、実際に現象を確かめた後に、数学の証明に着手したものと思われる。光の粒子説が優勢であった時代ではあるが、ところどころに波動性を示唆している。しかし、波動説を主張しているわけではない。波動性の推測が込められているのかもしれないが、なによりも思弁的なものを排除したのだろう。光の波動説を認めるならばエーテル充満説に対してなんらかの見解を示さなければならないし、仮説嫌いのニュートンには鬱陶しいことかもしれない。そして、歴史的にはヤングの干渉実験まで待つことになる。

本書は、光の正体を屈折性と反射性の二つの性質を主眼に置きながら説明しようと試みる。光が屈折するということは、光が物質を透過することを意味するだろう。だが、屈折の度合いを、物体の媒質にではなく光の色に依存するとなれば、光の粒子性だけでは説明できない。光が粒子であれば、透過する物体の粒子と衝突し、映し出される像がひずむであろう。しかも、透明な媒質という特異な関係がある。
では、透明とは、どういう状態なのか?物体と透過する光の間に作用が起こらない状態ということか?光の吸収や散乱が起こらないということか?現実に、雲や霧は光が散乱して透過できない。物体の色が綺麗に輝く状態は、汚れた状態よりも明らかに反射量が多い。不純物が付着すると光が散乱するからであろうか?技術革新が進めば、純度の高い透明材質のものが作られるが、単なる粒子の密度だけでは説明できそうにない。しかも、光の強度を変えずに透過しやがるし、周波数によっても屈折の度合いが変わりやがる。半透明という奇妙な状態までもありやがる。光は素直なようで素直でない。
光が宗教的にも信仰的にも崇められるのは、粒子性に波動性が加わるからであろうか?いや、光が特別扱いされるのは、人間の眼で知覚できるというだけに過ぎない。現在では、光は電磁波の一種とされる。電磁波は透明物質とは関係なく物質を透過する。人間の知覚できない領域では、あらゆる物体が見透かされているわけだ。夜の社交場でホットな女性が電磁波を放てば、男性諸君の心が見透かされるのも道理というものである。

1. 光の射線
「光が相継いで存在する粒子と、同時に存在する粒子の双方からなることは明らかである。」
本書は、光の最小粒子を「光の射線」と呼んでいる。屈折性とは、光の射線がある媒質から別の媒質を進む時、道筋を変える性向である。反射性とは、光の射線がある媒質から別の媒質の表面に衝突して、元の媒質に戻される性向である。
「任意の対象のあらゆる点からくる射線が、反射または屈折によって収束させられたのちに、再び同数の点で出会うところではどこでも、その射線が落ちる任意の白い物体の上に、その対象の画像を作る。」
これは、まさしく人間の眼の視神経構造と視覚の原理である。つまり、画像を再構築する点が、光が収束する眼底である。老齢になって眼の体液が減り、収縮のために角膜と水晶体の被膜が扁平になると、光は十分に屈折されず眼底の背後に収束することになる。これが老眼の原理というわけか。
屈折や反射は、物体が実際に存在する場所とは違った場所に映像を写す。それは、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、こちらの世界の住人である可能性を示唆する。
また、二つの光源から発する光が重なるところでは、光源からは物体が見えなくなる現象がある。2台の車の間でヘッドライトが重なる点では物体が見えなくなる、いわゆるハレーションというやつだ。ちなみに、ゴルゴ13は、刑務所から脱獄する時、二つ監視塔のライトが重なる点を脱出ルートに選んだ(Target.9「檻の中の眠り」)。

2. 光速
物理法則では、あらゆる物体の運動は光速を超えられないことになっている。これは、子供の頃からなんとなく納得させられながら、なんとなく疑っているところでもある。そもそも、これ以上ありえない速度をどうやって計測できるのか、という自己矛盾は生じないのだろうか?
「均質光は、その射線が拡張されて分裂もしくは破壊されることなく、規則正しく屈折される。屈折物体を通して不均質光によって見られた対象の混乱した視覚像は、各種の射線の異なる屈折性から生じる。」
屈折性は光の色の周波数に関係するのだろうが、周波数の違う電磁波のすべてが同じ速度というのも奇妙な気がする。真空で障害物もなければ、屈折も起こらないので、周波数成分に意味がないのかもしれないが。いずれにせよ、これ以上ありえない速度という何かの基準がなければ、宇宙の形成が説明できないのかもしれない。光速とは、有限性でありながら無限性を感じる不思議な存在である。そりゃ小悪魔の視線に無限性を感じてイチコロになるのも仕方があるまい。

3. 屈折光と反射光
「屈折光または反射光における色の現象は、光と影のさまざまな境界に応じて、さまざまに加えられた光の新たな変改によってひきおこされるのではない。」
これは、光が通過する媒質によって色の変改が起こるとする考えへの論駁である。アリストテレスは、虹の現象を扱いながら光の変改説を論じ、色は白と黒の混合から生じるとした。デカルトもこの変改説の側にいたらしい。現実に、色を複合すれば様々な色を構成することができるし、コンピュータ画像はRGB三原色によって構成されるので、感覚的に分からなくはない。
しかし本書は、すべての均質光は屈折の度合いに応じて固有の色を持っており、その色は反射と屈折によって変化させることはできないとしている。

4. 天然色
本書は、色と屈折率の関係から、天然物と永久色を説明している。天然物が様々な色に見えるのは、本来持っている射線を最も多量に反射する性向があるからだという。
「不透明な有色物質を構成する粒子の間には多くの空間がある。それは空虚であるか、もしくは密度の異なる媒質で満たされている。」
例えば、着色した液体の間には水があり、雲や霧を構成する水滴の間には空気がある。そして、堅い物質の粒子の間には、完全にいかなる物質もないとはいえない空間があるという。この主張を拡張すると、エーテル説に辿り着く危険性もあるが...
また、物質が有色であるためには、物質の粒子とその隙間は、ある一定の大きさ以下であってはならないという。
「物質を構成する透明な粒子は、それぞれの大きさに応じて、ある色の射線を反射し、他の色の射線を透過する。それは、薄層や泡がこれらの射線を反射または透過するのと同じ理由による。私はこれこそ物質のすべての色の原因であると考えている。」
現実に、暗闇では物体は見えない。なんらかの光を浴びせないと見えない。そうなると、物体を構成する粒子と浴びせる光の衝突によって、色が見えると考えても不思議はなかろう。
しかし、ここでは、物体の色が見える現象を、屈折と反射の原理に媒質と粒子の密度の関係を加えて説明し、反射の原因は、物質中の固い粒子への光の衝突ではないとしている。そして、物質の色が依存している粒子は、その隙間に充満している媒質より密であるという。

5. 回折性
本書は、科学の教科書でお馴染みの小さな孔を用いた実験で回折現象を紹介している。光の方向が曲がる現象は、アインシュタインの時空説を用いて重力の正体を時空の曲りとすれば、天体レベルでは想像できる。しかし、小さい孔を通して生じる回折では、その近辺に重力的な要素はない。「光が漏れる」とでも言おうか、説明できないことは文学的にならざるをえない。ニュートンは暗に光の波動性を匂わせたのであろうか?

2010-11-28

"プリンシピア" アイザック・ニュートン 著

デカルト、ライプニッツとくれば、次はニュートンであろうか...などとこじつける。
近年なぜか?古典を読みたいという衝動に駆られる。現代書よりも新鮮さを感じるからであろうか?現在の瞬間的な現象は、後世の歴史に照らしてみないと冷静に評価することが難しく、そのほとんどは評価の間もなく廃れていくだろう。現在まで生き残ってきた古典は、それだけ洗練されていることの証しであり、ハズレる確率が低いのは確かなようだ。

大学の図書館で「プリンシピア」を初めて見かけた時、その分厚さに圧倒されたか、枕にちょうどいいと思ったか、は定かではない。これを入手することは難しい。古書専門店でも見つけられず、ネットでは中古品に3, 4倍の値がついている。ということで市立図書館を利用した。実は、むかーしから注目している古典で図書館にもないものがいくつかある。電子書籍の話題で盛り上がる昨今、新しいメディアの果たす役割は未知数だが、古典パワーこそ見せつけてほしい。本書が、閉架扱いされ、おまけに特別参考室に保管されるのは、それだけ貴重な資料ということなのだろう。状態も良く、図書館職員の情熱が感じられる。尚、これを貸出期限2週間で読破するのは難しい。延長!延長!

ニュートンが生きた17世紀頃は、まだ純粋幾何学が客観性において最高の地位にあったようだ。あらゆる自然現象を数学の法則に従わせようとした基本思想は、現代に受け継がれる。
本書には、真理はすべて幾何学にあると信じ、合理的な力学はすべて幾何学で説明できるはずだという執念が感じられる。人間が直接感じられるのは重力であり、物理学は重力を中心に発展してきた。本書はそれを体現している。原著は、当時の慣例にならってアカデミックなラテン語で書かれているという。その形式は、ギリシャ幾何学書の体裁を整えユークリッドを彷彿させる。ニュートンは、今日の微積分法である「流率法」を発見した。本書にも微積分の概念が図示される。
本書は、序論と三つの編から構成される。
序論では、力学概念である質量、運動量、力をはじめ絶対運動が定義され、続いて、運動の3法則や力の合成分解の法則が記され、力学の理論的、方法論的な基礎が確立される。これらの基礎を踏まえて第I編と第II編では、物体の運動をひたすら数学的原理で記述される。客観的な考察ができないところは、数学的な記述よりも実験データを根拠にしている。少々異質に思える粒子による流体運動が持ち出されるのは、渦動説批判への布石か?あるいは、流体の渦巻状の運動を天体運動と重ねながら銀河系の形状を想像し、更には宇宙の形状を語ろうとしたのか?
そして、第III編では、無味乾燥的な考察に陥らないように哲学的論究を加えると宣言され、数学的原理が天体へと拡張され、いよいよ世界体系へと踏み込む。これが本編と言ってもいいかもしれない。それは、「プリンシピア」の正式名称が「自然哲学の数学的原理」であることからも納得できよう。
また、結びとして設けられた「一般注」では、「Hypotheses non fingo(仮説をつくらない)」という有名な言葉とともに、当時の風潮への批判がうかがえる。それは、デカルト派をはじめとする渦動説に対するものであり、いかにも仮説の嫌いなニュートンの性格が表れている。更に、敬虔なキリスト信者が到達した宇宙論とも言うべき神学の持論を展開する。ただ、宇宙論的世界観が唯一キリスト教と結び付くように語られるところに違和感があるが...

「プリンシピア」は、けして読み易い本ではない。専門用語でも現代感覚とは微妙に違うように映る。「物体の運動」といえば通常は位置の変化を表すのだろうが、ここでは運動量であったり、質量と速度の相乗積であったりと、少し想像を膨らませないと解釈しずらい。「物質の量」も、質量と解せば読みやすい。「正弦」は、高さと斜辺の比ではなく高さそのものを表したりと、言葉の使い方にも少々違和感がある。「モーメント」は力の能率といったものではなく、流率法特有の言葉で微積分における微小や増分に相当するようだ。
一つ一つの命題や定理は、明確な論理で記述されるので、じっくりと読めば理解できそうだが、物量作戦の感があって、これらを体系として解釈しようとするとたちまち難解な書となる。真理に近づこうとすれば、多くの場面で抽象的な表現からは逃れられず、科学書というよりは哲学書の性格を帯びてくる。そもそも人類が発明した体系で、絶対的な真理を語れるはずもないのだけど...

1. ニュートンの生い立ち
1642年、リンカーンシャー州ウールスソープに生まれる。父は一小農で、生まれる2、3カ月前に死去。母が再婚すると、母方の祖母と一緒にウールスソープに残される。12歳でグランサムの公立中学校に入り、ある薬剤師の家に住みこんだという。その薬剤師との出会いが化学に興味を持たせたようだ。
1656年、再婚相手が死去して母が再びウールスソープに戻ってくると、長子ニュートンに農場経営をさせるために学校をやめさせた。しかし、彼が農業に興味がないことが分かると、親戚の助言もあって、1661年ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに籍を置く。最初に影響を受けたのがケプラーの光学書だそうな。そして、ユークリッド幾何学を勉強して当たり前だと片づけてしまうと、デカルト幾何学に影響を受け独創的な数学の研究を始めたという。
1665年、ペストが大流行すると大学が閉鎖され、リンカーンシャーの農場に退避する。そして、光学や化学に集中できる環境を得て、重力理論の思索が始まる。この頃、二項定理や流率法を発見したそうな。後年ニュートン自身が、65年から66年の2年間が数学的で哲学的な思考が全盛であったと回想しているという。
1667年、ケンブリッジ大学でトリニティー・カレッジが再開されると、フェローに選ばれる。
その二年後、友人で師でもあるバロー博士の後を継いでルーカス講座の数学教授に任命される。幼年のニュートンは母の愛情に飢えていたとも言われ、後に、猜疑心が強く、異常に怒りっぽく、執念深く笑わない性格が形成されたとも言われる。王立協会では、よく会員たちと論争を巻き起こしたらしい。ニュートンは、自責の言葉を残しているという。
「まぼろしを追い求めて自分の心の平静という大きな恵みを手放す結果になったのは、自分の無分別のせいである」

2. 絶対性と相対性
本書は、絶対時間、絶対空間、絶対運動について言及している。
「真の運動と相対運動とが相互に区別されるその原因は、運動を起こすために物体に加えられる力である。真の運動は、物体にある力が加えられ、それによって動かされるのでなければ生成もされないし、変化もしない。しかし相対運動は、物体に何らの力をも加えることなしに生成され、あるいは変化する。なぜならば、そのめにはただ、この物体が比較されるべき、他の諸物体にある力を加えるだけで充分だからである。」
一般的に運動は、物体の位置の変化で定義される。つまり、相対的な位置関係が変化すれば、なんらかの運動が観測できる。だが、絶対的な場所が規定できなければ、絶対運動や絶対静止を観測することはできないだろう。つまり、人類は、いまだ真の運動の正体が分からないままでいる。強いて言えば、それは光速であろうか?そして、絶対運動を定義しようとすれば、自己言及に嵌り、ついには自己矛盾に陥るしかない。
人間が計測できる時計、つまりは物体の運動によって測れる時間は、相対的な見かけ上の時間でしかない。人間の認識能力は、周りの物体の運動を認識することによって生じる。人間の定義するという行為そのものが、相対的認識に過ぎない。すなわち、科学が認識できる物理現象は、あらゆる観測系に人間が認識できる時間の一方向性が介在するからこそ、生じる現象ということになろうか。その帰結は、エントロピーの可逆性は得られないということになろうか。だって、人間には時間は逆転できないとしか認識できないのだから...
もし、あらゆる物理現象に可逆性を観測することができれば、絶対運動なるものを認識することができるかもしれない。では逆に、相対的な運動や認識が絶対的なものになると、人間はどういう存在になるのだろうか?生命体そのものの意味が失われるのかもしれない。それは、人間精神が絶対的価値観に到達することを意味するのだろうか?

3. 物体の運動
微積分法のアプローチでは、ライプニッツと対立関係にあるとされる。
本書には代数学的な方法ではなく、幾何学的な作図法が用いられる。この視覚的概念は数学の入門者にとってありがたい。ニュートンの第2法則で力の定義を質量と加速度の積で示されるのは、お馴染みのやつだ。加速度は速度の変化率であり微分である。速度は物体の位置座標の微分である。つまり、軌道から微分によって力を求めることができ、力から積分によって軌道が求まることを意味する。
ここでは運動法則に微積分の概念が埋め込まれ、与えられた焦点から楕円運動、放物線運動、双曲線運動の軌道を導く方法が論じられる。考えてみれば、楕円の面積を考察する時に、極限的な求積法を用いるのは自然な発想のように思える。まぁ、既に導関数を学んでいるから、そう思えるのかもしれないが...
楕円方程式は、長半径a、短半径bとすると、以下のように表される。
x^2 / a^2 + y^2 / b^2 = 1
これは、x方向に x = a sin ωt で運動し、y方向に y = b cos ωt で運動しているとすると、以下のように導かれる。
(sin ωt)^2 + (cos ωt)^2 = 1
x = a cos(ωt + θ)としても、楕円であることに変わりはない。
ここには、三角関数の直交性質が表わされ、解析学の概念が内包されている。むかーし、フーリエ解析を楕円解析と言ってもいいじゃないかと思ったりもした。周期を持つという意味では円運動も波動も同じで、モジュロ計算という発想も成り立つだろう。酔っ払って目が回るのも、千鳥足という揺らぎも、空間運動としては周期的に同列に扱えるはず。だから、アル中ハイマーの年齢もモジュロ計算され、永遠に生まれ変わるというわけさ。

4. 世界体系
本書は、地球上の物体運動を考察する時にひたすら数学的原理を用いてきたが、天体運動を考察する段階になると詳細な実験データで補う。太陽系内の惑星と、惑星をとりまく衛星との位置関係や、軌道と周期を考察する時はひたすら観測データに頼る。太陽や月の軌道から潮の満ち干の観測、地球の自転と遠心力との関係から楕円球形になる観測、ハレー彗星の軌道予測など、ここには自然哲学と実験哲学の融合が見られる。目の前にある現実から、けして目を背けようとはしない一貫した姿勢には、執念のようなものがある。
太陽は不断の運動によって扇動されてはいるが、、太陽系の全惑星の共通重心から遠く離れることはないとしている。そして、世界体系の一つの推論を立てている。
「世界体系の中心は不動であること。」
推論であるからには仮説ではないか。んー、ニュートンらしくない。

5. 一般注
世界体系の最後に「一般注」が付けられる。これは重力に関するニュートンの総括である。ただ、あからさまに渦動説を批判している。ニュートンの運動法則がデカルトの影響から生まれたのは間違いなかろう。デカルトは、自然界が一つの機械であると考え、慣性力や運動量保存の法則を導き、更には渦動説を唱えた。渦動説とは、物体の運動は互いに接触して押し合うことで生じることを前提とし、宇宙空間に充満する物質の存在がなければ天体は動かないとする仮説である。この思想がエーテル充満説を登場させた。
ただこの時代に、ルネッサンスの自然主義、あるいは自然魔術的な思想が流行り、占星術や錬金術に勢いがあったことに注意せねばなるまい。その中にはオカルト的な思想も蔓延り、まさしく磁石には魔術のような香りがしたことだろう。磁力とは不思議なもので、真空であっても物質を引き寄せる何かを感じる。ホットな女性の周りには磁界が生じ、あらゆる男性を引き寄せれば、空間に小悪魔の存在を前提しなければ説明できない。いずれにせよ、引力の正体を何かに求めることになる。ケプラーは引力を天体間の磁力で説明しようとしたのだろうか?
本書によると...
渦の運動でケプラーの第2法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の2乗に比例しなければならない。しかし、ケプラーの第3法則を説明しようとすれば、渦の各部分の周期は太陽からの距離の3/2乗に比例しなければならない。より小さな渦が他の惑星の周りで小さな公転を保持し、しかも、太陽のより大きな渦の中で乱されることなく泳ぎうるためには、太陽の渦の各部分の周期は相等しくなければならない。しかし、これらの渦運動と一致するはずの太陽や惑星の自転運動は、それらの比率とはまるでかけ離れている。つまり、渦動説からは、太陽や惑星の自転や公転の周期、はたまた彗星の軌道もまったく説明できない。
...と指摘している。
更に総括では、重力理論を神学の領域にまで押し上げる。
「全知全能の神は、世の霊としてではなく万物の主としてすべてを統治する。そしてその統治権ゆえに「主たる神」あるいは「宇宙の支配者」とよばれるのが常である。なぜなら、神というのは相対的なよび名であり、僕(しもべ)に対してかかわりをもつものであって、神性とは、神を世の霊であると空想する人びとが考えるように、神自身の体へのその君臨ではなくて、僕(しもべ)の上に及ぶ支配だからである。至高の神は、永遠、無限、かつ絶対に完全な存在者である。しかし、たとえどんなに完全であっても、支配を欠く存在者は主なる神とはいえない。」